礼拝説教 2015年6月28日 主日礼拝

「恵みとしての苦しみ」
 聖書 フィリピの信徒への手紙1章21〜26 (旧約 出エジプト記5:22〜6:1)

27 ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい。そうすれば、そちらに行ってあなたがたに会うにしても、離れているにしても、わたしは次のことを聞けるでしょう。あなたがたは一つの霊によってしっかり立ち、心を合わせて福音の信仰のために共に戦っており、
28 どんなことがあっても、反対者たちに脅されてたじろぐことはないのだと。このことは、反対者たちに、彼ら自身の滅びとあなたがたの救いを示すものです。これは神によることです。
29 つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけではなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。
30 あなたがたは、わたしの戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです。




     キリストの福音にふさわしい生活

 使徒パウロは「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」と述べています。これはいったいどういう意味でしょうか。
 まずわたしたちが自分自身に問いかけてみるとどうでしょうか。すなわち「私はひたすらキリストの福音にふさわしい生活をしているだろうか?」と。そう自分自身に問いかけてみると、なんだか自信がないような気分になるように思います。
 「キリストの福音にふさわしい生活」をするというのは、なにか立派な徳の高い人として生活しなさいということでしょうか。世間の人々から「ああ、あのクリスチャンは立派だ」といわれるような生活をしなさい、ということでしょうか。そうだとすると、ともすると外見だけは立派に見えるようにがんばっていくという事になりがちだと思います。中身はそうではないのに、「さすがにクリスチャンだ」というように努力する。ですから、家にいるときと外での顔が違うという事になる。家では家族がその人の本当の姿を知っていて、外では良い人を演じるようになる。
 他人の目を気にして、「こうしてはいけない」「ああしてはいけない」ということでいると、だんだん律法的になっていきます。自分を作っていくことになる。それは福音書の中に登場するファリサイ派のような律法主義者になってしまいます。これは矛盾ですね。律法主義は、福音とは反対の方向になってしまうからです。

     イエスさまを見ていく生活

 福音とは、喜ばしい知らせという意味であり、良きおとずれという意味です。それは、立派でも何でもない、この罪人である私を愛して下さる主イエスさまがおられる。そこに喜びがあるわけです。罪人であり、救われる価値が何もない、こんな自分のために十字架で命を投げうってっくださったイエスさま、感謝となるわけです。
 立派な人間になったら、聖霊によってイエスさまが共にいて下さるようになるというのではありません。イエス・キリストを信じたとき、もうすでに聖霊が与えられ、イエスさまがともに歩んで下さるようになったということです。この不十分な私のような者と共に主が歩んで下さるようになった。人からの目を気にするのではなく、その主イエスさまを見ていく生活が、福音にふさわしい生活であると言えるでしょう。

     戦い

 「ひたすらキリストの福音にふさわしい生活を送りなさい」とパウロは言います。このことについて、パウロは続けて具体的に内容を述べていきます。
 今日の聖書の箇所では「戦い」という言葉が何度も出てきます。「福音」と「戦い」という言葉はなにか不釣り合いのように聞こえます。まず、ここで言う戦いとは、もちろん戦争のことではありません。あるいは武器を取って戦ったり、他人と戦うという意味でもありません。むしろ、自分自身の心の中の信仰の戦いのことであると言えます。あるいは霊の戦いと言っても良いでしょう。
 29節に「キリストのために苫しむことも、恵みとして与えられている」と書いています。苦しみも恵みであるとは、なかなか信じられないことですが、苦しみも恵みであると信じるには、自分自身の内部の戦いがあるに違いありません。

     反対者たち

 28節に「反対者たちに脅されてたじろぐことはない」とあります。ここで言う反対者とはいったい誰のことなのか。 15節に出てきた、パウロの伝道をねたむ伝道者のことなのでしょうか。あるいは、パウロの他の手紙の中にも出てくる、異端的な人々のことを指しているのでしょうか。
 ここではおそらく、フィリピの教会の置かれている信徒の状況から言って、キリスト教そのものへの反対者であると言えるでしょう。たとえば、フィリピの町に最初にパウロたちが伝道したときのことです。それは最初の時にもお話しいたしましたように、使徒言行録16章11節からのところに書かれています。パウロたちは聖霊の導きによって、初めてヨーロッパに渡りました。そしてその最初の町であるフィリビで伝道し、紫布を扱う証人であるリディアが信仰に導かれました。そしてその家族も洗礼を受け、リディアの家が家の教会として成長していったと思われます。
 ところが、あるときから、占い師の女性がパウロたちにつきまとうようになり、「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道をのべ伝えているのです」と言って毎日叫ぶようになりました。それでパウロはたまりかねて、イエス・キリストの名によってその女性にとりついていた占いの霊、すなわち悪霊を追い出しました。するとその女性は占いが出来なくなりました。すると、彼女のかせぎで暮らしていた主人たちが金もうけができなくなって怒り、群衆を扇動してパウロとシラスを捕らえ、役人に引き渡しました。パウロらが「町を混乱させている」と言って訴えたのです。
 するとフィリピの町の役人は、パウロとシラスを鞭で打った上に牢屋に入れてしまいました。そして足かせをはめました。こうしてパウロとシラスは、無実の罪で訴えられて、牢獄に入れられたのです。キリストの福音を宣べ伝えたのにこのような苦しみを受けたのです。
 その日の真夜中頃、パウロとシラスの二人は、牢屋の中で神を賛美する歌をうたい、祈りをささげていました。囚人たちはそれに聴き入っていたと書かれています。すると突然大地震が起き、牢屋の戸がみな開いてしまい、囚人たちの足かせの鎖も外れてしまうということが起こりました。牢屋を見に来た看守は、牢の戸がみな開いてしまっているのを見て、囚人たちが逃げ出してしまったと思い、剣を抜いて自害しようとしました。
 そのときパウロが「自害してはならない、わたしたちはみなここにいる」と叫びました。囚人たちはパウロとシラスのもとで、脱獄することなくとどまっていたのです。看守は驚き、二人に感服してしまい、「先生方、救われるためにはどうすれば良いでしょうか?」と問いました。すると二人は言いました。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」。そして二人は、看守とその家族の者にキリストの福音を説き、看守も家族も洗礼を受けてクリスチャンとなったのです。そしてパウロたち自身も翌日釈放されました。
 主の導きによってフィリピに行き、福音を宣べ伝えたのに、捕らえられてむち打たれ、牢獄に入れられる。そのような苦しみが臨む。いったいなぜ?と不審に思わざるを得ません。しかしパウロとシラスは福音にふさわしく生きました。獄中にあっても主イエスが共にいることを信じ、賛美の歌をうたい祈りを捧げていたのです。その結果、今見ましたような奇跡が起こったのです。そしてさらにイエス・キリストを信じて救われる人が起こされたのです。神のみわざが現れたのです。
 「反対者たちに脅されてたじろぐことはない」28節でパウロが言っていることが見えてきます。

     苦しむことも恵み

 今日もう一箇所読んだ、旧約聖書の出エジプト記ですが、これはモーセが神様の導きによってエジプトに戻り、エジプトの王ファラオとイスラエルの民を解放するように第一回目の交渉をしたあとの出来事です。ファラオはモーセの要求に怒り、イスラエルの民に課していた重労働をさらに重くしました。それでイスラエルの民からは、余分なことをしてくれたと言って恨まれる結果になってしまいました。神様の命令に従って、ファラオと交渉したのに、事態が悪化したのです。それでモーセは苦しみました。
 しかし主なる神様は、6章1節のように言われました。「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる。」そうしてから、神様の奇跡が始まっていきました。そしてついにイスラエルの民は、奴隷の国エジプトから出ることができました。
 星野富弘さんが「苫しみに遭ったことは私にとって幸せでした」と本に書いておられたことは、かつて私に非常な感銘を与えました。星野さんは、体操の模範演技中に首から落下して、生死をさまよったあげく、首から下が全く動かなくなるという重い障害を負って生きなけれぱならなくなったわけですが、やがてキリスト信仰に導かれたとき「苦しみに遭ったことは私にとって幸せでした」と告白されました。
 このフィリピの信徒への手紙を書いているとき、パウロも囚人の身であり鎖につながれています。またフィリピの信徒たちも、キリスト教徒が圧倒的少数であり、困難な状況の中で生きています。しかし27節にあるように同じト一つの霊」、すなわち聖霊をいただいています。聖霊によってキリストが共におられるのです。それゆえ、どんなときでもキリストの働きを期待することができます。感謝が生まれます。それがキリストの福音にふさわしい生活を送るということになります。

(2015年6月28日)



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