礼拝説教 2015年9月13日 主日礼拝

「人知を超える」
 聖書 フィリピの信徒への手紙4章2〜7  

2 わたしはエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。
3 なお、真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげてください。二人は、命の書に名を記されているクレメンスや他の協力者たちと力を合わせて、福音のためにわたしと共に戦ってくれたのです。
4 主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。
5 あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。
6 どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
7 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。




     教会内の対立

 本日の聖書個所には、最初に二人の婦人の名前が出てきます。エボディアという人と、シンティケという人です。この二人の名前は、聖書ではここにしか出てきません。問題は、この二人がどうやら対立していた、あるいは仲違いしていたようなのです。しかもパウロがフィリピの教会のみんなに読むように宛てて書かれたこの手紙に名前が記されているのですから、かなり深刻な対立であったと言えるでしょう。
 二人とも、3節に「福音のために私と共に戦ってくれた」とパウロが書いていることから、古くからのフィリピの教会員だったようです。パウロが最初にキリストの福音を宣べ伝えた時のことは、使徒言行録16章に書かれています。そこで主は、リディアという女性を最初に信仰に導かれ、彼女の家が家の教会としてフィリピの教会となったと思われます。その最初の頃、この二人の婦人は主によって信仰に導かれ、教会に加えられたと思われます。
 そのようにフィリピの教会の古くからの会員であり、また熱心に奉仕をしてきたと思われる二人が対立をしている。これはたいへん深刻な問題です。周りの教会員たちも、非常に困っていたことでしょう。なぜ二人が対立しているのか。その理由は、ここには何も書かれていないので分かりません。しかし、熱心だからこそ、お互い譲れなくなって、仲違いする、あるいは対立が深まっていくということは、この世の中では時々起こることであると言えます。そのようなことは、私自身も経験してきたことです。しかしそれは、この世の団体ならばしかたのないことですが、問題は、それが神を信じ、キリストを信じる教会の中で起こっているということです。
 教会の中で争っている。これは非常に深刻です。たとえば、このフィリピの信徒への手紙は「喜びの手紙」と呼ばれていると、今までに申し上げてきました。パウロはこの手紙を書いている時に未決勾留の囚人でした。明日にも死刑の判決が出るかも知れないという境遇に置かれていました。にもかかわらず、主イエスを信じることによって喜びへと変えられる。そういうことが述べられてきました。しかし、争い、仲違いというものは喜びを奪ってしまいます。「福音」というのは、「喜ばしい知らせ」という意味です。ですから、教会は福音が語られる場所なのに、その喜びが失われる。すなわち、福音が崩壊してしまうのです。
 パウロはこの前のところで、福音を破壊してしまう、誤った教えに注意するよう警告しました。今度は、仲違いによって福音が失われている。このことについて、解決しようとしています。

     主において

 ここで注目すべき言葉は、「主において」という言葉です。それはきょうの個所では、2節と4節に出てきます。
 「主において」、それは「主にあって」と訳されることもありますが、なかなか翻訳するのが難しい言葉であると思います。ギリシャ語では「エン・キュリオー」という言葉です。「エン」というのは英語では「in」に相当する言葉ですから、英語にすると「in the Lord」となります。ですから、「主の中で」という意味にもなります。あるいは、分かりやすく「主を信じて」とか「主にすがって」と訳すこともできるでしょう。使徒パウロは、この「主において」「主にあって」、あるいは「キリストにあって」という言葉をよく使っています。たいへん重要な言葉であると言えるでしょう。
 きょうの聖書個所で「主において」という言葉がないと、どういうことになるでしょうか。2節は「主において同じ思いを抱きなさい」ではなく、単に「同じ思いを抱きなさい」ということになります。「同じ思いを抱く」というのは「一致する」とも訳せますので、「一致しなさい」という命令になります。また4節は、「主において常に喜びなさい」ではなく、単に「常に喜びなさい」という言葉になってしまいます。
 そのように、「主において」がなくなると、単に「一致しなさい」、「常に喜びなさい」と命令しているだけになってしまいます。一致していない者同士に「一致しなさい」と命じるのは、ある意味当然かも知れませんが、彼女たちは反対に「なんでこんな人と一致しなければならないの?!」と怒ってしまうかも知れません。あるいは、対立し、争っているのですから、「一致しなさい」と言われて一致できるような簡単なことではないに違いありません。「喜びなさい」も同様で、お互いに争い、張り合っているから喜びが失われているわけですが、なのに「喜びなさい」と言われても、そんなことは無理だ、で終わりになるでしょう。
 そう考えてみると、パウロが使っている短い言葉、「主において」という言葉が、いかにたいせつであるかということが分かってきます。お互い一致できない、お互いのことで喜べない。しかし、「主において」であるならば、そうではなくなる。お互いに相手を見るのではなく、主イエス・キリストを見るのです。
 3節に「命の書に名を記されているクレメンス」とあります。「命の書」というのは、天国に国籍があるということです。すなわち、ここでは命の書に名前が記されているのはクレメンスだけではなくて、エボディアもシンティケも、同じように命の書に名前が記されているのです。「あなたたちも二人とも、命の書に名前が記されているでしょ。そのことを忘れないで」と言いたいのだと思います。
 すなわち、対立しているエボディアとシンティケも、二人とも命の書に名前が記されている、すなわちイエス・キリストによって神の国に迎え入れられている。エボディアに向かっては「あなたの嫌いなシンティケも、イエス・キリストによって救われ、天の国の住人となっているよ」と語り、シンティケに向かっては、「あなたの嫌いなエボディアもイエス・キリストによって救われて天の国の住人になっているよ」と語りかけているに等しいのです。二人とも命の書に名前が記されている、イエス・キリストによって赦され、救われている。神の国の住人として登録されている。そのイエスさまが決めたことに従いなさい、ということであり、そのイエスさまを見なさい、ということでもあります。

     イエス・キリストの弟子を見ると

 実際のイエスさまの弟子、12使徒にどんな人がいたかを思い出してみましょう。すると、イエスさまの弟子の中には、徴税人のマタイと熱心党のシモンが共にいたことをご記憶かと思います。
 熱心党というのは、ユダヤ人の民族主義者です。占領国であるローマ帝国を憎む、今日流にいえば右翼愛国主義者です。いっぽう、徴税人というのは、占領国であるローマ帝国の税金を徴収する人です。ローマ帝国と協調してやっていきましょうという人たちです。ですから、熱心党から見れば、徴税人は民族の裏切り者であり売国奴に他なりません。
 ところが、そのように本来ならば水と油、敵対する者どうしが、同じイエスさまの弟子となっている。一緒にいることができる。それはなぜでしょうか?
 それはイエスさまがおられるからです。二人がイエスさまのもとにいるからです。そのイエスさまが、熱心党のシモンも、徴税人のマタイも、他の弟子たちも、同じように受け入れ、愛していくださっているからです。
 5節でパウロは「主はすぐ近くにおられます」と述べています。徴税人のマタイと熱心党のシモンが主のもとにいたように、エボディアよ、シンティケよ、あなたたちのすぐ近くにイエスさまがおられるのだ、と。お互い、向き合ってはダメです。向き合うのではなく、すぐ近くにおられるイエスさまを見なさい、ということです。お互いを見るのではなく、イエスさまに目を留めよ、と。
 そうして「主において」の言葉に戻りますが、2節の「主において同じ思いを抱きなさい」は、お互いに同じ思いを抱けるはずもないかも知れないが、二人とも主に招かれ同じイエスさまの弟子とされていることに心を留めなさい、ということにもなります。4節は、お互いに主イエスによって愛されている、救われている、そのことを心に留めたならば喜べるはずだ、ということにもなります。

     人知を超える神の平和

 6節〜7節では、エボディアとシンティケ以外の人々に対しても述べています。「思い煩うことをやめて、感謝を込めた祈りと願いを神にささげよ」と。思い煩いというのは、神さま抜きです。人間の頭の中で、困った、困ったと悩みます。あーでもない、こーでもない、と悩みます。人がアドバイスをしても、「それでもダメだ」と言い、悪い方へ悪い方へと考えが傾き、何の解決にもなりません。あんまり悩みすぎて、ノイローゼになってしまいます。使徒パウロは、そんなことはやめて、全能の神さまにすがりなさいと言っているのです。それが祈りです。
 7節に「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなた方の心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」。ここで「平和」と訳されている言葉ですが、これはヘブライ語で言えば「シャローム」に相当する言葉です。祝福が伴います。新共同訳聖書は、なぜか「平和」という言葉が好きなのですが、ここはむしろ前の聖書のように「平安」と訳したほうが分かりやすいでしょう。
 人間の頭であれこれと思い悩むよりも、全能の父なる神にゆだねなさい、ということです。そうすれば、私たちの予想もしないような平安が心を守ってくれる、と。ここでも「キリスト・イエスによって」という言葉、「エン・クリストー・イエスー」が出てきます。主において、キリストにおいて、です。それは神さまの力、イエスさまの力です。
 前に申し上げたことがありますが、私にもよく眠れないということが、たまにあります。いろいろなことを考えてしまって、思い煩って眠れないということが。そんなときどうするか。私は決定的な解決方法を知っているので、それを実行します。それは、祈るということです。布団の中で横になったままで良いんです。
 ただ祈るのではありません。この場合、二つの方法があります。それは「幕屋の祈り」という祈りの方法と、もう一つは「主の祈り」です。「主の祈り」はみなさんよくご存じですが、ただ主の祈りを何度も唱えるのではありません。主の祈りの一つ一つの言葉を、具体的に祈っていきます。たとえば主の祈りは最初は、「天にまします我らの父よ」ですが、「神さま、あなたが私たちの真の父でいて下さることを感謝します。天国があるということを感謝します。あなたが私たちを愛するこどもとして下さっていることを感謝します‥‥」という具合に、主の祈りの言葉を掘り下げて、一つ一つの言葉を具体的にイメージして感謝を祈っていくのです。
 次の「願わくは御名をあがめさせたまえ」では、これは神さまの名前があがめられ、信じられ、礼拝されるように祈ります。まず自分のことから祈ります。「神さま、私があなたを信じ、本当に礼拝する者となりますようにして下さい。」続いて、身の回りの人が神さまをあがめるように祈り願っていきます。家族が神を信じて礼拝するように、遠くにいる親戚が御名をあがめるように、友人が御名をあがめるように、あの人が御名をあがめるように、あの人が御名をあがめるように‥‥と、どんどん輪を広げていきます。
 このようにして、主の祈りを自分自身に具体的に結びつけて、深めて祈っていくのです。そうすると、たいてい、最後の「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」までたどり着かないうちに眠ってしまっています。
 本当に主を信じるということはすばらしいと思います。「主において」「キリストにおいて」生きることができます。そのとき、私たちは、今日もう一個所読んだ創世記28章で、石を枕に野宿したヤコブが、天国の階段の夢を見て、神がそこにおられることを体験したようなことを経験するでしょう。そしてヤコブが言った言葉、「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」という体験をすることができるでしょう。

(2015年9月13日)



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