礼拝説教 2015年4月12日主日礼拝

「鈍い心」
 聖書 ルカによる福音書24章13〜27 (旧約 イザヤ書43:19)

13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、
14 この一切の出来事について話し合っていた。
15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。
16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。
17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。
18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」
19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。
20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。
21 "わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。
22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、
23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。
24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。




     帰って行く弟子たち

 「ちょうどこの日」と書かれています。イエスさまの十字架上の死と埋葬が金曜日でした。そして翌々日の日曜日の朝、イエスさまの葬られた墓に行った婦人の弟子たちは、その墓が空になっていたのを見ました。そして現れた天の御使いから、イエスさまの復活を告げられました。その日のことです。そして今日の個所で、初めて復活のイエスさまが姿を現されます。
 二人の弟子と書かれています。一人はクレオパと名前が記されています。もう一人は名前が出ていません。クレオパは、使徒ではありません。しかしイエスさまには、使徒と呼ばれる12弟子の他にも多くの弟子がいました。そのうちの一人です。そしてもう一人は誰なのか。クレオパの妻だという説もありますが、はっきりしたことは分かりません。いずれにしろ、この二人は、エルサレムからエマオという村に向かっていた。
 エマオはエルサレムから60スタディオン離れていると書かれています。今日では、このエマオという村がどこなのかはっきりしていません。60スタディオンというのは、約11qだそうです。11qとはどのくらいの距離かと思い、地図で調べてみました。すると、逗子教会から車で行ったとして、海岸沿いの道を行き、江ノ島の入り口の交差点までが11.7キロでした。だからそのちょっと手前ぐらいになります。11キロというと、歩いて2〜3時間というところでしょう。
 この二人は、なぜエルサレムからエマオへ向かって行ったのでしょうか?‥‥エルサレムには、使徒たちをはじめとする弟子たちが集まっている家がありました。彼らは、イエスさまを処刑した人たちが、今度は自分たちを捕らえるのではないかと恐れて、その家に閉じこもっていました。弟子たちにとって、イエスさまが十字架で死んだというショックの中にいたことでしょう。自分たちがすべてを捨てて従ったそのイエスさまが、捕らえられ、死んでしまわれた。すべては終わった。そういう失望と落胆と、挫折の中にいたことでしょう。しかも彼らは、イエスさまを見捨てたのです。その罪責感が、さらに追い打ちをかけるように、彼らを絶望のどん底に突き落としていたことでしょう。
 それはこの二人も同じだったでしょう。17節に「暗い顔をして」と書かれています。それは彼らの心の中を、そのまま映し出していたことでしょう。彼らにはまだ復活は信じられていなかったのです。
 イエスさまは十字架で処刑されて死んでしまわれた。すべては終わった。悲しくてつらい。しかし、イエスさまがいなくなってしまった以上、いつまでも弟子たちの集まりの中にいても仕方がないわけです。イエスさまがいなくなった以上、もうこの集まりは解散するしかありません。それに、自分たちも生きて行かなくてはなりません。生活をしていかなくてはならない。
 私たちも経験するところですが、葬儀が終わると、集まってきていた親戚も帰っていきます。それと同じように、もはやイエスさまが死んでしまわれた以上、ここにいても仕方がない。そういうことで、この二人も自分たちの家のほうに帰っていったのであると言えるでしょう。悲しくてつらいけれども、仕方がないことでした。
 イエスさまと共に過ごした日々。それは夢のように消えた出来事、単なる思い出となっていく‥‥。そういう現実が見えてくるように思います。

     イエス現る

 ところが、そこによみがえられたイエスさまが現れ、この二人と一緒に歩き始められたというのです。ルカによる福音書では、初めて復活のイエスさまが登場する場面です。よみがえられたイエスさまが並んで歩き始められる。ところがこの二人は、それがイエスさまであることが分からなかった。聖書には、「二人の目は遮られていて」と書かれています。
 遮られていたとは、どういうことでしょうか?‥‥復活のイエスさまは、以前のイエスさまとは異なる顔かたちをしていたから分からなかったと言うことでしょうか? あるいは、この2人が、復活などあり得ないという常識に完全に捕らえられていたので、目の前にイエスさまが現れても、認識できなかったということでしょうか? あるいは、この時イエスさまは顔を隠しておられたのでしょうか?
 いずれも何となく違うように思います。ここは、神さまがイエスさまだとは認識できないようにさせたと考えるのが良いでしょう。外から見ただけでは、見ただけではイエスさまだとは認識できないようにさせた。そういうことであろうかと思います。それはなぜかと言えば、このあとを読むと何となく分かってきます。つまり、目で見ることによってそれがイエスさまであると理解させるのではなく、聖書に心を向けさせるということが。
 現れたイエスさまが二人に尋ねました。「歩きながら、やりとりしているその話は何のことですか?」と。すると二人は暗い顔をして立ち止まり、「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか?」とイエスさまに言いました。これはもちろん、イエスさまの出来事を指しています。イエスさまが群衆の歓迎を受けてエルサレムに入城してから、捕らえられて十字架につけられるまでの出来事です。
 当の本人であるイエスさまに向かって、「ご存じないのですか」とは滑稽な質問です。しかしイエスさまは、ご自分の正体を明かすことなく、「どんなことですか?」とお尋ねになりました。それで二人は、「ナザレのイエスのことです」と言って、イエスさまに起こった出来事を語りました。そして最後に、今朝、仲間の婦人たちがイエスさまの墓に行ったところ遺体がなかったことと、天使が「イエスは生きておられる」と告げたことを話しました。そして、それを聞いた仲間のものがまた墓に行ったが、やはりイエスさまの遺体は見つからなかったということを。
 彼らは天使の告げたイエスさまの復活を信じていなかった。だから彼らは暗い顔をしていたのです。そして彼らは、イエスさまがキリスト=メシアであると信じていたにはいたが、そのメシアは「イスラエルを解放してくださる方」であると信じていたことが分かります。自分たちユダヤ人の国イスラエルを再考してくださる方、ローマ帝国を倒して、輝かしいイスラエル王朝を取り戻してくださる政治的指導者と。ところがそのイエスさまが、目的を達成することができず、捕らえられて殺されてしまった。しかし、そのイエスさまのいた意が墓になく、よみがえったと天使が言ったという。‥‥これはいったいどういうことか、誰かが遺体を墓から盗んだのか、天使が告げたというのは幻覚でも見たのではないか‥‥などと二人は議論していたのかもしれません。

     イエス語る

 そこでイエスさまが言われました。「ああ、物わかりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」。
 ここで言われる「栄光」とは、なんでしょうか。栄光とは、聖書では神さまに属するものです。そしてすばらしいものです。ここでは、復活と昇天を指していると言えるでしょう。すなわち、メシアは苦しみを受ける、すなわち十字架につけられるけれども、復活をして、天の国、神の国に昇られ、そこで栄光を受けるということです。そしてそれが、すべての人の救いにつながっているということです。つまり敗北ではなく勝利であるということです。
 「はずだったのではないか」とは、聖書にそのことは予言されているではないか、ということです。そしてイエスさまは、「モーセと預言者から始めて聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された」とあります。
 イエスさまが復活されたことを二人に証明したいのなら、「ほら、わたしだ、イエスだよ」と、おっしゃれば良いわけです。そして十字架の釘の跡がついている手と足をお見せになれば良いわけです。そうすれば、確かにイエスさまが復活なさったことが分かる。しかしイエスさまはここでそうなさいませんでした。聖書を説き明かされたのです。これらのことは聖書に記されている、と。すなわち、イエスさまがメシアであり救い主であることは、聖書を見て信じなさいと言われています。
 このことは、私たちにとってたいせつなことを教えてくれています。私たちも時に思うのではないでしょうか。イエスさまの姿を直接見たい、と。そうすれば信じられるのに、と。しかし、イエスさまは、それよりも聖書を示されるということです。
 「ああ、物わかりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」と嘆かれます。私たちのことも嘆かれることでしょう。本当に不信仰で、なかなか信じないのが私たちです。しかし主は、そのように嘆かれつつも、この二人の弟子と共に歩んで、聖書を説き明かされました。そのように、私たちについても嘆きつつも、聖書を熱心に説き明かしてくださるのだと言うことができます。

     共に歩まれるイエス

 さらに、復活されたイエスさまは、いつの間にかこの二人の弟子と共に歩まれました。しかし二人の弟子は、それがイエスさまであるとは気がつかない。確かに復活のイエスさまが自分たちと共に歩んでおられるのに、気がつかない。気がつかないで相変わらず暗い顔をしていました。しかし、自分たちとともに歩いているその人が、イエスさまであることが分かったならば、どんなにかすごい喜びにあふれることでしょうか。もう悩むことすらなくなるのではないでしょうか。
 これは私たちについても、たいせつなことを教えてくれています。聖書を読むと、イエスさまがこのあと天に帰られるのですが、ペンテコステの日に聖霊が降りました。その聖霊は、天に帰られたイエスさまの代わりに来られたのです。そして聖霊が来られるということは、イエスさまが共にいるということと同じです。そしてイエスさまを信じた時に、聖霊が与えられる。
なのにイエスさまを信じている私たちは、この二人の弟子のように、イエスさまがいないかのように暗く沈み込んで歩いていないでしょうか。喜びも希望もないかのように。しかし実は、イエスさまが、いつの間にか来てくださり、ともに歩いてくださる。そして「何を沈み込んで、あれこれ議論しているのか?」とお問いになるのではないでしょうか。
 もし私たちが、共に歩んでくださるイエスさまに気がついたのなら、私たちの心は一変するはずです。イエスさまがこの私たちと共に歩んでくださるのですから。恐ろしいものはありません。主が私たちの目を開いてくださるようにと祈りたいと思います。

(2015年4月12日)



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