礼拝説教 2015年8月2日 主日礼拝

「不動の喜び」
 聖書 フィリピの信徒への手紙3章1  

1 では、わたしの兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。




     平和聖日

 本日は日本基督(きりすと)教団の暦で平和聖日です。1945年8月15日、長い戦争が終わりました。満州事変〜日中戦争〜大東亜戦争〜太平洋戦争〜原爆投下に至り、8月15日に日本は連合国に対して降伏をしました。またそれは第二次世界大戦の終結でもありました。第二次世界大戦では、世界で5千万人から8千万人が犠牲となったと言われています。それはまたその何倍もの人々が、大きな悲しみと苦しみを味わったということでもあります。
 誰がその戦争の責任者であり加害者であるのか。直接戦争を始めたのは日本とドイツです。たしかに、そういう意味では日本は戦争責任を負っているということもできます。しかしあの時代の多くの一般庶民は、洗脳教育を受け、間違った情報を与え続けられ、戦争に動員されました。そういう意味では、日本の多くの庶民もまた被害者です。政治指導者の責任は大きいと言わなければなりません。今現在、日本の国会でも熱い議論が戦わされていますが、私たちキリスト者は、政治家のために祈らなくてはならないでしょう。
 そして現在もまだ平和な世界ではないことを覚えなくてはなりません。日本は平和だと言われますが、キリスト者にとっては国境はありません。世界のために祈らなければなりません。イラクとシリアでは、IS(イスラム国)が猛威を振るい、その戦争によって多くの人が死に、また傷ついています。ヨーロッパでもウクライナの内戦が起こっています。アフリカでも、ナイジェリアやリビアなどで内戦となっています。パレスチナ紛争も終わりが見えません。
 これら現代の戦争の特徴は、かつてのような国と国との戦争ではなく、民族や宗教の違いによる内戦、民族紛争であるということです。それは同じ国の中で入り乱れて戦いとなっているために、非常に複雑で解決の難しいものになっています。特に、その残虐な手段によって現在世界を震撼させているISですが、なぜそんな集団が勢力を持っているのか。ISの兵力は約3万人だそうです。そのうち半数が、外国から入ってきた若者だそうです。世界各国からやって来て、イラク、シリアのISに加わっていく。その理由は何かということですが、現代社会への不満が背景にあり、自分自身の生きる価値を求めて参加していくということがあるようです。

     キリスト教と平和

 「キリスト教の歴史は戦争の歴史」と言う人がいます。なるほど歴史を振り返ってみると、当たっている面がたしかにあります。しかしこれほど不思議なことはありません。なぜなら、イエス・キリストの教えを読めば、どう考えてみても戦争ということに結びつかないからです。
 たとえば、イエスさまの言葉では、「悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」(マタイ5:39)
 「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ5:44)
 「七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」(マタイ18:22)
 「剣を取る者は皆、剣で滅びる。」(マタイ26:52)
 といったような御言葉は、いずれも有名な御言葉です。クリスチャンであれば誰でも知っているみことばです。なのになぜ「キリスト教は戦争ばかりしてきた」と言われるのでしょうか?
 それは、クリスチャンがまじめに御言葉を聞いていない、ということになります。世界の3分の1はキリスト教徒だといいます。もっとも信者数の多い宗教です。だとしたら、キリスト教徒が本当に、まじめに御言葉を聞いて従ったら、かなりの戦争はなかったし、またなくなるだろうと思います。しかしそのキリスト教徒がまじめにイエスさまの御言葉を聞かない。従わない。「聖書は聖書、現実は現実」というように、使い分けて生きている。そういうことになるでしょう。本気で信じていないのです。中途半端に信じている。だからいざとなったら、戦争にでも何でもなってしまう。
 なにも他人を批判しようというのではありません。また、批判していたら戦争がなくなるわけでもありません。まずわたしたち自身が、聖書の御言葉に耳を傾け、御言葉に従わなければならないということです。

     喜びなさい

 本日は、いつものフィリピの信徒への手紙の続きです。この個所を平和聖日に読むことになったのも、主の導きです。
 ここで使徒パウロは、ふたたび「喜びなさい」と命じています。さきほど、現状に対するいろいろな不満からISに参加する若者がいるということを申し上げました。なぜ戦争が始まるかということについては、いろいろな理由があることでしょう。しかし、現状を喜ぶことができれば、少なくとも現状に対する不満がもとになって戦争となるということはなくなることでしょう。
 しかし私たちはどうでしょうか。「喜びなさい」と言われて、本当にまじめに聞き従うでしょうか。本当にまじめに聞き従うのであれば、「喜びなさい」と言われれば喜ぶことができるはずです。
 フィリピの信徒への手紙は、喜びの手紙と呼ばれます。それは、何かこの世のことでうれしいことがあるから喜んでいるというよりも、一見喜ばしいことがないのにもかかわらず喜ぶことを強調しているからです。この手紙を書いているパウロは、ローマ皇帝の裁判を待つ囚人でした。何も悪いことをしたのではないのに、罪をでっち上げられて鎖でつながれているのです。それは普通に見れば、とても喜ぶことのできる状態ではないはずです。また、この手紙の受取手であるフィリピの教会では、内紛が生じており、さらにこのあとを読むと分かりますが、信仰を脅かす間違った教えが入り込もうとしているのです。にもかかわらず、喜びなさいと言われているのです。
 それは、1章27節で「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」ということの結びとして、「喜びなさい」と言われています。

     主において喜ぶ

 何でもいいからとにかく喜べ、理屈抜きで喜べ、笑う門には福来たる、というのではありません。パウロは「主において喜べ」と言っています。「主において喜べ」というのは、主のおかげで喜べ、または主を信じて喜べということです。本来は喜べる状態ではなくても、主のおかげで喜ぶことができる。だから喜びなさい、ということです。
 たとえばすでに出てきたことですが、このときパウロは囚人であり、なおかつ、もしかしたら死刑の判決が出るかも知れないという困った事態に置かれています。しかしパウロは喜んでいる。それはすでに1章で学んだように、たとえ死刑になって死んだとしても、イエスさまによって天国へ行くことができる。また無罪放免になったとしたら、フィリピの教会の人たちのために奉仕することができる。どっちに転んでもよいことであるということが書かれていました。そしてそこには、いずれにしても神様が最善をなしてくださるという信仰があります。そのように、キリストのおかげで、すべてが喜びと感謝となる。
 イエスさまは、何を食べようか、何を着ようかと思い悩むなとおっしゃいました。「ただ神の国を求めなさい。そうすればこれらのものは加えて与えられる」とおっしゃり、「あなた方の父(神)は喜んで神の国をくださる」とおっしゃいました。これらの御言葉を本当に信じたのなら、明日のことを不安に思うことはなくなるはずです。神様が自分にも最善をなしてくださると信じて、喜びが生まれるはずです。
 またたとえ病気になったとしても、本当にイエスさまと神様を信じたのなら、喜びは失われないでしょう。主の御心であれば癒やしてくださるであろう。たとえ癒やされなかったとしても、神様はそれに変わるすばらしいご計画を実行してくださるだろう、と信じるならば、喜ぶことができるでしょう。

     信仰に立つ

 問題は、まじめに主の御言葉を聞き、それに従おうとしているかどうかということです。主を信じたならば喜べるはずなのに、信じ切れない。だから喜びがない。中途半端なんです。まじめに主を信じていない。中途半端のまま信仰生活を続け、中途半端なままに人生を終わってしまいかねません。それは結局喜びも平安も中途半端なままとなってしまいます。
 この自分を発見したとき、本当の悔い改めが必要なことが分かります。自分が罪人であることが分かります。しかしそんな罪人である私をも救うためにイエスさまは十字架にかかってくださった。その愛の尊さが分かってきます。それ故、自分に愛想を尽かすことなく、希望を持って主に従っていけるように、悔い改めることができます。
 榎本保郎先生の『旧約聖書一日一章』を読んでいましたら、次のようなエピソードが記されていました。‥‥ある伝道者が愛する妻に先立たれて悲嘆に明け暮れていたとき、先輩がやってきて「君にも君の都合があろうが、神様にも神様の都合がある」とさとしたとのことである。全く非情な言葉であるが、このひと言によって、この伝道者は神中心の信仰に目が開かれたとのことである。‥‥自分中心の信仰ではなく、神さま中心の信仰に生きる。そこに鍵があると思います。
 昨年、日本キリスト教団の議長の石橋先生と、ある席で一緒になりました。教団議長というのはとても忙しいんですね。また、いろいろと議長を批判し非難する人たちもいます。でもあんまりこたえたようには見えないんです。そしてまた石橋先生はたいへん行動的な人で、いろいろなことを引き受けてあちこち出かけて行かれるんですね。それで私は、たいへんですねというようなことを言ったわけですが、すると石橋先生は、「ぼくは、何かやらなくちゃいけないことが起きると、うれしいな、たのしいなって思う」とおっしゃったんです。
 私はそれを聞いて非常に感銘を受けました。「面倒くさいな」ではなく、「うれしいな、楽しいな」。それは言い換えれば、喜んでいるということです。

     安全なこと

 「主において喜びなさい」。この「喜べ」という命令ですが、ギリシャ語文法では命令法現在形と言って、丁寧に言うと、一回だけ喜べということではなく、「喜び続けなさい」というような、継続的に喜べと言っているのです。山があっても谷があっても喜べ、ということです。
 「これは私には煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです」という。喜ぶことは、面倒くさいことではない。そして安全なことだという。安全という意味はいろいろ考えられますが、罪や悪魔から遠ざけられるということもあるでしょう。罪に陥る、悪魔の誘惑に負ける。そういうことから守られるということになります。
 どんなときも神さまを喜ぶ、イエスさまを喜ぶ。喜んで良いのだということです。たとえ困難な問題が生じたときでも、全能の神さまが、イエスさまのお名前によって私たちの祈りを聞いてくださる。このことを本当に信じたのなら、喜べるはずです。しかしなかなか喜べないとしたら、悔い改めるしかありません。ですから私は、きょうの御言葉を聞いて悔い改めます。そして励まされます。どんなときも、主イエス・キリストにおいて喜んで良いのだと。

(2015年8月2日)



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