礼拝説教 2015年7月19日 主日礼拝

「キリストを追い求める」
 聖書 フィリピの信徒への手紙2章19〜24  

19 さて、わたしはあなたがたの様子を知って力づけられたいので、間もなくテモテをそちらに遣わすことを、主イエスによって希望しています。
20 テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです。
21 他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています。
22 テモテが確かな人物であることはあなたがたが認めるところであり、息子が父に仕えるように、彼はわたしと共に福音に仕えました。
23 そこで、わたしは自分のことの見通しがつきしだいすぐ、テモテを送りたいと願っています。
24 わたし自身も間もなくそちらに行けるものと、主によって確信しています。




     テモテ

 使徒パウロはここから二人の人をフィリピ教会に送ることについて書きます。それはテモテとエパフロディトという人物です。
 まずきょうの個所では、テモテを送ることについて書いています。今、パウロは囚われの身となり、裁判を待っている状態です。だからフィリピの教会に行くことができない。それで代わりにテモテを派遣したいと書いています。
 テモテという人ですが、聖書をよく読まれた方ならば、よく聞く名前だなあと思われることでしょう。パウロは、その第2回世界宣教の旅で初めてヨーロッパに渡り、その最初にフィリピの町で伝道したということはすでに申し上げました。そのパウロの第2回世界宣教の旅で、フィリピの町に行く前、現在のトルコの国にあるリストラという町で初めてテモテという若者に会います。そのことが使徒言行録16章1節に書かれています。それによりますと、テモテはユダヤ人クリスチャンの母とギリシャ人の父の間の子です。そしてパウロはこのテモテを気に入り、そこから宣教旅行に共に連れて行きます。ですから、フィリピでの伝道の時もいたことになります。
 また、テモテへの第二の手紙1:5によりますと、テモテのおばあちゃんとお母さんがまずキリスト信徒になったようです。ですからテモテはクリスチャン二世ですね。また、ヘブライ人への手紙13:23を見ると、テモテもまた獄に入れられたことがあることが分かります。

      パウロとテモテ

 パウロはこの若いテモテをたいへん信頼していました。コリントの信徒への第一の手紙では、テモテのことを「わたしの愛する子で、主において忠実な者」と述べています。またパウロは、新約聖書に載っている手紙では、テモテに宛てて二通の手紙を書いています。さらに、パウロは6通の手紙で差出人としてテモテと連名にし、あるいはテモテからの挨拶も添えています。このことから、テモテはもっともパウロの近くにいた人であったということが分かります。また、パウロが行くことができないために、パウロの代わりにテモテを、テサロニケ、コリントの教会に派遣しています。そしてこの手紙でも、フィリピの教会に派遣しようとしています。
 パウロはなぜこのようにテモテを重んじたのか。またテモテは、なぜパウロをここまで助けたのか。
 それは会社の上司と部下のような関係ではありません。部下はなぜ上司に従うのでしょうか。それは雇われている身分としての秩序があるからでしょう。生活のために従わなければならないのです。しかしテモテにとってパウロは上司ではない。パウロに従ったからと言って、何かこの世の利益があるわけではありません。つまり、パウロとテモテは、この世の利害関係でつながっているのではありません。
 しかし、パウロモテモテも、共にイエス・キリストを信じる者であります。22節で「彼はわたしと共に福音に仕えました」と書かれています。パウロとテモテは、共にイエス・キリストを主と信じ、その福音伝道のために共に仕える者です。その上で、テモテは使徒であるパウロに敬意を払い、パウロは信仰者としてのテモテについて若いながらも尊敬の念を抱いている。そういう信仰による結びつきです。

     追い求める

 20節でパウロは、「テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなた方のことを心にかけている者は他にはいない」と書いています。「他にはいない」というのはちょっと言いすぎのようにも聞こえるかもしれません。しかしなぜそれほどテモテはフィリピの教会のことを親身になって心にかけているのでしょうか。
 その「親身になって心にかけている」というのは、健康であるか、商売が繁盛しているか、暮らしぶりがどうか、ということではありません。そういうこともあるかもしれませんが、もっとも心にかけていることは、「わたしと同じ思いを抱いて」という言葉にあることです。すなわち、この手紙でパウロは、フィリピの教会の信徒たちが1章27節ですでに述べているように、「キリストの福音にふさわしい生活を」送っているかどうかということについて、親身になって心にかけているということができます。フィリピの教会の信徒の人たちの信仰の状態を心配しているわけです。
 21節を見ると、「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています」と書いています。すなわち、イエス・キリストを追い求めることにおいて、テモテの他にはいないということになります。
 「追い求める」という言葉は、ギリシャ語ではゼーテオーという言葉で、探す、願望する、要求する、というような意味があります。たとえば有名な聖句でいえば、マタイによる福音書7:7の 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」の「探しなさい」と訳されている言葉がそれです。このときの「探しなさい」は、求めなさいという意味とほぼ同じであると言って良いでしょう。
 テモテは、キリストのことを追い求めているという。

     どちらを求めるのか

 たとえば、スター歌手のファンの中には、追っかけをする人がいます。そのスター歌手が各地でコンサートをするたびに、そこまで足を運んで駆けつける。それが追っかけと呼ばれます。追っかけの人は、スターのことを知り尽くしたいと願います。またスターを喜ばせようとします。それで声援を送り、CDを買って貢献する。また、そのスターの言ったことを守ろうとするでしょう。親が息子に「たばこを吸うな」と注意しても聞きませんが、スターが「たばこを吸わないでね」と言えば、ちゃんと言うことを聞く‥‥。そんなことを連想します。
 キリストを追い求める。それを、キリストの追っかけをすると言い換えても、あながち間違っているとは言えないのではないかと思います。キリストのことを知り尽くしたいと願う。もっとキリストのことを知りたいと願う。キリストを喜ばせようとする。また、キリスト共にいることを喜ぶ。さらにキリストの言われたことを守ろうとする。
 そしてスターとキリストの大きな違いの一つは、スターのことをいくら好きであっても、そのスターは自分のために命をなげうってくれるわけではないということです。しかしイエス・キリストは、このわたしを救うために十字架にかかって命をなげうってくださった。この方のことを追い求める。
 いっぽう、反対に21節の「自分のことを追い求めている」というのはどういう意味でしょうか。自分のことを追い求めるというのは、面白い表現です。それは言い換えれば、自分の欲求をかなえたいと求めると言うことでしょう。もちろん自分の欲求をかなえようとしてはダメだというのではありません。ここでは、キリストのことを第一とするのではなく、自分の欲求を第一とするということでしょう。スターの追っかけが、仕事や他のことを放り出してもスター歌手のコンサートに出かけるように。神への祈りも、御言葉も放り出して自分の欲望を追い求めるようなことでしょう。
 キリストを喜ばせようとするよりも、自分を喜ばせようとする。キリストの言ったことではなく、自分の思いを優先させる。そういうことが、「自分のことを追い求めている」ということでしょう。
 パウロはすでに、1:15で「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば」と語っていました。キリストを宣べ伝えるクリスチャン、伝道者の中にも、パウロに対するねたみと争いの念によってする者がいる。驚くべきことでありますが、そういうことがあるという。それはキリストを追い求めているようで、実は自分を追い求めているということになるでしょう。

      キリストを求める福音

 そうしてみると、パウロが21節で「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています」と言っている言葉は、何か言いすぎのように聞こえたものが、実は本当であろうと思えてきます。そして自分自身、悔い改めさせられる思いがいたします。イエス・キリストを追い求めていたと思っていたが、いつの間にか自己満足、自分のことを第一とし、ついでにイエスさまを信じようとしていたのではなかったか、と。本当にキリストを信じて、明日のことをすべてお任せしゆだねて、キリストに従っているだろうか、と。
 そして、実際にテモテのように、イエス・キリストのことを追い求めている人がいるということはうれしいことです。キリストを信じ始めたばかりの人に、「同信仰生活を送ったら良いのでしょうか?」と尋ねられたときに、「あの人のようにしなさい」と答えることができるというのは、本当にすばらしいことだと思います。
 私自身、今までに何人か、キリストを追い求めている人に出会いました。それらの人々は皆、キリストに人生をかけていました。それに私は感銘を受けたものです。そんなことを思い出すと、悔い改めさせられる思いです。
 もっとキリストを追い求めたい。キリストを追い求めることは苦行か何かのように思えるときがあります。そしてこの世の利益を求めることが喜びであるかのように思えることがあります。しかし使徒パウロは語ります。「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」と。福音、すなわちうれしい知らせ、喜ばしい知らせです。本当の喜びは、イエス・キリストのもとにあると指し示されています。

(2015年7月19日)



[説教の見出しページに戻る]