礼拝説教 2015年7月12日 主日礼拝

「救いの達成」
 聖書 フィリピの信徒への手紙2章12〜18  

12 だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。
13 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。
14 何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。
15 そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、
16 命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄でなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。
17 更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。
18 同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい。




     福音にふさわしく

 1章27節の「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」という言葉を中心に述べられています。繰り返しになりますが、福音とは、喜ばしい知らせ、うれしい知らせという意味です。つまりキリスト信仰とは、喜ばしい知らせにふさわしく生きることだということになります。
 にもかかわらず、喜びが少ない、うれしくない。であるとしたら、それは何が原因なのか。1章27節から30節のところでは、教会の外部の反対者によって苦しめられているということがある。しかしその苦しみの中でも聖霊なる神さまが共にいてくださるのことを信じて良いのであり、それゆえ苦しい時も主を信じて賛美することができる。そういう心の中の信仰の戦いが必要であると、述べていました。
 また前回の2章1〜11では、教会の中の対立についてパウロが指導していました。自分を低くし、へりくだって互いに相手を自分よりも優れた者としなさい、と。それはまさにイエス・キリストご自身が、ご自分を低くして十字架にかかって死なれたことを我がこととして思いなさいと命じられていました。そして十字架に至るまで我が身を低くされたキリストを、神がよみがえらせて天に引き上げなさったように、我が身を低くする者が神の恵みを豊かにいただくことができるのであるということを教えていました。

     救いを達成

 そしてきょうのところはまず12節です。「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」
 「恐れおののく」というのは、何を恐れおののくのでしょうか。もちろん、迫害を恐れおののくということではありません。誰か他人を恐れおののくということでもありません。この信仰の弱い私のために、主イエス・キリストが命を投げ出してくださったという、驚くばかりの神の愛への恐れです。恐縮するばかりの感謝の恐れです。それゆえ、恐れおののくということは、真剣にという意味にもなるでしょう。
 そのようにして「自分の救いを達成するように努めなさい」と言います。救いの達成というと、救われているのか、いないのか、なんだか中途半端なような気がするかもしれません。「キリストを信じて洗礼を受けて、それで救われたんじゃないのか?」と思われるかもしれません。確かにそれは救いです。しかしもっと正確に言えば、それは救いの始まりです。洗礼によって終わるのではない。始まりです。小学校の入学式は確かに喜ばしいものです。しかしそれは入学したのであって、そこから始まるわけです。
 それと同じように、キリストの信仰告白をして洗礼を受けて始まる救い。何が始まるかと言えば、キリストと同じ姿に変えられていくという目標があるのです。このキリストと似ても似つかないような私が、キリストと同じ姿に変えられていく。これを聖化と言います。そこに至って完全な救いへと至ります。目標はキリストなんです。そしてそれは教会の目標でもあります。
 逆に、目標を失うと教会の不協和音が生じることとなります。信仰生活もマンネリ化します。
 先日牧師たちの集まりがあり、そのときにこんな話を聞きました。ある牧師が、東京の大きな教会に赴任しました。するとそこの信徒の人がその牧師にこう言ったというのです。「先生、うちの教会は伝道しなくてもやっていけますから、心配しないでください」と。私はそれを聞いて、その教会の信仰の状態が心配になりました。もちろん、伝道というのは、自分の教会が経済的にやっていけるようになるためにするものではありません。すべての人を神のところに招くためにするものです。したがって、すべての人がキリストを信じて教会につながり、キリストと同じ姿に変えられるまで終わることがありません。しかし、その目標が見失われると、そういうことになってしまいます。
 「自分の救いを達成するように努めなさい。」 自分の救い、と述べられています。自分さえ救われればよいということか、他人はどうでもよいということかと、疑問に思う方もおられるかもしれません。しかしこれは、自分が成長しないと、他人を救いに導くこともできません。水泳が上達しないと、おぼれている人を助けることができません。誰かから、「わたしはどうすれば救われるのでしょうか?」と尋ねられたときに、「さあ‥‥分かりません」ということしかできなくなってしまいます。
 それゆえ、自分の救いを達成するように努めるということは、同時に隣人の救いのためにもなります。

     どうやって救いを達成する?

 13節を見てみましょう。「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」
 これはちょっと誤解を招く翻訳ですね。この通り読むと、神がわたしたちの中で、神の御心のままにわたしたちを動かしている、と受け取られてしまうでしょう。すなわち、人の悪口を言ったり、ののしったり、罪を犯させるのも神さまなのか、ということになります。そうすると人間は、神さまのコントロールによって動くロボットなのか、ということになってしまいます。
 他の聖書の翻訳を見てみますと、昔の文語訳ではこうなっています。「神は御心をなさんために汝らのうちに働き、汝らをして志をたて、業を行はしめたまへばなり。」‥‥すなわち「神があなたがたの中に働いて、あなたがたに志を起こさせ、行うようにしてくださる」という意味になります。何でもかんでも神さまがわたしたちの内に働いて、わたしたちをあやつって、私たちをコントロールしているというのではなくて、神さまが私たちの内側に働いて、私たちが神の御心を行う志を起こさせ、行うように助けてくださるということです。
 新約学者の織田昭先生は、このところを次のように解説しておられます。「救いの実現は自分の努力によるものではなく、神が聖霊によってエンジンをかけて動かしてくださる。」 たいへんわかりやすい説明だと思います。私たちの中に、聖霊なる神さまのエンジンが搭載されているということです。私たちには力が無い。しかしそのわたしの内に、聖霊のエンジンが搭載された。その力によって進んでいく。
 メソジスト教会の創始者であるジョン・ウェスレーは、このところについて「わたしたちを支え救うために、全能者の腕が伸ばされているとは、ああ何という栄光に輝く励ましであろうか」と述べています。そういうエンジンが与えられているのだから、「何事も不平や理屈を言わずに行いなさい」と言われます。

     星のように輝く

 15節で「非の打ち所のない」という言葉があります。これも、非の打ち所のないというと完全無欠になるような印象を受けてしまいます。しかしむしろここは、「星のように輝き」というそのあとの言葉に中心があると言えます。星のように輝き、というと何か加山雄三の歌みたいですが、星の光というのは小さな光です。太陽や月のように闇を照らす明るさはありません。星の明かりは小さすぎて暗すぎて、本を読む明るさもありません。
 しかしでは星の光は何も役に立たないかと言えば、そうではありません。昔、船が大海の中で、星を見てその方角を知ったというように、星は方角を指し示すことができます。北極星を見て、あちらが北極だと知ることができます。南十字星が見えれば、南半球に来たな、ということが分かります。
 そのように、星の輝きは道を照らしたり本を読むようにすることはできませんが、「こっちだよ」と方向を示すことができます。つまり自分ではなく、キリストを指し示すことができる。そこに意義があります。「この私が救われたのは、キリストのおかげです」とか、「このわたしはダメな自分であるけれども、こんな私が希望を持って歩むことができるのは、キリストのおかげです」と言うことができる。キリストを指し示すことができる。その意味で完全であるということになります。

     喜び

 17節を見ると、「たとえわたしの血が注がれるとしても」と書かれています。これはパウロが殉教ををするかもしれないと思っていることが分かります。しかし、フィリピの教会の人たちが、キリストの福音にふさわしい生活をし、自分の救いの達成のために努めるならば、自分の伝道者としての務めは無駄ではなかったと言っています。
 「いけにえを献げ」とあるように、旧約聖書ではエルサレムの神殿の礼拝で毎日のいけにえを祭壇に献げるときに、ぶどう酒を祭壇の下に注ぎました。今この手紙を書いているパウロは、ローマ皇帝の裁判を待つ囚人です。信仰のゆえにとらえられて鎖につながれています。もしかしたら死刑の判決が出るかもしれない。そして死刑になったときに、血を流すことになります。その血が、神殿の礼拝で注がれるぶどう酒にたとえられています。だから自分が死刑になったときに流す血は、神さまに献げられた血となるのだ、と。だからそれはわたしにとって喜びなのだというのです。だからそのときには、あなた方も悲しまずに喜んでくれと言っているのです。そのように、死さえも神さまに献げられたものとなるとき、喜びとなるのだと言います。
 「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。」クリスチャンとして歩んでいったときに、マンネリ化に陥ることがあります。「キリスト教信仰もこんなものだ」とあきらめることがあるかもしれません。福音が福音でなくなる、喜びがなくなることがあるかもしれません。
 しかしまだまだキリスト者としての歩みは始まったばかりです。救いの達成への道は、始まったばかりです。あきらめる必要はありません。神さまによって与えられた整理絵のエンジンが搭載されている。自分の力ではなく、そのエンジンによって、前に向かって進ませていただきたいと思います。

(2015年7月12日)



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