礼拝説教 2015年4月19日主日礼拝

「燃える心」
 聖書 ルカによる福音書24章28〜35 (旧約 詩編119:130)

28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。
29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。
30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。
31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、
34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。
35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。




     先へ行こうとされるイエス

 十字架の上で死なれ、墓に葬られたイエスさま。弟子たちの絶望の深さ、罪責感の深さは底知れぬものがありました。自分たちが救い主として信じて従って来たイエスさまが、あろうことか十字架という極刑の死刑台にはり付けにされて死んでしまわれたという衝撃と絶望。そして、そのイエスさまを見捨てて裏切ったという、自分たちの罪深さと弱さという、大きな罪責感。その闇は深く、出口の見えない暗闇に突き落とされていました。
 そしてその死から三日目の日曜日の朝、イエスさまの葬られた墓に行った婦人たちは、墓の中にイエスの遺体がなく、また天の御使いからイエスさまの復活を告げられました。それを婦人たちから聞いても、弟子たちにはたわ言にしか聞こえませんでした。それほど弟子たちの絶望は深かったのです。誰によっても癒やされることができませんでした。
 そしてその日の夕方、弟子たちが集まっていたエルサレムの家を去って、エマオの自分の家に帰っていく二人の弟子たち、クレオパともう一人の弟子の姿がありました。もうすべては終わって、もとの生活の戻っていこうとしました。そこにいつの間にか近づき、一緒に歩く人の姿がありました。それは復活されたイエスさまでした。暗い顔をしていた二人に語りかけるイエスさま。しかし二人は、それが復活したイエスさまだとは気がつかない。二人は、事情を説明しました。するとその人は、 「ああ、物わかりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」と嘆いて、聖書全体からイエスさまについて書かれていることを説き明かし始められました。これが先週の個所です。

     引き止める

 さて、そうして彼らはエマオの村に近づきました。しかし、イエスさまはなおも先に行こうとされる様子であったと書かれています。イエスさまはどこに行かれるつもりだったのでしょうか? とにかく、他に行くところがあったのでしょう。つまり、他に用事があったわけです。
 しかし二人は、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理にイエスさまを引き止めました。そうして、彼らの家にイエスさまを連れて行きました。
 なぜ二人は、無理にイエスさまを引き止めたのでしょうか? 32節にそのヒントがあるように思います。「道で話しておられる時、また聖書を説明してくださった時、私たちの心は燃えていたではないか」と互いに言っていますが、ここまでの道中、イエスさまが聖書全体にわたって、キリストについて予言されていることをお話しになったのを聞いていて、心が燃えていた。それで、もう少しお話を聞きたいと思ったのでしょう。行こうとされるイエスさまを、無理に引き止めて自分たちの家に招き入れたのです。
 そして、そのようにして無理にイエスさまを引き止めた結果、それが復活されたイエスさまであることが分かったのです。それはものすごい興奮と喜びだったことでしょう。その証拠に、彼らはそのあと急いでエルサレムにとどまっている他の弟子たちのところに戻っています。

     引き止めるべき

 この、イエスさまを「無理に引き止める」ということを考えてみたいと思います。無理に引き止めたら、イエスさまは迷惑ではないでしょうか? 他にも行く所、行く予定があったのに、無理に引き止めるとは、迷惑なのではないでしょうか? 失礼ではないのでしょうか?
 しかしそうではありません。イエスさまに限って言うならば、無理に引き止めることは迷惑ではないのです。むしろ、それを主イエスは望んでおられると言えます。
 たとえば、このルカによる福音書の11章5〜13節で、祈る時の私たちの態度について、たとえ話を使って教えておられます。それは、真夜中に友達にパンを借りに来た人のたとえです。家族も寝静まったというのに、いくら来客に出すために必要だといって、そんな夜中に玄関のドアをたたいてパンを貸してくれなどと、非常識です。しかしイエスさまはそこでおっしゃいました。「執拗に頼めば、起きてきて必要なものは何でも与えるであろう」と。そして続けておっしゃいました。「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」
 今度の「信徒の友」5月号の巻頭言を書いておられるのは、隠退教師で元金沢教会牧師の内藤留幸先生ですが、その巻頭言の中で次のようなことを書いておられました。 ‥‥“かつて銭湯を経営していたSさんは、薪を置くなどするために、隣接した空き地を欲していました、そこで、地主と何度も交渉したのですが、一向に売ってもらうことができませんでした。諦め切れずにいたある日のことです。Sさんはふと、ヨシュア記1章のみ言葉を思い出しました。
(ヨシュア1:2〜3)「わたしの僕モーセは死んだ。今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている土地に行きなさい。モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える。」 そしてなんと、その日から毎晩人目を忍んで、空き地を隅から隅まで自分の足で踏みしめ始めました。「神さま、この地を与えてください」と祈りながら……。すると、売却を頑固に断り続けてきた地主の家の事情が急変して売ってもらえることになり、しかも予想より安い価格で人手できたのです。この経験を通じて、神さまは今も生きておられ、切に求める者の願いを聞き入れてくださるのだと知らされ、「身が引き締まる思いがした」と、Sさんは語りました。
 一見するとこの証しは、いわゆる御利益宗教のお話のように思われるかもしれません。ですがSさんは、生ける神のみ言葉は時がくれば必ず現実となって成就することに深い信頼を寄せ、信仰・教会生活に朴訥に励んでいる方です。その姿を日頃から見ている私には、この証しはどこかほほ笑ましく、心温まる話として響いてきます。ことに、理屈っぽく、知識偏重になるのではなく、み言葉へ素朴な信頼を寄せているという点では、その信仰に見習いたい思いがするのです。”‥‥
 クリスチャンは、祈るたびに「イエス・キリストのお名前によって」と祈りますね。いつどこで祈っても、そのように祈ります。真夜中に祈っても、毎日祈っても、10分ごとに祈っても。どんなに祈っても良いのです。
 エマオの二人は、イエスさまを無理に引き止めました。そして無理に自分の家に泊まってもらいました。そしてそれが復活のイエスさまであることが分かり、非常な喜びと興奮に包まれました。復活のイエスさま、生けるキリストに出会いたいのなら、祈って、祈って、無理に引き止めなくてはなりません。

     主の食卓

 さて、そうして二人の家に入られたイエスさま。さっそく夕食となりました。食卓に着かれると、パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて渡す‥‥。これは、最後の晩餐でなさったことと同じです!「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」と書かれています。
 最初の頃の教会では、聖餐式のことを「パン裂き」と呼んでいました。そして、二人の目を開いて、それが復活のイエスさまであることをお示しになったのは、神さまです。つまりこれは、聖餐式においてキリストがおられることを示してくださっていると言うことができます。私たちの教会で行われる聖餐式。イエスさまは、そこに注目させています。それが大切なものであることをお示しになっています。
 前回のところと合わせて読むと、聖書を説き明かしてキリストの復活を明らかにされ、パン裂きによって、神はそこにおられるのが復活されたイエス・キリストであることをお示しになっている。聖書と聖餐式。これこそプロテスタント教会がたいせつにしてきたものです。そこに生けるキリストが明らかにされています。

     爆発する喜び

 彼らが、それがイエスさまだと気がつくと、イエスさまの姿は見えなくなったと書かれています。エマオの道中では、いつの間にか現れられた。そして今度は急に見えなくなった。‥‥このことは、復活のイエスさまは、どこにいても来てくださるということを教えています。いつの間にか、私たちのところにも来てくださる。そこに壁はありません。  彼らは互いに言いました。「道で話しておられる時、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と。
 チイロバ先生こと榎本保郎先生は、聖霊の働きとは、聖書を読んでいて、印刷された聖書が、あたかもこの自分に宛てて書かれた書物として読める時だとおっしゃっていました。それは、主の働きであり、復活の主イエスの働きです。
 彼らは「時を移さず出発した」と書かれています。その瞬間に、です。ものすごい喜びと興奮に彼らが包まれたことが伝わってきます。それは、生きておられる主に出会えた喜びです! 生きておられる主がそこにおられることが分かった時の喜びです。
 こうして、キリストなき世界に戻っていこうとした彼らは、再びエルサレムへ走って行きました。イエスの死によって解散するはずだった弟子たちの集まりは、復活のイエスさまによって再び集められることとなりました。教会はこの復活のイエスさまによって始まったのです。教会は、主イエスが復活したことの証拠なのです。

(2015年4月19日)



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