礼拝説教 2015年8月9日 主日礼拝

「損失と利益」
 聖書 フィリピの信徒への手紙3章2〜9  

2 あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい。
3 彼らではなく、わたしたちこそ真の割礼を受けた者です。わたしたちは神の霊によって礼拝し、キリスト・イエスを誇りとし、肉に頼らないからです。
4 とはいえ、肉にも頼ろうと思えば、わたしは頼れなくはない。だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。
5 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、
6 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。
7 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。
8 そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、
9 キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。




     中高科キャンプ

 先週金曜日と土曜日、教会学校中高科のキャンプを今年はこの教会堂を会場にして行いました。テーマは「イエスさまの愛を覚えて」でした。年々自分の体力が落ちていることを今年も実感いたしましたが、逆に若い人たちの証しを聞いたり信仰の成長を知ることができて感謝でした。

     

 さて、今日の聖書は3節の「あの犬どもに注意しなさい」という言葉で始まっています。
 先週は、「喜びなさい」という言葉について学びました。そしてこのフィリピの信徒への手紙は喜びの手紙と呼ばれるほどに、喜びということが何度も語られていました。ところが今日はそれが「あの犬どもに注意しなさい」という言葉で始まっている。なにかあまりの調子の違いに私たちは戸惑ってしまいます。
 いったいなぜ、パウロはこのようなことを書き出したのでしょうか?今までの「福音」「喜び」といったことと、どういう関係があるというのでしょうか?そのあまりの印象の違いに、もともとこの手紙は一つの手紙ではなかったのではないか、などという学説があるほどです。しかし、それはあまりにも短絡的な学説であり、ここはもっと深く読むべきです。
 ここでパウロが突然厳しい調子で語り始めている事柄は、やはりここまで述べてきた福音と関係があると言わなくてはなりません。1:27で「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」ということをパウロは述べ、それを巡ってパウロがどうしたら喜んで生活を送ることができるかということを述べてきました。それとつながっていないのではなく、つながっているのです。それは、今度は福音にふさわしく、喜んで生きて行くことができなくなってしまうような教えについて述べているのです。せっかくキリストの福音を信じて、主において喜んで歩んでいこうとしている。しかしそこから喜びを奪うような教えについて警告をしているのです。そしてそれは、その間違った教えを教会の中に持ち込もうとしている人々について言っています。
「あの犬ども」という言葉。これはどういう意味でパウロは使っているのか。そうすると聖書で使われている「犬」という言葉の意味は、昔の日本で使われていた意味とだいたい同じようです。今は「犬」という言葉は、たいへんかわいらしいペットであり、たいへんな親しみを持つ言葉ですが、ちょっと前の日本では、もちろんかわいいペットという印象もありましたが、一方では「犬畜生」という言い方であるとか、「権力の犬」という言い方があるように、やはりちょっと侮蔑的といいますか、何も本当のことが分からないというような意味で使われていたように思います。それは聖書で「犬」という言葉が使われるのとだいたい同じであると言ってよいでしょう。
 するとやはりパウロがここで「あの犬どもに注意しなさい」と言っているとき、それはやはり断罪しているような使い方をしていると言えます。そしてそれは、その人たちが教えている教えが、一見尊い教えに見えて、実はキリスト信仰を破壊してしまうような危険があるからです。福音、喜びを奪ってしまうような教えです。そしてこの間違った教えを教えている人々は、教会の外の人々ではない。すなわち、他の宗教の人たちのことを言っているのではありません。教会の中、同じキリスト教の人たちのことです。同じキリスト教徒であるのに、福音とは違う間違った教えを教会の中に持ち込み、教えている人々がいる。それに対してパウロは、福音を破壊する者として厳しい言葉を使っているのです。
 さらに言うならば、パウロはそういう人々のことを攻撃していると言うよりも、自分たちの中に、そういう人々と同じような思いになってしまうことを戒めていると言えます。つまり、わたしたち自身の信仰がねじ曲がってしまわないように、福音とは別の物になってしまわないように、注意を呼びかけていると言えます。

     キリストを信じただけでは不十分?

 2節を直訳すると、「犬に気をつけよ。悪い働き手に気をつけよ。切断の者に気をつけよ」という、調子を合わせたような書き方になっています。新共同訳聖書では「切り傷に過ぎない割礼を持つ者たち」という長い日本語に訳していますが、原文では「切断の者」となっている。「切断」というのがここでは「割礼」を指しているわけです。
 「割礼」というのは、イスラエル民族(ユダヤ人)の男性が受ける儀式で、男の子が生まれて八日目に、その男の子のシンボルの部分の皮の一部を切り取るという、日本人から見たらまことに奇妙な儀式です。詳しいことは聖書の一番後ろの用語解説のところに載っていますので、ご存じない方はそちらをご覧ください。しかし割礼は、旧約聖書では重んじられています。それは、神の民となったというしるしです。旧約聖書では、ユダヤ人が神から選ればれた民ですから、ユダヤ人の男子はみな割礼を受けていました。そしてユダヤ人は、旧約聖書に書かれている掟、すなわち律法を守っている。自分たちは神の民のしるしである割礼を受けており、神から授かった掟を守っている。そういう自負心があったのです。
 しかし新約の時代になって、律法を守ることによって救われるのではなく、イエス・キリストを信じることによって救われることになった。でも、せめて割礼ぐらいは受けないとダメでしょ、という理屈を言う人々です。「まあ、我々は受けているけどね」という感じ。「君たち異邦人も、せめて割礼ぐらいは受けないとまずいよ」というわけです。つまり、ひと言で言えば、キリストを信じるだけでは不十分だという教えです。イエスさまを信じるだけでは、ちょっと足りない。そういう教えを教会の中に持ち込もうとしている人々のことです。

     何を誇るのか

 4節でパウロは、そういう人々のことを「肉に頼る」ことだと言っています。すなわち、「俺たちは割礼を受けているよ。先祖はアブラハムと血がつながっているよ」ということを誇りにしている。それを、肉に頼ることだと言っているのです。
 たとえば今日の日本でも、次のようなことを自慢する人がいます。「私の家は由緒ある家系です」とか、「有名大学を出ました」‥‥というような自慢です。もちろん、有名大学を出ても良いわけですが、それが自慢になったとき、それはその人が今何を信じているかということは関係なくなってしまいます。そんなことに似ています。
 問題は、そういうことが救いということと関係があると考えることです。きょうの聖書に戻っていえば、割礼を受けている、律法を守っている、アブラハムの子孫である‥‥そういうことが救いと関係があると考えるのが問題だとパウロは言っているのです。そんなことは関係ない。ただイエス・キリストを信じるだけで救われる、というのがパウロが言っていることです。
 そのように肉を誇ろうと思えば、パウロ自身はいくらでもあるという。それが5〜6節に書かれていることです。パウロだって生まれて八日目に割礼を受けている。生粋のユダヤ人(イスラエル人)です。しかも、先祖は、イスラエルの最初の王であるサウル王を出したベニヤミン族に属している。旧約聖書の掟である律法も熱心に守ってきた。熱心なあまり、キリスト教を憎んで、キリスト教を迫害してきたほどだと。自分は、肉を誇る「よこしまな働き手」よりも誇ろうと思えば誇れるほどだ、と。
 しかし、キリストを知って、そんなものは「損失」(7節)であり、「塵あくた」(8節)と見なしているのだといっています。誇りどころではなく、損だと。

     信仰による義

 そして9節です。そこで述べられている「義」とは、わかりやすく言えば、救いという意味です。「律法から生じる自分の義」とは、割礼を受けている、律法を守っている、こんなすばらしいことをした、人を助けた、良いことをしている‥‥だから他の人よりもましだというようなものです。つまり、イエス・キリストを信じただけでは不十分であるということです。それだけでは救われない。自分はこんなに立派な人なんだ、というのがないとダメだという考え方です。
 それに対して、「キリストへの信仰による義」とは、なんの価値もない私だが、私を救うために十字架にかかってくださったキリストによって救われている、ただそのキリストを信じることによって救われるということです。ただキリストのみ、そのキリストを信じるのみ。
 「クリスチャン新聞・福音版」の8月号に、Tさんという人の証しが掲載されていました。この方は、聖書から誕生したマイティシープというキャラクターのショーの、歌のお姉さんをしている人だそうです。このマイティシープは各地の教会やキリスト教幼稚園で、人気キャラクターとして着ぐるみのショーをしているそうです。
 しかしこのTさんは、かなりつらい人生を歩んできた女性でした。両親はよく夫婦げんかをしている家庭で育ち、その影響で親の顔色をうかがったり周りに気を遣うようになったそうです。そして、小学生のときからいじめに遭ってきたそうです。一番ひどかったのは中学生のときだったそうです。靴を隠されたり、机に落書きされたり、体操服がなくなったり‥‥。昨日まで仲良かった子が、今日からいきなりいじめ出すこともあって、とても怖かったそうです。高校2年生までいじめは続いたそうです。いじめられていることは親にも言わなかった。そしてぜんぜん笑わないねと言われるほどに、感情を顔に出すことをしなくなった。
 高校卒業後、ダンスミュージックの専門学校に入ったそうです。そして専門学校卒業後、上京して舞台に出たり、いろいろなオーディションに応募したりしているうちに、マイティシープの着ぐるみショーのダンス指導を頼まれ、引き受けたのですが、それがきっかけとなって教会に通うようになったそうです。そしてある日の礼拝の説教で、旧約聖書イザヤ書43章4節の御言葉が心に響いたそうです。
 「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(新改訳)
 この聖書の言葉を聞いたとき、自然と涙が出てきたそうです。「いじめられる経験が長すぎて、自分には価値がない、人には好かれないと思い込んでいました。でもこのイザヤ書の言葉が、自分の心の穴の中にすっぽり留まりました。もう絶対話さない、といった感じでした」と述べておられます。そして昨年11月に洗礼を受けたそうです。
 この私、このなんの取り柄もなく、誇るべきものもない私について、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」とおっしゃってくださる主。自分で自分を救おうとするのではなく、その主イエス・キリストを信じる、おすがりするだけでよいのだと語りかけています。

(2015年8月9日)



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