礼拝説教 2015年5月3日 主日礼拝

「昇天」
 聖書 ルカによる福音書24章36〜43 (旧約 エゼキエル書37:3〜6)

44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」
45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、
46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
48 あなたがたはこれらのことの証人となる。
49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
50 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。
51 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。
52 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、
53 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。




     最終回

 ルカによる福音書の連続講解説教も、今日で最終回を迎えました。私が当教会に赴任した年のアドベントから始めて、約3年半かかってご一緒に読んでまいりました。
 すべての物語には終わりがあります。すべてのテレビドラマにも最終回があります。しかし、最終回というのはなかなか難しいものだなあと、私はあまりテレビを見ないほうではありますが、そのように思います。なにか、「こんなものかなあ」という、なにかもうちょっと終わり方がないのかなあ、という感じで終わることが多いような気がします。それが熱中してみたドラマほど、そのように思われる。そして終わってみると、なんだか興ざめするような気がする。
 さて、聖書の福音書はどうでしょうか。ルカによる福音書の最後を見てみますと、弟子たちのことが書かれています。52〜53節「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」と書かれています。すなわち、大喜びと、神をほめたたえることで終わっています。イエスさまが天に行かれていなくなり、ドラマが終わるというのに喜びと神への賛美で終わっている。たいへん不思議な感じがしないでしょうか。

     聖書を説く復活のイエス

 さて、弟子たちの前に復活の姿を現されたイエスさま。それが紛れもなく、十字架にかかられて死なれたイエスさまであることをお示しになった後になさったことは、弟子たちに聖書について教えることでした。
 44節でイエスさまが「モーセの律法と預言者の書と詩編」とおっしゃっていますが、これは旧約聖書のことであると言ってよいものです。もちろん、新約聖書はイエスさまがお生まれになった後のことが書かれているわけですから、ここで聖書と言えば旧約聖書のことを指します。すなわちここでイエスさまがおっしゃっていることは、旧約聖書に書かれていることは預言であって、それは必ず成就するのだ、ということです。
 そしてイエスさまは、弟子たちの「心の目を開いて」おっしゃった、とあります。これはつまり、そのままでは聖書が理解できないということにもなります。そのままでは聖書に何が書いてあるのか分からない。じゃあ勉強しなければ分からないかというと、勉強しても分からない。勉強すれば分かるのなら勉強すれば良いのですが、そういう問題ではないということです。
 じゃあ、どうすれば聖書が理解できるのかといえば、この時イエスさまが弟子たちの心の目を開かれたという。ここで「心の目」と日本語に訳されていますが、原文は「心」という言葉になっています。すなわちイエスさまは弟子たちの「心を開いて」ということです。「心が開く」の逆は「心を閉ざす」ですね。そう考えると分かりやすいと思います。神さま、イエスさまに対して心を閉ざしていたのでは、どんなに勉強しても理解できないということです。逆に言えば、心が開かれたのなら、子供でも理解できるものです。
 キリスト教の月刊誌「百万人の福音」の4月号に、プロ野球ソフトバンク・ホークスのスタンリッジ投手についての記事が載っていました。プロ野球に詳しい方ならご存じ・でしょうが、スタンリッジ選手はクリスチャンです。そしてその記事によると、彼が信仰を持ったのは3歳の時だったそうです。「イエスさまが僕の犯す罪のために、身代わりとなって十字架にかかってくださったということが、幼いながらもちゃんと分かっていました」と語っています。
 聖書を理解し、イエスさまを理解できる唯一の条件は、心が開かれているということです。ではどうやって心が開かれるかといえば、それはイエスさまがわたしたちの心を開いてくださるということです。この時弟子たちに対してイエスさまがなさったように。ではどうしたら、イエスさまが心を開いてくださるのかといえば、それはイエスさまがおっしゃった信仰の原点ですね。「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば開かれる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。だれでも求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(ルカ11:9〜10)!「誰でも」です!
 さて、イエスさまは彼らの心を開いて、46節〜48節のように、キリスト(メシア)の受難と復活と、罪の赦しの悔い改めと、世界に福音が宣べ伝えられることが聖書に書かれていると言われました。実は、そこに書かれている文言通りのことが、旧約聖書のどこかに書かれているというのではありません。ここでイエスさまがおっしゃっているのは、46〜48節で言われていることは、旧約聖書のあそこの個所、この個所、と細かなところを拾い上げていくようなことではなく、聖書全体としてそのことが予言されているのだ、ということであると言って良いでしょう。
 すなわち、イエス様という方は、聖書の中の登場人物の一人というものではなく、聖書全体がイエス・キリストという主題で書かれているということになります。そしてなぜ、イエス・キリストという主題で書かれているかと言えば、イエス・キリストの中に私たちの一切の希望があるということになります。
 ここに、イエスさまが天に昇られる前に弟子たちに対して聖書のことを教えられた理由があります。すなわち、イエスさまが天に昇られて弟子たちの前から姿が見えなくなった時、聖書に必要なことはすべて書かれていて、その聖書を通してイエスさまが理解できるということだからに他なりません。

     あなたがたが証人

 続けてイエスさまは弟子たちにおっしゃいました。「あなたがたはこれらのことの証人となる」と。「あなたがた」というのは誰のことでしょう?‥‥それは今イエスさまの前にいる、弟子たちです。この弟子たちが、聖書の予言の通り、世界に向かってキリストの救いを宣べ伝えるキリストの証人となるのだ、と。
 それを聞いて、えっ?と思われないでしょうか。この弟子たちです。この弟子たちは、なんでこんな人たちが、と思われるような人たちです。彼らに何か取り柄があるのでしょうか? そのような能力や才能があるのでしょうか? あるいは、この世の地位や力があるのでしょうか? 何か影響力のある人たちなのでしょうか? あるいは、何かとても立派な人たちなのでしょうか?‥‥逆に、何も無いように見えます。それどころか、イエスさまが十字架に掛けられるために捕らえられるという土壇場になって、イエスさまを見捨てて裏切ってしまうという、まことに弱くて情けない、大馬鹿者の弟子たちです。とても役に立ちそうもない人たちです。それなのにイエスさまは「あなたがたはこれらのことの証人となる」とおっしゃる。いったいなぜでしょう?
 彼らが他の人と違う点はなんでしょうか? それは、彼ら自身に理由があるのではありません。彼らは、復活のイエスさまに出会いました。そこがまず異なっています。そして次に、その復活のイエスさまによってすべての罪が赦され、祝福されたということです。すなわち、この弱く情けない弟子たちは、ただそういうイエスさまを知ったということだけが違っています。そしてそのことだけが、イエスさまが彼らを証人とする理由です。「こんな私のような者も、イエスさまは受け入れてくださった」という感謝です。

     とどまっておれ

 そしてイエスさまは、直ちに彼らを世界宣教に派遣するとはおっしゃっていません。49節です。「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」と言われました。
 「父が約束されたもの」とは聖霊のことです。そしてそれが「高い所からの力」です。聖霊の力に覆われるまで、とどまっていろ、とおっしゃる。イエスさまは天に昇られるけれども、代わりに聖霊が来られる。それまで待っていなさいと、おっしゃいました。

     昇天

 そして昇天と呼ばれますが、天の国へ行かれます。しかもイエスさまは「手を上げて祝福され」、天に上げられたと書かれています。これは祝祷の形ですね。イエスさまは最後に弟子たちの元を去る時に、この弟子たちを祝福されたのです。
 ルカによる福音書では、復活してからすぐに天に行かれたように読めますが、同じルカが書いたこの続きの書物である使徒言行録を見ますと、実際には復活から昇天まで40日間あります(使徒1:3)。しかしここではひどく短くしか書かれていません。復活されてから昇天されるまで、どんなことがあり、どんなことをおっしゃったのか、いちいち書かれていない。いったいなぜでしょう?そしてまた、イエスさまが天に行ってしまわれたのに、大喜びでエルサレムに帰り、神をほめたたえている。これはいったいなぜなのか?
 たとえば日本昔話の「かぐや姫」の物語では、かぐや姫が月から迎えに来た者たちと共に地上を去って月に帰っていった時、おじいさんおばあさんは悲しくて涙に暮れました。それはもう行ってしまって、戻ってこないからです。
 しかしイエスさまはどうか。これも、この福音書の続きである使徒言行録1章を見ると、イエスさまが天に昇られた後、天の御使いが、イエスさまは「またお出でになる」と告げました。さらにイエスさまがおっしゃったように、父なる神が約束された聖霊が代わりに来られるのです。そして聖霊を通して、実はイエスさまが共におられる。復活されたイエスさまは生きておられ、天に帰られましたが聖霊を通して共に歩まれるということになります。
 それで弟子たちは、大きな喜びに満たされ、神を礼拝して賛美し続けたのです。この自分たちのように罪を犯し、失敗をし、情けないほどに弱い者を、イエスさまは受け入れてくださり、祝福してくださった。そして今度は、聖霊によって共に歩んでくださる。
 聖書に、イエスさまが本当に復活して、ああいうことをなさった、こういうことをなさったと、詳しく書いていないのも、イエスさまが生きて聖霊と共におられ、そのことを私たちが確認することができるからです。わざわざ言葉で証明する必要がないのです。
 従って、イエスさまのドラマは終わったのではありません。聖霊と共に、新しい歩みが始まったのです。今日ここに教会が建っているのも、その聖霊の働きの表れです。それゆえ、私たちも、イエスさまと共に聖霊と共に、私たち自身の新しい物語を始めることができます。

(2015年5月3日)



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