礼拝説教 2015年8月23日 主日礼拝

「天の本国」
 聖書 フィリピの信徒への手紙3章17〜4章1  

17 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。
18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。
19 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。
20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。
21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。
4:1 だから、わたしが愛し、慕っている兄弟たち、わたしの喜びであり、冠である愛する人たち、このように主によってしっかりと立ちなさい。




     北陸中高生キャンプ

 先週月曜日から水曜日まで、妙高高原で行われた北陸の中高生キャンプに行ってまいりました。そこでの恵みを最初に分かち合いたいと思います。
 それはある若い神学生がしたあかしです。彼はあるキリスト教主義学校に入学し、通うことになりました。学校の宿題で、初めて教会の礼拝にも何度か行ったそうです。しかし、出席してみて、聖書は自分とは全く関わりない世界だと感じたそうです。興味もわかなかった。それで、朝学校で行われる礼拝の時間もサボるようになったそうです。そして高校と同じ系列の大学へ進みました。そしてしばらくは教会へ行くこともなかったそうです。
 しかし、あるとき、何の気なしに、高校の時もらった聖書をチラッと開いてみたところ、心が惹かれたそうです。なぜかは分からなかったそうです。そしてまた教会へ行ってみようと思ったそうです。そうして教会へ通うようになった。教会へ行くと「罪」「罪」という。なぜそのように「罪」と言うのか分からなかったそうです。しかしそのうち自分が罪人であると、ハッと気がついた。教会、聖書、イエスさまが、自分とは無関係ではないことが分かったのだそうです。そして洗礼を受けてもよいのだろうかと思った。そしてあるとき、大学のチャペルの礼拝で、ルカによる福音書15章の「放蕩息子のたとえ」が読まれたそうです。そのたとえ話では、父親が放蕩の限りを尽くした息子を待っていましたね。そのように、神さまが、罪人である自分を待っていてくださったことに気がついたそうです。こちらが決断するかしないかではなく、父なる神さまが放蕩息子が帰ってくるのを待っていてくださった。自分を待っていてくださっていた。そのことが分かって、3年前、洗礼を受けたのだそうです。
 そういうあかしを聞くことができました。そのように、自分がどうこうしたというのではなく、なぜか分からないが聖書を読んで心が惹かれ、また罪が示され、そしてこんな自分を待っていてくださる神さまが分かった。‥‥それは神さまの奇跡による導きであることが分かります。

     私に倣う者となりなさい

 さて、今日の聖書でパウロは「兄弟たち、皆一緒に私に倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、私たちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい」(17節)と述べています。
 「私に倣う者となりなさい」。こんなことを言えるのは、どういう人でしょうか。ふつう考えられるのは、よほど自信家で、なおかつごう慢な人でしょう。たいして立派でもないのに、「俺に見習え」なんて、なんとごう慢な人でしょう!と思うのではないでしょうか。あるいは、本当に立派な人がこのように言うのかも知れません。しかしこれも、本当に立派な人は、決して「私に倣う者となれ」とは言わないだろうなあ、と思います。いったいパウロはなぜこんなことを、臆面もなく言うのでしょうか?
 そもそもパウロは「私に倣う者となれ」とはどういう意味で言っているのでしょうか。それは次の18節と関係しています。

      十字架に敵対する者

 「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが」(18節)という表現は、パウロがフィリピの教会の人たちに対して、心から、切々と訴えている様子がうかがえます。そのような心で、「キリストの十字架に敵対して」歩まないように、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者に惑わされないようにと訴えています。
 キリストの十字架に敵対して歩んでいる者とは、どういう人々のことでしょうか。他の宗教の人々のことでしょうか。そうではありません。ここはやはり、3章2節から続いて述べられていることの続きであると考えるべきでしょう。すなわち「あの犬ども」とパウロが口を極めて警告している人々です。すなわちそれは、割礼主義者であり、律法主義者でもあり、実績主義者である人々です。私たち人間が救われるためには、イエス・キリストの十字架も大切だけれども、それだけでは不十分だと主張する人々です。イエス・キリストの十字架だけでは救われるのに不十分であり、自分たちの行いがプラスされなければ救われないという教えを述べている人々です。
 その人々に対してパウロは19節で、「彼らは腹を神」としていると述べています。ここで言う「腹」とは、人間の欲望のことです。食欲、肉欲のたぐいです。彼らは自分の腹を満たすために、自分の欲望を満たすために信仰をしているということです。神さまをあがめるために信仰をしているのではなく、自分が良い思いをし、あがめられるようにするために信仰をしている。
 そのように言うと、「しかし律法主義者は、厳しい戒律を重んじ、断食をしたりしているではないか」と思う方もいるでしょう。「それがなぜ、自分の欲望を満たすことになるのだ?」と思う方もいるでしょう。しかし実はそうなるのです。なぜなら、厳しい戒律を守っているけれども、それは神さまが褒め称えられることを願っているのではなく、自分がほめたたえられることを願っているからです。「あの人は立派だ」と言われたいためにそうしているからです。一見信仰深そうに見えて、実はこの世のことしか考えていない。神さまの方を向いているのではなく、自分の方を向いている。イエスさまの方を向いていない。

     本国は天に

 つまりここは、前回の個所と同じように、人生どこをむいて歩むのか、という話です。こんな自分のような罪人でも神の国から迎えに来てくださるイエスさまを見よ、ということです。
 20節で「わたしたちの本国は天にあります」と言っています。これは前の聖書では、「わたしたちの国籍は天にある」と訳されていました。わたしたちは、イエスさまを信じることによって、すでに国籍が天国にあるんです。割礼主義者、律法主義者の言うように、戒律を守ったり善行を積馬なくては天国の国籍はもらえないのではない。イエス・キリストを信じることによって、すでに与えられている。だからそちらへ向かって、揺るぎなく歩んでいこうということです。
 4章1節では「このように主によって、しっかりと立ちなさい」と言われています。こんな自分たちでも、キリストが天の国に迎え入れてくださることを期待できる。わたしたちの救いを完成してくださる。そのことを確信して動くな、惑わされるな、と。励ましています。
 このような希望、確信はすべてキリストの十字架のおかげです。この罪人であるわたしたちの罪を、イエスさまが十字架にかかって赦してくださった。そのキリストを頼るのです。自分を頼るのではない。キリストを頼る。自分の義を頼るのではなく、キリストの義、すなわち十字架を頼りとする。パウロはそのようにして歩んでいる。罪人であり、お粗末この上ない自分を救い、迎え入れてくださるキリストを頼って歩んでいる。それに倣う者になれ、というのがきょうの個所です。「立派な私に見習え」というのではありません。「立派ではない私を救い、天国に迎えてくださるキリストを頼っている、自分ではなくキリストを頼っているこの私に見習え」ということです。それが福音信仰です。

     変えられる

 さて、そのように「行いによって救われるのではなく、ただキリストを信じる信仰によって救われる」というキリストの福音の信仰を考えてまいりますと、一方で疑問がわいてくるのではないでしょうか。それは、「罪人のままで救われる、行いがなくても救われるのなら、ダメな自分のままで良いのか?」という疑問です。
 そのことについて21節で述べられています。万物を支配下に置くことさえできるキリストの圧倒的な力によって、このわたしたちの卑しい体をキリストの栄光ある体と同じ形に変えてくださる。ここで注意しなければならないのは、自分で変わるのではなく、「変えてくださる」ということです。キリストが。この私たちを。変わるのではなく、変えてくださる。
 さらに言うならば、救いの順序です。その順序が大切です。すなわち割礼主義者、律法主義者が言うように、まず良い人間になって、良い人間にがんばって変わって、それから救われるのではない。まずイエスさまを信じることによって罪人のまま救われる。天の国籍をいただく。それからわたしたちをよく変えてくださる。‥‥この順序が大切です。まずありのままのこの私が、何の功績もないのに、イエス・キリストを信じることによって救われる、天の本国が与えられるのです。それから、キリストと同じ形に変えてくださるということです。
 またもう一つの疑問があるかも知れません。それは「どんな罪を犯しても赦されるのなら、何をしても良いのか?」という疑問です。
 それについては、戦後活躍した小説家の椎名麟三の言葉を思い出します。それはまだ椎名麟三が信仰にいたっておらず、迷いの中にいたときの話です。彼はドストエフスキーの「悪霊(あくりょう)」という小説の中のやりとりに心を惹かれたというのです。小説の中で、キリーロフという人が「人間はすべて許されている」と言う。それを聞いたスタヴローギンという人がそれを追求して、それでは子供の脳みそをたたき割っても、少女を陵辱しても良いのかと尋ねる。それに対してキリーロフは、それも許されている、ただ、「すべてが許されていると本当に知っている人間は、そういうことをしないだろう」と答える。
 このところで椎名麟三は、心を打たれたそうです。「すべてが許されていると本当に知っている人間は」と「そういうことをしないだろう」の間には深い断絶がある。この断絶から、なにやらまぶしい光がサッと私の心に射すのであった‥‥と椎名麟三は書いています(『私の聖書物語』)。すべてが許されていると本当に知っている人間は、子供を殺したり少女を陵辱したりするのは平気であるというのなら話は分かるが、そうしないだろうなんていうことはどうしても分からない。だがそれは、八方ふさがりで生きて行く道を失った椎名麟三にとって、自分の知らない道を暗示しているようで、いつまでも心に残っていたといいます。
 そして、この「すべてを許されていると本当に知っている人間は」が「そうする」ではなく「そうしないだろう」転換する点に実はキリストが立っているのであり、このような転換はキリストにおいてだけ可能なのだと知ったのはずっと後のことだった‥‥と記しています。
 キリストの奇跡にゆだねる。イエスさまのほうを見つめながら、キリストのなしてくださる奇跡にゆだねる。そのような歩みであると言って良いでしょう。

(2015年8月23日)



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