礼拝説教 2015年6月7日 主日礼拝

「人間の成長、教会の成長」
 聖書 フィリピの信徒への手紙1章3〜11 (旧約 創世記1章27)

3 わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、
4 あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています。
5 それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです。
6 あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。
7 わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです。
8 わたしが、キリスト・イエスの愛の心で、あなたがた一同のことをどれほど思っているかは、神が証ししてくださいます。
9 わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、
10 本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、
11 イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。




     感謝と喜び

 使徒パウロがフィリピの教会にあてて書いた手紙を読み始めているわけですが、今日から手紙の本文に入ります。
 3節と4節を読むと、パウロがフィリピの教会のことで神さまに感謝し、また喜びをもってフィリピの教会のために祈っていることが書かれています。まあしかし、これはまだ手紙の初めのほうですから、「日本人が手紙を書く時も同じように書くぢゃないか」と思われる方もおられることでしょう。たしかに日本でも、正式なあらたまった手紙では、季節のあいさつを述べたあと、たとえば「ますまずご健勝のこととお慶び申し上げます」などというように書きますから、それと同じでしょ、と思う方もおられることでしょう。つまり、儀礼としてこのように「感謝」「喜び」という言葉を使っているのだと考え、読み過ごしてしまいそうになります。
 しかし、同じパウロがガラテヤの教会に宛てて書いた手紙である「ガラテヤの信徒への手紙」と比べてみると、これは儀礼的あいさつなどではないことが分かります。ガラテヤの信徒への手紙のほうの、前文が終わった本文の初めの部分ではこう書かれているのです。「私はあきれ果てています。」!ガラテヤの教会の信徒たちに向かって、あなたがたのことであきれ果てている、と書いているのです。あきれ果てるとは、またずいぶんきつい表現だなあ、と思われますが、このことからも、このフィリピの信徒への手紙で3〜4節のように感謝と喜びの言葉を述べているのが、儀礼的なあいさつの言葉などではないことがよく分かると思います。
 フィリピの町の教会も、ガラテヤ地方の教会も、いずれもパウロの伝道が用いられてできた教会です。なのにこんなに違ってしまった。フィリピ教会に対するパウロの喜びの理由はなんでしょうか? それは5節に述べられています。「あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです」と。「最初の日」というのは、パウロたちがイエス・キリストの福音を宣べ伝えたのを聞いて信じた日、ということです。
 一方ガラテヤ地方の教会のほうではこう書かれています。「他の福音に乗り換えようとしていることに、私はあきれ果てています。他の福音と言ってももう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているに過ぎないのです。」(ガラテヤ1:6-7)‥‥すなわち、イエス・キリストの福音にあずかっていない、と。だからあきれ果てていることが分かります。
 すなわち、福音にあずかっているか、いないかの違いが、喜びとあきれ果てていることの違いであるということが分かります。パウロは、フィリピの教会の信徒たちがキリストの福音を信じた日から今日まで、ずっとキリストの福音にあずかっていることについて、神に感謝をし、そしていつも喜びをもって祈っているというのです。
 おさらいのようになりますが、「福音」という言葉はギリシャ語では「ユーアンゲリオン」という言葉で、それは「嬉しい知らせ」「良きおとずれ」という意味です。嬉しいんですね。喜ばしい知らせです。何がそんなに嬉しい知らせかというと、「この私のような者が、キリストによって罪赦され救われた」という知らせです。そして「神さまのものとされて、聖霊なる神さまが共にいてくださる」ということです。
 「あずかる」という言葉はギリシャ語では「コイノーニア」という言葉で、交わりという意味があります。すなわち、神さまとの交わりの中に入れられているということにもなります。パウロは、フィリピの教会の信徒たちがそのように福音にあずかり続けていることを喜んでいます。もちろん、清栄であり健勝であること、健康が守られ、商売が繁盛することも大切なことに違いありません。しかしそれよりも何よりも、まず福音にあずかり続けている、すなわちイエスさまを信じ続け、喜ばしい神の恵みにあずかり続けていることを喜んでいるのです。
 私たちはどうでしょうか? たいへんなことばかりで、喜びどころではないのでしょうか?‥‥しかし、そのようにたいへんなことばかりで、喜びどころではないこの私をも、主は愛してくださり、共にいてくださる。受け入れてくださる。このことに目を留めた時、福音を喜んで良いのだと言うことが見えてきます。そしてまた、いろんな問題があるかもしれない教会であっても、その教会を愛してくださる主に目を留めた時、喜びと希望が見えてきます。

     祈り

 またパウロは4節でフィリピの教会の人たちのために「祈っています」と述べています。何を祈っているのでしょうか?
 何を祈っているのかは、9〜11節のところに具体的に書かれています。まず、「知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。」
 この文章をよく読みますと、「本当に重要なことを見分けられるように」というところに目的があることが分かります。「本当に重要なこと」とはなんでしょうか。
私たち自身の毎日をふり返ってみましょう。私たちの毎日の生活の中で、どれもこれも重要なことのような気がします。まずすべての人にとって、生きるということが重要なことです。そのためにご飯を食べることが重要だし、寝ることも重要です。ご飯を食べたら歯を磨くことも重要だし、洗濯することも重要です。学生さんにとっては、学校へ行くことが重要だし、またそこで授業を受けることも重要、テストで良い点を取ることも重要です。サラリーマンにとっては、会社に行くことが需要だし、仕事の中でもすべてが重要、家族を養うことも重要ということになります。主婦にとっては家事が重要、病気の人にとってはお医者さんに行くことも重要です。
 そう考えていくと、すべてが重要であって、重要ではないものなどないのではないかと思います。ではここで「本当に重要なこと」とはなんなのか?
 私が今まで一番忙しかった時というのは、おそらくこの逗子教会に来る直前だったと思います。富山二番町教会の牧師でありました。そこでの伝道牧会はもちろんのこと、富山地区、中部教区、また日本基督教団のいろいろな責任も負っていました。他にも、刑務所の教誨師もしていました。地元の新聞のコラムの連載も担当していました。極めつけは、ある小さな教会が無牧となり、その教会の代務者をすることとなりました。それだけならまだしも、その教会には幼稚園が付属していて、その園長も引き受けることになってしまいました。その幼稚園が何も問題がなければ良いのですが、いろいろな混乱の中にありました。しかも園児があまり集まらず、経営もたいへんでした。園長がいてもいなくても良い幼稚園ではなくて、園長がいなければならず、しかも多くの業務が待っていました。そして逗子教会に転任するための準備も始まりました。
 そうすると一週間が、怒濤のように過ぎていくんですね。しかも、自分の専門のことだけではなく、幼稚園長というような専門外のことにも全力投球しなければならない。もう体も精神的にも疲れ果てるわけですね。しまいには何もかも投げ出したくなる。しかし今日の聖書には、「あなた方の愛がますます豊かになり」と書かれていますね。そうすると投げ出すわけにも行かない。
 そうして日曜日の礼拝の準備を合間合間に時間を見つけてすることとなります。しかしそれが、単に牧師として日曜日に講壇に立って説教をしなければならないから、ということではなくなるんですね。そんなに忙しくて、何をしても中途半端となり、しまいには何をやっているのか分からなくなるような状態。そうすると、神の助けを求めざるをえなくなります。忙しすぎて、不慣れなことをしすぎて、何をしているのか分からなくなってくるからこそ、神さまの助けを求め、神の御言葉を必死に聞き取ろうとする。
 神さまの言葉、神さまの恵み。それが本当に重要なことであると、身にしみて分かってくるわけです。これは教会も同じです。説教題を「人間の成長・教会の成長」としましたように、教会にとって本当に重要なことは何か。それが見分けられるようにと祈っているわけです。

     成長・聖化

 続いてパウロが祈っているのは、10節の途中からです。「キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり‥‥」と続く個所です。
 「キリストの日」というのは、キリストの再臨の日のことです。最後の審判の日と言ってもよいでしょう。その日に、神さまの前に立つことができるように、清い者、とがめられるところのない者となるように、パウロは祈っている。私たちは清くありません。罪人です。神さまにそむいている。そういう私たちが成長して、清い者となる、とがめられるところのない者となる。
 きょう、旧約聖書の創世記1章27節も読んでいただきました。そこでは最初、神さまは人間を「ご自分にかたどって創造された」と書かれています。神さまにかたどって私たち人間を造られた。これは姿形が神さまに似ているというよりも、性質が似ているといったほうが分かりやすいでしょう。神さまが愛であるわけですから、人間も愛ある者として造られた。
 ところがそのように神さまに似せて愛ある者として造られたはずの人間が、神さまにそむいて罪を犯し、こんなに悪くなってしまったわけです。だからこの世の中もこんなに悪くなったと聖書は説明しています。
 しかしそれを神さまは、またもとの神さまに似た状態に戻していってくださる。そのためにイエスさまが十字架にかかられました。自分で清くなるのではありません。6節をもう一度見てみましょう。‥‥「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、私は確信しています。」
 自分で成長するのではありません。自分では自分をどうすることもできません。しかし主が、私たちを変えていってくださり、成長させていってくださるというのです。ここに希望があります。神さまは全能だからです。教会も成長させてくださいます。そしてそれは、パウロがそうしたように、信じて祈るところから始まります。

(2015年6月7日)



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