礼拝説教 2015年4月26日主日礼拝

「復活の現実」
 聖書 ルカによる福音書24章36〜42 (旧約 エゼキエル書37:3〜6)

36 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
37 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。
38 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。
39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」
40 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。
41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。
42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。




     絶望の底に射し込んだ光

 イエスさまの弟子たちは、エルサレムの町の中の一軒の家の中に集まって、閉じこもっていました。イエスさまが十字架で死んでしまわれた、その衝撃と挫折と深い絶望の中にありました。加えて、自分たちがイエスさまを見捨てたという、大きな罪責感に打ちのめされていました。言わば、どん底の中に落ち込んでいたと言えます。
 三日目の日曜日の朝、イエスさまの墓場に行った婦人たちから、天使に出会って、イエスさまの復活を告げられたというニュースも、彼らの心を開くことはできませんでした。そんなことは信じられなかったのです。彼らは癒やしがたい心の傷にうめいていました。そうして夜を迎えていました。
 そこに、エマオの村から戻ってきた二人の弟子が飛び込んできました。そして、復活のイエスさまと出会った話しをしました。すると集まっていた弟子たちは、シモン・ペトロ二も復活のイエスさまが現れたということを言いました。しかしまだ、弟子たちはイエスさまがよみがえられたことを、信じてはいないようでした。
 すると、その家の真ん中にイエスさまが現れたと聖書は記しています。すると弟子たちは恐れおののき、「亡霊を見ているのだと思った」とあります。

     椎名麟三の回心

 話しは変わりますが、戦後文学の代表的作家と言われた椎名麟三という人がいました。わたしが神学生時代通った東京の三鷹教会の会員だったということでした。もうすでに亡くなっていましたが。椎名麟三は、戦前は共産党員でした。しかし逮捕され、獄中生活を送ることとなりました。当時は共産党は非合法であり、共産党員であると言うことだけで逮捕される時代でした。しかし彼は獄中で転向しました。「転向」というのは、今の若い人たちは分からないと思いますが、思想を変えること、とくに共産主義思想を捨てることをいいました。
 なぜ彼は転向したのか。以下、椎名麟三の小さな本である『私の聖書物語』によります。彼は、共産党の同志を愛していると思っていました。思想によって、固い絆でお互いに結ばれていると思っていたのです。ところが獄中で彼は考えました。同じく牢屋の中に入れられている同志に代わって、自分が身代わりとなって死んでやれるか?と自問したのです。考えた結果の答えは「否」でした。そして次に、では大衆のために死んでやれるか?と自問しました。しかし考えた結果の答えは「否」でした。こうして彼は、自ら打ちのめされました。自分は人民大衆の解放のために戦うことを決意し、また同志を愛していると思っていたが、そうではなかったことに気がついたのです。それで彼は転向上申書を書き、釈放されました。しかし彼は挫折したのです。
 この椎名麟三の心境は、どこかこの時のイエスさまの弟子たちの姿に似ていると思います。椎名麟三は、戦後、自分自身の行き詰まりの中で聖書を手にいたします。しかし、そこに書かれていることは、ばかばかしくくだらない物語に見えて、聖書に何度もつまずきます。しかし人生の絶望の中で、聖書を捨てきることができず、上原教会の赤岩栄牧師から先生を受けました。しかし、彼にとっては何も変わらなかった。
 その日も、生きたいあまり、仕方なく無力な聖書を読んでいたそうです。そしていちばん馬鹿らしい復活の個所を読むことにしました。マタイによる福音書の復活の記事‥‥そこを読まれでもしたら困るかのようにひどく急ぎ足で書いてあった。マルコ‥‥復活の個所だけ、余計なもののように括弧で囲んであった。いらいらしてきた。そして勢いよく、三番目の福音書であるルカの復活の個所、今日の聖書箇所へ読み進めました。
(以下本文引用)
"そしてこうなったら仕様がないから、ナワトビの遊びでもする子供のように、そのまま素直にこの個所を読んでやろうと思ったのである。「ふたりの弟子が、エルサレムから七マイルばかり離れたエマオという村へ行くとき、そのふたりへ死んだイエスがあらわれたんだな。」と、彼(椎名麟三自身のこと)は神妙そうに読んでは考えた。「よろしい。そのふたりの弟子はエルサレムに帰って十一弟子とその仲間に話したんだな。十一弟子だって? ああ、そうか、十二弟子のうちユダはイエスを裏切って首をくくって死んじゃったのか。なかなか計算が行きとどいている。そこヘイエスがまたあらわれたんだな。きっと真裸じゃおかしいから、やっぱりあのユダヤのダラリとした白衣を着ていたにちがいない。ふむ、自分は霊じゃない、嘘だと思うなら、自分の手や足を見てくれ、さわって見てくれ、霊に肉や骨はないが、わたしにはあるのだって?……よろしい、イエス君、そんなにいうのなら見てあげよう。」
 そうして、彼(椎名麟三)は、弟子やその仲間へ向ってさかんに毛脛を出したり、懸命に両手を差しのべて見せているイエスを思い描いたのである。ひどく滑稽だった。だが、次の瞬間、そのイエスを思いうかべていた頭の禿げかかった男(椎名麟三)は、どういうわけか何かドキンとした。それと同時に強いショックを受け、自分の足もとがグラグラ揺れるとともに、彼の信じていたこの世のあらゆる絶対性が、餌をもらったケモノのように急にやさしく見えはじめたのである。彼は、その自分が信じられなかった。あまり思いつめていたので気ちがいになったのかも知れない気がした。彼は、あわてて立ち上って鏡へ自分の顔をうつして見た。だが、それはまるで酔っぱらったように真赤にかがやいていて、何かの宝くじにでもあたったような実に喜びにあふれた顔をしているのであった。彼は、その鏡のなかの顔を仔細に点検しながら友情をこめて言った。「お前は、バカだよ。」しかし不思議なことには、その鏡のなかの顔は、そういわれてもやはり嬉しそうにニコニコしていたのであった。
 これが私の回心の物語である。お読みの通りに実にたわいのないものだ。だが、その一瞬に見たものは、私を決定してしまったということができる。その一瞬に見たものは、手や足を弟子やその仲間たちへ差し出しているイエスの姿にすぎなかったのだが、その心理的過程は複雑なものである。"
 そのイエスは確実に死んだのだから確実に死体としてのイエス。しかし本当に死んでいるかと言えばそうではない。なぜならそれは確実に生きているイエスだから。この生と死が互いに犯すことなく同居しているイエスの肉と骨に、本当の自由を生々と見た。
 
"全く、あの復活したイエスが、生きているという事実を信じさせようとして、真剣な顔で焼魚をムシャムシャ食べて見せている姿は、実に滑稽である。だがその私にとっては、そのイエスにイエスの深い愛を感ずると同時に、神のユーモアを感ぜずにはおられなかったのである。どうやら、いまではこのイエスの姿は、私の肉体のなかに住みついてしまっているようだ。"

 ‥‥椎名麟三の心の中で何が起こったのか、それは本当のところ私にはよく分かりません。しかし懐疑的だった彼の中で、主が奇跡をなされたことは分かりました。

     復活のキリスト

 イエスを処刑した人たちが、今度は自分たちを捕まえに来るのではないかという恐れと、イエスの死のショックと絶望と深い罪責感の中にいた弟子たち。相変わらずその絶望のどん底にいた弟子たち。その夜、エマオから急いで戻ってきた二人の弟子が復活のイエスさまのことを話している、まさにその時に、イエスさまご自身が真ん中に立たれました。
 「あなたがたに平和があるように」。ここでは「平和」と日本語に訳されていますが、ヘブライ語では「シャローム」という言葉で、それは平安であり健康であり和解であり、あらゆる祝福が詰まったような、あいさつの言葉です。すなわち、よみがえられたイエスさまは、祝福の言葉を持って弟子たちのところに来られたのです。
 いっぽう弟子たちは恐れおののき、「亡霊を見ているのだと思った」とあります。喜びよりも恐れたというのも、無理もありません。そもそも、死んだ人がよみがえるという出来事が、科学的にあり得ない現象であるからと言うこともできるでしょう。確かにそれはあり得ないことです。さらに、彼らは十字架の前にイエスさまを見捨てて逃げたのです。ふつうこういうときは、「うらめしや〜」と幽霊が出てくるのが相場でしょう。
 ところが、このイエスさまは、「シャローム!」と、祝福のあいさつの言葉をかけられた。「うらめしや」ではないのです。そして、幽霊ではないことを証明されるために、手と足をお見せになったという。確かに日本の幽霊も足がありません。しかしイエスさまは手と足を見せて、幽霊ではないことを示されたという。
 弟子たちは今度は「喜びのあまりまだ信じられず」と書かれています。恐れは取り除かれた者の、今度は喜びのあまり半信半疑の状態になった。するとイエスさまは、「ここに何か食べ物があるか」とおっしゃり、焼き魚を受け取られると、それをむしゃむしゃと食べて見せてごらんになった。‥‥まさに、椎名麟三の言う通り、神のユーモアです。椎名麟三は、ここに追い求めてきた本当の自由があるのを見ました。そこに現れたイエスは、確かに死んでいる。しかし同時に確かに生きている。死という絶対の壁からも自由になっている。

     包み込むイエス

 それにしても、よみがえられたイエスさまは、弟子たちを恨むどころか、「なぜお前たちは私を見捨てたか?」「ペトロ、なぜお前は私のことを3度も知らないと言ったのか?」‥‥というように弟子たちを責めていません。何も叱責なさっていない。そういうことは全くおっしゃっていない。これはたいへん驚くべきことだと思います。そしてただ平和と祝福のあいさつをされ、ご自分が確かに復活なさったことを示してみせられる。ただ復活の喜びの中に招き入れようとなさっているように見えます。
 弟子たちの罪深さ、弱さ、情けなさ、恐れ‥‥そういったものは、すべてこの復活の中に包み込まれてしまっているように思います。この弱い弟子たちを丸ごと、復活の祝福の中に包み込んでしまわれます。同じように、主イエス・キリストは、この弱い私たち、罪深い私たち、信じ切れない私たちに対しても、「ほら、私だ」と言わんばかりに、その復活のみずみずしい命の中に丸ごと迎え入れてくださる。そのように信じることができることは、感謝です。

(2015年4月26日)



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