礼拝説教 2015年6月21日 主日礼拝

「生きるか死ぬか」
 聖書 フィリピの信徒への手紙1章21〜26 (旧約 詩編118:17)

21 わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。
22 けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。
23 この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。
24 だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。
25 こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。
26 そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せるとき、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしゆえに増し加わることになります。




     生きるか死ぬか

 「生きるか死ぬか」という、ちょっとセンセーショナルな響きのある説教題を付けました。もちろんこれは、題だけを刺激的に付けたわけではなく、実際にパウロの心境がそうであったということです。
 この時のパウロの置かれていた状況ですが、もうすでに何度か申し上げたように、ローマ皇帝の裁判を待っている囚人でした。そもそも訴えたのは、エルサレムのユダヤ人でしたが、パウロが皇帝に上訴したので、こうしてローマまで護送され、ローマの都のどこかで鎖につながれています。もしかしたら明日法廷が開かれて、死刑の判決が出るかもしれません。あるいは無罪になるかもしれない。裁判の日すら、いつになるか分からない。ですからパウロがどうなるのかは、誰にも分からないわけです。
 もし仮に死刑の判決が出たとしたら、それはパウロ一人の問題にとどまらなくなるでしょう。パウロはキリストの福音を宣べ伝えた結果、訴えられたのですから、それでパウロが死刑になったとしたら、それはキリスト教徒全体に関わってくる問題になります。いずれにしても、そういう非常に緊迫した状況に置かれていることは間違いありません。
 本日の個所でパウロは、自分が生きたほうがいいのか、死んだほうがいいのか、比較していますが、これはパウロの自問自答のような言葉であると言って良いでしょう。なぜなら、自分が死ぬか生きるかということは、パウロ自身が決められるわけではないからです。パウロが死刑になるか無罪になるか、その判決を下すのはローマ皇帝です。そしてもう少し付け加えて言えば、ローマ皇帝が判決を出すのも、神さまのお許しがなければそうならないことだからです。
 ですからここでは、パウロが、生きるか死ぬか、どちらを選ぶかということで迷っているのではなく、自分が生きるとしたらどういう意味があるのか、死ぬとしたらどういう意味があるのか、ということを自分自身で考えているというのが今日の聖書箇所です。そして、22節の「どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません」というのは、自分で死を選択するか否か、ということではなく、生きることを神さまにお願いするのか、この世を去って神の国に行くことをお願いするのか、判断に迷うということです。

     死の危機を前にして

 パウロはそのように、ローマ皇帝による裁判の判決を待っている。それは死が迫っているかもしれない中での、自問自答です。
 私たちも死ぬ意味、生きる意味を考える時があるでしょう。
 私は今まで2回死にかけたということはすでに申し上げている通りですが、その二つの時は、いずれも突然やってきたので考える暇もありませんでした。しかし、昨年春、心臓のCT撮影の検査をしなければならないことがありました。すると、ご経験のある方も多いと思いますが、病院から「同意書」というものにサインを求められるのですね。CTを撮るために造影剤を体の中に入れる。しかし人によってはその造影剤でアレルギー症状を引き起こす場合があり、さらにまれなケースではあるが、死に至る場合もあるというような説明が書かれていて、その同意書にサインをしてください、というわけです。死ぬかもしれないことに同意するというのも複雑な心境になるものですね。今まで、人の同意書にサインをしたことはありますが、自分自身のものにサインをしたことはなかった。すると、サインをする時に一瞬考えるわけです。死んだら天国に連れて行ってもらえるのだろうな、その時はこの地上に於ける自分の役割は終わったということなんだろうな‥‥というようにです。しかしその場合、家族はどう生活していくことになるんだろか‥‥などと。
 あるいはまた、癌で余命を宣告されるというようなケースはどうでしょうか。生きるということ、死ぬということを、否応なしに考えざるを得なくなるでしょう。
 しかしこれらのケースでは、いずれもイヤでも考えざるを得ないところに立たされる、ということであって、そういうことがなかったにしても、私たちはいつでも死と隣り合わせで生きているのに違いありません。私たちは皆、明日生きている保証はないのです。

       板挟み

 パウロは、自問自答して、生きることと死ぬことを考えてみた。23節では、その二つの間で板挟みの状態だと言っています。
 まず、死んでこの世を去ることを考えてみたわけです。「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており」というのがそれです。この世を去って、神の国に行く。するとそこは、父なる神さまと、こひつじなるイエスさまがおられて、名実ともにイエスさまと共にいることができる世界です。天国です。ですから、自分自身の利益ということを考えると、そちらの方がすばらしいに違いありません。だからそちらを熱望していると言っているのです。
 私たちも、この世の中で生きていて、つらいことや苦しいことがあると、早くこういうことから解放されたい、天国に行ってイエスさまにお目にかかりたい、と思うことがないでしょうか。
 逆に、24節ではこの世で生きる場合のことを考えています。「肉にとどまる」と述べていますが、「肉」というのは肉体のことです。ですから「肉にとどまる」というのは、もうしばらくこの世で生きて行くことです。つまり、裁判で無罪が言い渡され釈放されることです。そしてそうなることは、フィリピの教会の信徒たちのためにもっと必要なことだと言っています。フィリピの教会にまた行くことができますし、共に神さまを礼拝することができます。そして、フィリピ教会のためにパウロが奉仕することができます。つまり、フィリピ教会のためのパウロの役割が残っているのです。
 このように、死刑の判決が出て死刑となり、イエス・キリストのおられる神の国に行けることを願いたいところだけれども、無罪判決が出て生きて、さらに福音伝道のために奉仕することを神に願うのが良いのか、板挟みであるということです。

     生きるとはキリスト

 ここで注目したいのは、21節です。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」
 「生きることはキリストだ」というのは、ちょっと変な表現に聞こえます。これはいったいどういう意味なのか。おもに二つの解釈のしかたがあるようです。
 一つは、それは「キリストがあがめられるために生きる」という意味だという解釈です。わたしはキリストがあがめられるために生きる、ということです。その意味にとりますと、それは21節のすぐ前の20節の「私の身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」とほぼ同じ意味になりますので、その意味を強調しているということになります。
 もう一つの解釈のしかたは、ガラテヤの信徒への手紙2章20節と同じ意味にとる解釈です。その個所でパウロはこう述べています。 「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」(ガラテヤ2:20)‥‥ですから、「生きるとはキリスト」というのは、わたしが生きているのではなく、わたしの内でキリストが生きておられる、という意味になります。
 キリストが私の内に生きておられる。具体的に言えば、これは私の中におられる聖霊によってキリストが生きておられる、ということになります。たとえば、次の個所です。(Tコリント 12:13)「つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。」
 イエス・キリストを信じて洗礼を受けたとき、一つの霊、すなわち聖霊を飲ませてもらった。飲ませてもらった、というのはものすごくリアルな表現ですが、要するに聖霊が私の中に来られた、ということです。そうすると、「生きるとはキリスト」とは、聖霊によってキリストが私たちのうちにおられるということです。そのキリストが生きてくださる。キリストが私たちを捉え、離さない。共に生きてくださる。いや、キリストが私に代わって生きてくださる!
 このようにして、パウロにとっては、無罪となり釈放されても自分が自分を生きるのではなく、自分の内に生きておられるキリストが生きるのであり、死刑となってこの世を去ったとしても、そのキリストが私を神の国に運んでくださり、イエスさまと顔と顔を合わせてまみえることができる。生きてもキリスト、死んでもキリスト、ということになります。

     主がお決めなさること

 もう一度注意しておかなくてはならないことは、死ぬか生きるかというのは、自分で決めることではなくて、最終的には神さまがお決めなさるということです。死んで神の国に行くほうが良いと言って、自殺というようなことを考えているわけではありません。そんなことをしてはなりません。そうではなく、神さまがどう判断なさるかにゆだねるのです。
 (マタイ 10:29)「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。」ですから、たとえ死刑判決が出たとしても、それも神さまがお許しになったことだから、神さまにおゆだねするということになります。
 このことを考えますと、私たちが生きているということは、まだ神さまから見たら私たちがこの世で生きる意味があるということになります。「体は病気がちだし、不自由になり、人のお世話になるしかない。何も奉仕できないから、生きている意味がない」などとおもわれる方がいます。しかしそんなことはないのです。神さまが命を与えてくださっている。神さまから見たらちゃんと意味があるのです。意味のない人などいません。まだ神さまの与えた役割があるのです。生かされていることの意味がある。そこに希望と喜びが生まれます。

(2015年6月21日)



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