礼拝説教 2015年8月16日 主日礼拝

「ゴールに向かって」
 聖書 フィリピの信徒への手紙3章10〜16  

10 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、
11 何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
12 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。
13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、
14 神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
15 だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。
16 いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。




     逗子教会創立記念日

 逗子教会は、昨日の終戦記念日である8月15日をもって教会創立67周年を迎えました。1948年(昭和23年)8月15日、宮崎繁一牧師により第1回礼拝がこの地でもたれました。未完成のコンセットハット(アメリカ軍の払い下げの宿舎)にて、腰掛けもなく古材の柱を4本重ねてその上に新聞紙を敷いて腰掛けとし、講壇には大きな箱を逆さまにして用いた。聴衆は5名であったと、当教会60年史に書かれています。
 終戦によって、日本はそれまでのキリスト教会への抑圧が終わり、一転して若い人々が教会に集まってくるようになりました。アメリカ海軍横須賀基地司令官として着任したデッカー提督は、キリスト教に基づく復興を提唱しました。それによって、接収された横須賀の旧海軍工機学校には青山学院横須賀分校、そのほか横須賀基督教社会館、衣笠病院、聖ヨゼフ病院‥‥などが建てられていきました。青山学院横須賀分校は、学校の事情でまもなく撤退しましたが、地域の牧師や信徒の協力によって横須賀学院が誕生しました。
 そういうキリスト教が戦後復興の一つの軸となる三浦半島の情勢の中で、逗子教会も誕生したと言うことができるでしょう。それから67年。逗子教会はどこに向かっていくのか? あるいは、 どこに目標を置くのか? そのことを心にとめながら、今日の御言葉から恵みをいただきたいと思います。

     復活というゴール

 本日の聖書個所は、私たちが今手にしている新共同訳聖書を見ると12節から新しい段落としていますが、私は10節からとしたほうがよいと思っておりますので、そのようにいたしました。なぜなら、10節からキリスト者の「目標」ということについて語られているからです。
 10節11節では、使徒パウロが「復活」というゴールを目標に置いていることが分かります。そしてそこを目指して、この地上を走っているということが、続く節で語られています。

     勘違い

 さて、本日の聖書個所は、たいへん有名で印象的な聖書個所であると言えます。とくに13節〜14節は、多くのキリスト者がよく知っている個所でしょう。そこでは、復活という賞を得るために、パウロが一生懸命に努力をしているという印象を受けます。陸上競技場でレースを走っていることにたとえられています。
 そしてそのように努力しているパウロに比べて、自分たちはなんと努力が足りない、頑張りが足りないことかと、悔い改めが求められる。そのようにお感じになる人が多いように思います。「もっとがんばれ!」と。オリンピックを目指しているスポーツ選手が、オリンピックに出るために必死になってトレーニングするごとくにです。あるいは受験生が志望校に入るために人一倍、自分にむち打つようにして必死に勉強するように。
 信仰においても、同じように考えてしまうのではないでしょうか。「もっとがんばれ」「そうしないと天国に行けない」と。そしてそういう考え方は、むしろ受け入れやすいものだろうと思います。
 しかし私は、ある出来事を思い出します。それは輪島教会の牧師をしていたときのことです。むかし、「教会には聖霊がない」と言って、キリスト教を名乗るある団体に行ってしまった方がいました。その方が十数年のブランクを経て、教会に戻ってきたのです。そして私に言いましたのは、その宗教団体で彼は、最初はその熱心な信仰姿勢に感銘を受け、熱心に奉仕していたそうです。ところが、だんだんと重荷になってきた。たとえば、今度はイスラエル、次は台湾に行って伝道しようと言われる。しかし毎度毎度出かけてばかりはいられない。すると、「不信仰だ」と言われて裁かれるのだそうです。それでだんだん疲れていって、体も壊し心もボロボロに疲れてしまった。それで教会に帰ってきたのでした。
 ここでパウロが書いているのは、そういう宗教団体のようなことなのでしょうか。

     行為義認主義者との違い

 それは違うと言わなければならないでしょう。この個所は、前の個所から続いている考えるべきです。そうすると、2節でパウロが「あの犬ども」と言った問題が続いて語られていると考えなければなりません。
 それは割礼主義者、ユダヤ教律法主義者の問題でした。割礼を受けなければ救われない、モーセの律法を守らなければ救われない、という人々です。すなわち、神さまに救われるためには、キリストを信じただけではダメであって、自分の行いがなければダメなのだ、と主張する人々です。すなわち、たしかにイエス様がわたしたちの罪を背負って十字架にかかってくださったのだが、それだけでは不十分なのであって、割礼を受けるとか、善行を積むとか、そういう行いがプラスされないと救われないのだ、ということです。
 もう少しわかりやすく言えば、天国に入れてもらうというときに、「イエス・キリストを信じています」だけでは足りないのだという主張です。さらに、割礼を受けました、モーセの律法を守りました、こんなに人助けをしました、「だから入れてください」というのでなければダメなのだ、という教えです。
 むしろそのような考え方のほうが、普通は受け入れやすいのではないでしょうか。いくら何でも、イエスさまを信じるだけでは不十分でしょ、と思えるのが普通です。
 しかしパウロは、そのような考え方を「あの犬ども」と切り捨てています。9節では「律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義」と述べています。「義」とは、救われるということです。そのようにパウロは、ただキリストのみ、十字架のみであると、強調しているのです。

     捕らえられて

 12節は、いっけん矛盾しているようにも見えるのではないでしょうか。「なんとかして捕らえようとしている」と語りながら、一方では「自分がキリスト・イエスに捕らえられている」と述べている。いったい、捕らえているのかいないのか、こんがらがりそうです。
 しかしここは丁寧に読むと、まず自分がキリストによって捕らえられているということが述べられている。自分は罪人であるのに、キリストが捕らえてくださった。特にパウロは、キリストを信じる前は、キリスト教徒を激しく迫害した人物です。とてもキリストに捕らえていただく資格がなかった。にもかかわらず、キリストはわたしを捕らえてくださった。そういうキリストの恵みが言われている。
 しかし自分はまだ捕らえていない。何を捕らえていないかというと、復活に達していない、復活に至っていない。それは当然と言えば当然です。復活というのは、この肉体が死んだあとのことですから。まだパウロは生きているのですから。ですからここは、キリストはこんな自分のような罪人を捕らえて、キリストのものとしてくださった。その自分は、まだ捕らえていない、つまり復活に達していない。だから復活というゴール、目標をしっかりと見て走って行こうというのがこのパウロです。
 自分の犯してきた罪、過ち、失敗‥‥そういうものは、キリストが赦してくださった。そんな自分を捕らえてくださった。だから「後ろのもの」は忘れて良いのである! 何かと過去に引きずられる私たちです。「あのときあんな失敗をしなかったら良かったのに」、「あのとき置かした自分のあやまちを思い出すと苦しい」‥‥。パウロにしてみれば、キリスト信徒を迫害して、死に追いやりもした。取り返しのつかないことをしてしまった。しかしそれをキリストは赦してくださった。イエスさまがわたしの代わりに十字架にかかって、罪の罰を受けてくださった。
 だからこんな私でも、復活という神の国のゴールを目標に持たせていただくことができる。神がキリストの名において私を捕らえ、神の国へと招いてくださっている。だからそちらに向かって喜んで走って行くことができるのだ、と。

     目標

 しかしその喜びを奪うのが、「犬ども」割礼主義者、行為義認主義者です。彼らは、「おまえはそのままでは目標は与えられない。キリストを信じるだけではダメだ」と言う。しかしパウロはそれに対して、断固としてNO!と言っているわけです。キリストがわたしの代わりにかかってくださった十字架で、十分わたしの罪は赦された。あがなわれた。だからこんな私でも、神の国の目標、復活というゴールを目指して進むことができる。そのゴールを見て、喜んで向かっていこう!主イエスを信じ続けていこう!‥‥というのがこの個所であると思います。天の目標を見て信じ続けるのです。
 逆に目標がないとどういうことになるのでしょうか。
 私は、輪島教会にいたときに特別伝道集会でお招きした故・冨山光一先生(もと伊勢の山田教会牧師)の説教を思い出します。冨山先生は、戦争中は日本軍兵士として南方戦線にいたそうです。しかし終戦となって連合軍に捕らえられ、東南アジアの捕虜収容所へ送られた。そしてあるとき、元日本兵たちは炎天下に外で穴を掘る作業を命じられたそうです。スコップでいっしょうけんめい汗水流してようやく大きな穴を掘った。すると今度は、それを埋めろという。せっかく掘ったのに埋めろという。「おかしな命令だな」と思いつつ、今度はその穴を埋めた。すると今度は、また「穴を掘れ」という。連日、穴を掘ってはその同じ穴を埋め、掘っては埋め、の繰り返しを命じられる。つまりそれはイジメであり、連合軍のその隊長による仕返しだったのです。
 そのようなゴールのない、いつ終わるとも分からない意味のない繰り返しの作業をさせられて、倒れる者、発狂する者が続出したという経験をお話になりました。そして、そのように目標がないということは、どれほどつらく苦しいことであるかということをお話になったのです。
 人生も同じではないでしょうか。目標がない人生は疲れ果てるばかりです。ゴールのないマラソンを走っているようなものです。不安と苦しみでいっぱいになってしまうことでしょう。あるいは、目標があったとしても、それが実現不可能な目標であれば、同じことです。それは単に絵に描いた餅に過ぎず、やはり希望を失い、精も根も尽き果ててしまうことでしょう。人生は苦しいものとなるでしょう。
 しかし私たちには目標が与えられています。実現不可能な目標ではありません。イエス・キリストによって、このわたしにも栄光に輝く復活のゴールが与えられているのです。それを見失わないで、キリストを信じ続けようということです。わたしが立派だからではない。わたしが何か徳が高いから、ゴールが与えられたのではない。ただキリストのおかげです。

     逗子教会の目標

 逗子教会はどういう目標を持つべきでしょうか。会堂に集う人もそろそろいっぱいになってきたし、もう良いか、と言うのでしょうか? 神さまは、イエスさまはどのように願っておられるでしょうか?
 私たちの主は、すべての人がキリストを信じて救われることを願っておられます。すなわち、この礼拝堂がいっぱいになることが目標なのではなく、この地域のすべての人々がキリストのもとに導かれ、共に主を礼拝するようになることが目標です。その思いを新たにいたしたいと願います。

(2015年8月16日)



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