礼拝説教 2015年7月26日 主日礼拝

「命をかけるもの」
 聖書 フィリピの信徒への手紙2章25〜30  

25 ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さねばならないと考えています。彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれましたが、
26 しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです。
27 実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんで、悲しみを重ねずに済むようにしてくださいました。
28 そういうわけで、大急ぎで彼を送ります。あなたがたは再会を喜ぶでしょうし、わたしも悲しみが和らぐでしょう。
29 だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい。
30 わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです。




     エパフロディト

 前回はテモテについて書かれていました。今回は、エパフロディトという人について書かれています。
 エパフロディトという人は、この手紙の宛先であるフィリピ教会の人です。この人がなぜパウロのもとにいるかというと、4章18節を見ると、エパフロディトはフィリピ教会からの献金をパウロのところに持ってきたことが分かります。そして、それだけではなく、パウロに奉仕するために来たようです。
 すでに申し上げていますように、パウロはこのとき囚人となっていました。裁判の判決を待つ未決勾留囚です。これがいつどこで囚人となっているかについては、ローマ帝国の首都であるローマで囚人となっていると思われます。使徒言行録の最後の状態です。
 当時の囚人というと、暗い劣悪な環境の牢屋に投獄されているというイメージが強いですが、パウロの場合はちょっと様子が違います。というのは、パウロはローマの市民権というものを持っていました。ローマの市民の権利ですね。するとその場合は、人権が十分に保障されることとなります。使徒言行録の最後のところにはこう書かれているんですね。「パウロは自費で借りた家に丸二年住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」(使徒28:30)。
 そのように、自分で借りた家に住んだんです。これはもう牢獄と言うよりは、今日で言えば軟禁状態というものに近いですね。ただ番兵と鎖でつながれてはいたようですが。だから外出の自由はない。しかし誰でも訪ねて来た者を迎え入れることができる。パウロは牢獄ではなく、そのように自分で借りた家に住んだというのは、やはり伝道のためであったと思います。囚人の身でありながら、伝道牧会をするためには牢獄ではなく自分の借りた家に軟禁状態になったほうがよい。そのとき、ローマの市民権が生きてきたわけです。
 しかし、牢獄ではないとすると、借りた家の家賃も払わなければなりませんし、食べる物、着る物も自分で用意しなければなりません。このフィリピの信徒への手紙を書いているように、手紙を書く紙やペン、インクも必要です。フィリピ教会はそういうパウロを支えるために、エパフロディトに献金を持たせて届けたのです。

     ローマとフィリピの距離

 ローマとフィリピというのはどれぐらい離れていたのでしょうか。世界地図で見ると、あんまり遠くないように見えます。今は、ローマとフィリピの距離もインターネットで調べることができます。便利になりました。そうすると、ローマ市のバチカンからギリシャのフィリピの町の間は、直線距離にして約995kmだそうです。これは、逗子教会からいうと、鹿児島県の屋久島の屋久島町が直線距離で約997kmなんですね。
 ただ、もちろん直線では行けないわけですから、陸路で行ったとするとどうなるでしょうか。すると、「すべての道はローマに通ず」と言われた、その当時のローマ街道に近いルートをとると、ローマ市のバチカンからフィリピの中心部までは1953kmと出ます。これは逗子教会から行くと、全部陸上で行くことができず、鹿児島からはどうしても船に乗らなければなりませんが、だいたい沖縄本島あたりになりました。
 もちろん当時は、飛行機も自動車もありません。馬車はありましたが、料金はとても高かったそうです。ですから一般庶民は徒歩で行ったようです。全部陸路でいくと、1日30キロ歩くとして65日かかる計算になります。あるいは、できる限り船に乗ったとしても、たいへんな旅だったことには違いないでしょう。エパフロディトは、苦労してフィリピからローマのパウロのもとに来たことでしょう。

     仕える

 さて、前回のテモテ、そしてきょうのエパフロディトは、共に仕える人であると書かれています。
 テモテで言いますと、22節に、パウロと共に「福音に仕えた」ということが書かれています。テモテはパウロの最初のフィリピでの伝道の時にパウロに同行していました。そして今は、前回の個所20節に書かれていたように、パウロと同じ思いになってフィリピの人々のことを心にかけている。すなわち、祈っている。そのように奉仕しています。
 いっぽう、エパフロディトについては、25節で「奉仕者」と呼ばれ、30節ではパウロに「奉仕」と書かれています。

     エパフロディト

 先ほども申し上げたように、エパフロディトはフィリピの教会からローマで囚人となっているパウロのもとへ派遣されました。パウロに献金を届け、パウロを助けるためです。

 ところが、27節を見ると、彼はパウロのもとに来てから重い病気にかかってしまったようです。しかも「ひん死の重病」にかかったと書かれています。従って、パウロを助けるどころではなく、かえって迷惑をかけてしまったようなかっこうになります。
 26節を見ると、エパフロディトは自分の病気のことがフィリピの教会の人たちに知れて心苦しく思っている。せっかくフィリピの人たちから期待されて派遣されたのに、パウロに迷惑をかけるようなことになったことを心苦しく思っているのでしょう。しかし一方、26節には「しきりにあなたがた一同と会いたがっている」と書かれています。
 かえってパウロの足手まといになってしまって申し訳ない、面目ない、派遣してくれたフィリピの教会の人たちに合わせる顔がない。しかし一方で、フィリピの教会の人たちに会いたがっている。‥‥これは矛盾のように見えます。合わせる顔がないのに、会いたがっている?
 このことから、エパフロディトはホームシックにかかっていると考えることもできます。故郷のフィリピから遠いローマまで来て、見知らぬ人ばかりで、しかも病気になってしまい、望郷の念に駈られている。そう考えることもできるように思います。それは彼の弱さと言えるかも知れません。フィリピに帰りたい。しかし、期待に応えることができなかったので合わせる顔がない。そういう弱さの中での複雑な気持ちになっていたとも考えられます。

     パウロの配慮

 しかしパウロが書いていることを見ると、パウロがこのエパフロディトについて細やかな配慮をもって書いていることが伝わってきます。25節では「わたしの兄弟、協力者、戦友」「わたしの窮乏の時の奉仕者」と、最大限の評価をしています。そして29節では「彼のような人々を敬いなさい」と、フィリピの人たちに書き送っています。
 もっと丁寧に見ると、25節の「帰さなければならない」という言葉は、原文のギリシャ語をそのまま日本語にすると「送らなければならない」です。フィリピに帰すのではなく、送ると言っているのです。「帰す」と書くと、なにか役に立たないから送り帰すような印象となります。それでパウロは、送ると書いている。そうすると、パウロの大切な人を送る、という印象になります。
 これはパウロの配慮だと思います。パウロの役に立とうと思ってフィリピから派遣されたエパフロディトは、病気となってしまい、かえって迷惑をかけてしまった。そういう彼をパウロは気遣って、そのように書いているのです。

     仕えるとは

 そうするとパウロがエパフロディトのことを「奉仕者」と書いているのも、配慮のゆえの言葉であり、もっと言えばお世辞なのでしょうか?
 そうではないと思います。本当に仕えたのだと思います。どうやってつかえたのでしょうか? それはまさに、彼がひん死の重病にかかったということがそれです。なぜ死ぬほどの病気にかかったことが、仕えたことになるのか?
 それはまず、神さまがエパフロディトを癒やしてくださったことです。ひん死の重病にかかったのに治った。当時は、医学も発展しておらず、そのような病気にかかったらなすすべがありませんでした。しかし彼は癒やされたんです。そのことでパウロはどんなに励まされたことでしょうか。それから、そのようなひん死の重病にかかるためにフィリピ教会から派遣されたように見える。それはまさに命をかけて、パウロのもとに来てくれたということになります。
 命をかけるためにパウロのもとに来た。そして重病が癒やされたという、神の業が現れた。神さまの働きを見ることができるというのは、すばらしいことです。そのようなことを、パウロは「奉仕」であると言っている。実際に具体的な奉仕ができたかどうかということではありません。多くの人の目に見える結果を出したかどうかということでもありません。むしろ姿勢の問題です。神さまに自分を献げようとしたかどうかが問題だということが分かります。結果ではない。その心、神さまのために自分を献げようとする心です。それを主が用いられるのです。
 祈祷会ではちょっとお話をしましたが、私の前任地の富山二番町教会の信徒にTさんというおばあちゃんがおられます。今年百十歳になられました。今でもお元気です。わたしが富山二番町教会の牧師をしているとき、百歳を迎えられました。そして百二歳になられたとき、NHKテレビの「百歳ばんざい」という番組の取材を受けました。ところが取材の時、Tさんはキリスト教のことと教会のことばかり話すので、仕方がないからNHKは教会に取材に来たほどでした。
 Tさんは毎日聖書を読んで祈ることを日課としていました。そして大学ノートに、その日聖書を読んで感じた個所を書き、さらに、教会員のことを毎日祈り、その日祈った教会員の名前をそのノートに書いていました。それを見せて私に言いました。「先生ご夫妻のことは、毎日祈っています」と。
 彼女は百歳を超えていますから、もう教会の委員を務めるとか、会堂清掃をするとかいう奉仕はできません。しかしそれを見たときに、なぜ教会が祝福され、毎年受洗者が与えられているのかが分かったように思いました。この方のような祈り、目に見えないところで祈っている祈りを奉仕として主がお受け取りになり、その祈りがきかれているのだと。

(2015年7月26日)



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