礼拝説教 2015年7月5日 主日礼拝

「低くなる」
 聖書 フィリピの信徒への手紙2章1〜11  (旧約 箴言3:34)

1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、”霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、
2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。
3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、
4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、
8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、
11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。




     福音にふさわしい生活

 前回読んだ1章27節で、使徒パウロは「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」と語りかけていました。「福音」とは、うれしい知らせ、良きおとずれという意味の言葉です。ですから、福音にふさわしいとは、感謝であり平安であり喜びであると言えます。そのように生きるということになります。
 しかしこの世の中を生きて行くと、その喜びや感謝や平安を奪おうとするものがあります。それが前回の箇所では、迫害やあつれきによる苦しみであったわけです。しかしそれはキリストを信じることによって恵みとなるということを学びました。きょうの個所では、それは教会の中で信徒たちの心が一つとなっていない、という問題です。すなわち、前回は教会の外での問題が取り上げられ、今回の個所では教会の中での問題が取り上げられていると言うことができます。
 教会の中でも問題が起こってくる。それが福音の喜びや平安を奪う原因となっている。フィリピの教会で起きていた問題はいったい何でしょうか?‥‥それはいろいろ推測できるようですが、たとえばこの手紙の後ろのほうの4章2節で、エボディアとシンティケという二人の婦人に対して「主において同じ思いを抱きなさい」とパウロが書いていることから、これと関連があるとみることができます。4章3節を見ると、この二人の婦人は、福音のためにパウロと共に戦ってくれたと書かれています。そのことから、この二人の婦人は教会の中の熱心な奉仕者であったことがうかがわれます。しかし熱心なあまり、対立をしてしまうということは、この世の中でもよくあることです。
 一生懸命やっている。それを行うことが正しいと思うからこそ、いっしょうけんめいやるわけです。しかし自分の考えや、やり方とは違うやり方でいっしょうけんめいやる人がいる。しかしその人はその人で、自分の考え、やり方が正しいと思うからこそ、いっしょうけんめいやる。しかし、それぞれ考え方が違う。それでぶつかることになります。それぞれ自分が正しいと思ってやっているので、その対立がひどいものとなる。
 問題は、教会の中でそれが起こっていることです。そうすると、うれしい知らせ、良きおとずれであるはずの福音を信じているはずの信仰生活が、喜びではなくなってしまいます。いったいどうしたら、福音を、喜びを取り戻すことができるのでしょうか。

     へりくだる

 そこでパウロが書いていることは、3節に「へりくだって」という言葉がありますように、お互いにへりくだるということです。それを求めている。
 「へりくだって」という言葉は、「謙遜に」という言葉です。謙遜という言葉は、低いという言葉です。すなわち、自分を低くする、ということを求めています。謙遜になって、自分を低くして、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい、と言っています。
 このことを考えてみますと、自分よりも優れた人のを優れた者と考えることはやさしいことです。しかし、自分の嫌いな人、あるいや対立している人のことを自分よりも優れた者と考えるのは難しいことです。ましてや「あんなやつ!」「あんな人!」というような人を、自分よりも優れた者だと認めるのは非常に難しいことに違いありません。試しに、自分の嫌いな人のことを思い浮かべてみましょう。その人が自分よりも優れた人であると思えますか?‥‥とんでもない、と思うのではないでしょうか。
 ですから、パウロは「互いに相手を自分よりも優れた者と考え」なさいと言っていますが、そんなこと無理だと思うのではないでしょうか。そうしろと言われても、無理ですとしか言いようがないのではないでしょうか。たしかにそれは普通には無理なことです。
 さて、パウロはそういう私たちに対してどのように言うのか。パウロは、キリストに目を向けさせます。

     キリストと同じ思いになって

 教会内で対立している者であっても、お互いに主として信じているイエス・キリストはどうであったか。そしてパウロはキリストの謙遜について語り始めます。
 5節を読むと、「それはキリスト・イエスにもみられるものです」と日本語に訳されています。しかしこの訳ですと、「他でも見ることができるけれども、キリストにもみられるよ」というように聞こえるような気がします。謙遜ということは、イエスさまにも見ることができるし、他でも見ることができると。
 しかしここで言われている謙遜というのは、そんななま易しいものではありません。他に類を見ないほどの謙遜、自分を低くするということについて述べているのです。
 5節のこのところを、むかしの文語訳聖書はこう訳しています。「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」。ずいぶん新共同訳聖書とは違う感じになりますね。これだともう少しイエス・キリストの謙遜が特徴的であることが伝わってきます。しかし一方で、「イエス・キリストの謙遜に学べ」と言っているようにも聞こえます。しかし、キリストに学んだら、自分もそのような謙遜になることができるのかと言えば、そんなに簡単なものではない。学んだから自分もそれができるというほど、私たちはすなおではないと思います。
 この5節は、むしろキリストと同じ思いになって考えてみなさい、という言葉であると考えたほうがよいと思います。もっと言うならば、キリストの中に自分を置いて考える。キリストと一緒になってみる、というような感じであるでしょう。ですから、イエスさまになったつもりでと言ったら謙遜ではなく高慢なことになってしまいますが、イエスさまの身になって考えてみることといたしましょう。

     キリストの謙遜

 するとイエスさまは、6節に書かれていますように「神の身分であった」。この「神の身分」という訳し方も他にも訳し方があるようで、口語訳聖書は「神のかたち」と訳しています。いずれにしろ、ここでは、神と等しいということでありますので、天の国の神の玉座の高さにおられたということになります。神は最も高い位置におられる方であるのは間違いありません。その神の栄光と尊厳に満たされていました。
 しかしキリスト・イエスさまは、その地位を「固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました」と続きます。神から人間になった、神の高さから降りてきて、自分を低くされて、人間になられたということです。この「無にして」というのは、惜しみなく捨てたということです。栄光に輝く、すべての者がひれ伏す、その神の地位を惜しみなく捨てられた。
 地位を捨てるということは、簡単なことではないでしょう。たとえば水戸黄門はどうでしょう。黄門様は、先の副将軍であったわけですが、越後のちりめん問屋の隠居に姿を変え、助さん格さんとともに全国を行脚して回るわけですが、あの方は先の副将軍であり中納言という地位を捨てたわけではありません。隠しているだけです。そしていざとなったら三つ葉葵の紋所を取り出して、その権力を示し、下々の者はその前にひれ伏すということになります。
 しかしイエスさまの場合は、似ているように見えますが違っています。それが「自分を無にして」ということであり、それはすなわち捨てるということです。
 「固執しようとは思わず」について。最高位の権力にしがみつこうとするのがこの世の人間の常です。たとえば、独裁者という者は、自分の権力を脅かそうとする者は遠ざけようとする。あるいは、粛正と称して抹殺してしまいます。それが権力者の常です。あるいは、県知事で、多選禁止条例を作った本人が、それを犯してまた知事選に立候補するということがある。その場合は、自分はやめようと思ったのだが、周りの人々がその人を担いで「あなたしかいない」と言うのかもしれません。そのような場合、「いやいや、自分ではなく、他にもふさわしい人がいる」とはなかなか考えられないのかもしれません。なかなか、高い地位に就くと、人間それを手放すのが惜しいものだと思います。
 しかしキリストは、その高い地位を、しかもすべての創造者である神というもっとも高い地位を、惜しみなく捨てたというのです。そして、神によって作られた人間のところまで低く降りてこられ、その人間になられた。しかもそれだけではなくて、十字架におつきになった。十字架というのは、当時のローマ帝国の死刑台ですが、死刑の中でも最も卑しい、忌み嫌われた、苦痛と屈辱と絶望の死刑の方法です。人々からあざけられ、罵声を浴びせられる。そうして死なれた。最も低くされたわけです。
 いったいなんのためにでしょう?‥‥それはただ私たちを救うためでした。つまりそれは私たちを愛して十字架にかかられたのです。このへりくだられ、低くなられたキリスト・イエスさまに身を置いて考えよ、とパウロは言っているんです。このイエスさまと一緒になって、イエスさまになったつもりで。

     神による引き上げ

 しかしキリストはここで終わったのではありません。9節に書かれていますように、神が高く上げられました。死んで陰府にまで低く下られたイエスさまを、復活させられ、そして天の国に引き上げられました。もといた高さまで引き上げられたのです。イエスさまが自分で復活し、天に昇ったのではありません。神様がイエス様を復活なされ、さらに天に引き上げられたのです。すべてを捨てて低く下られたイエスさまを、神が引き上げられた。それが神様になさった奇跡です。そこにものすごい喜びがあります。希望があります。福音があります。
 そのイエスさまに、我が身を置いて考える。いと高き神の国の神の栄光の位置から、低く、低く、十字架の低さまで下られ命を捨てられたイエスさまに自分を重ねて考える。そうすると、自ずと何をどうするべきかが見えてくることになります。「へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」と言われたことが。
 水は低いところに流れていきます。神の恵みも同じです。神の奇跡も同じです。ここで語られていることは、道徳ではありません。神の奇跡について述べているのです。神様の奇跡を見たいのであれば、へりくだりなさいと。そこに神の働きが現れます。

(2015年7月5日)



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