礼拝説教 2015年4月5日・復活祭(イースター)礼拝

「生きておられる方」
 聖書 ルカによる福音書24章1〜12 (旧約 ヨナ書2:1〜3)

1 そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った。
2 見ると、石が墓のわきに転がしてあり、
3 中に入っても、主イエスの遺体が見当たらなかった。
4 そのため途方に暮れていると、輝く衣を着た二人の人がそばに現れた。
5 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。
6 あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。
7 人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」
8 そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。
9 そして、墓から帰って、十一人とほかの人皆に一部始終を知らせた。
10 それは、マグダラのマリア、ヨハナ、ヤコブの母マリア、そして一緒にいた他の婦人たちであった。婦人たちはこれらのことを使徒たちに話したが、
11 使徒たちは、この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった。
12 しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。




     ケニアのテロ事件

 先週2日にアフリカのケニアの大学で、ひどいテロが起きました。147人の学生が銃で撃たれて亡くなりました。犯行グループは、キリスト教徒の学生だけをねらって殺したそうです。たいへん痛ましい事件です。最初にこのことのために祈りたいと思います。
 「父なる神さま、先週ケニアでたいへん痛ましいテロ事件が起きました。あなたを信じる多くの若い人が死にました。主よ、私たちはたいへん悲しく思います。どうぞ殺された若者たちを天のあなたのふところに迎え入れてください。また、そのご遺族を慰めてください。そして、テロリストたちを悔い改めへと導いてください。どうぞ彼の地に、主の和解とゆるしと平和が訪れますように、そのために祈っているアフリカの兄弟姉妹たちを励ましてください。主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。」

     ちょうど説教が復活の個所に

 イースターおめでとうございます。
 私は、この逗子教会の礼拝で、祝祭日を除いて、ルカによる福音書の連続講解説教を続けて来ました。いつから始めたかというと、私が逗子に来た2011年11月27日、アドベントの第一主日から始めました。そしてルカによる福音書を順番に説教してきました。
 そしてきょう、ちょうど復活祭の日に、イエスさまの復活の個所となりました。実に主の導きを感じます。みなさん、私が取り上げる聖書の長さを計算し、調節して、ちょうど今日が復活の個所になるようにしたと思いますか?‥‥そうではありません。実に不思議なことに、順番に取り上げていったら、ちょうど今日、復活の個所となったのです。私はこのことに気がついた時に、驚きました。そして神さまの不思議な導きに感謝せざるを得ませんでした。すなわち、主は、そのように私たちを導いてくださったのです。

     十字架から三日目

 聖書に入ります。24章1節「週の初めの日の明け方早く」と書かれています。「週の初めの日」というのは、日曜日のことです。「明け方早く」というのは、日の出前のようやく空が明るくなりつつある頃ということです。婦人の弟子たちが、イエスさまの墓に行きました。夜が明けきらない前に行ったというところに、この婦人たちの気持ちが表れているように思います。すなわち、一刻も早く行って、イエスさまのご遺体をきれいにして差し上げたい、と。
 金曜日の午後3時に十字架上でイエスさまが息を引き取られました。そして、午後6時までのわずかの時間に、アリマタヤのヨセフが中心となって遺体を取り下ろし、傷だらけの遺体を清め、亜麻布で巻いてヨセフの墓に納めました。時間がなかったので、あわただしく葬られました。ですから十分に丁寧にご遺体を処置する時間が無く葬られた。それでこの婦人たちは、もう一度イエスさまの墓の中に入って、亜麻布をほどいて、香料を塗って差し上げようというわけです。一刻も早く。それで、そんな朝早くに墓に行ったと思われます。
 ガリラヤからずっとイエスさまに従って来た婦人たち。しかしそのイエスさまが亡くなってしまった。イエスさまの出来事は過去のものとなりました。それは思い出となったのです。もうどうすることもできません。せめて、イエスさまにして差し上げることはないか。そう考えての行動です。
 いっぽう、使徒たち、男の弟子たちはどうしていたのでしょうか。彼らは、エルサレムのある家に閉じこもっていました。ヨハネによる福音書20:19では、イエスさまを十字架にかけた人たちの追及を恐れていたと書かれています。また同時に、彼らは自分自身につまずいたのでしょう。イエスさまを見捨てた自分自身に。
 さて、婦人たちはイエスさまの葬られた墓場に到着しました。すると、墓の入り口を塞いでいた大きな丸い石が、脇に転がしてあったのを見ました。この地方の当時の墓は、崖をくり抜いた横穴式で、入り口に丸い石を転がしてフタをするのでした。しかしその丸い石がどかしてあった。つまり、入り口が開いていたということです。
 彼女たちは、何事かと思ったでしょうね。中に入ってみると、イエスさまの遺体が見当たらなかった。驚いたことでしょう。「どうしてしまったのか?」「誰がイエスさまの遺体を持ち出したのだろうか?」‥‥そんなことを思ったでしょう。
 遺体というのは、本人が生きていた証しです。今なら写真やビデオもありますが、当時はそんなものはありません。遺体が無くなってしまった。個人の生きていた証しさえも無くなってしまった。婦人たちはどうすることもできず、ただただ途方に暮れるしかありませんでした。

     天使

 そこに「輝く衣を着た二人の人がそばに現れた」と書かれています。輝く衣という表現は時々出てきますが、これはこの2人が天界の存在、天の御使いであることを示していると言えるでしょう。
 イエスさまの遺体はない。しかしこの天使二人が現れて、彼女たちに告げました。「なぜ生きておられる方を死者の中に捜すのか。ここにはおられない。復活なさったのだ。」!イエスさまは生きておられるというのです!だから墓の中にはおられないというのです。そして続けて言うには、イエスさまが十字架につけられて三日目に復活することをお話しになったことを思い出せ、と。以前イエスさまがおっしゃっていたことを思い出すように、と促します。そしてその語られた言葉が真実なのだ、というのです。すなわち御使いたちは、主の御言葉を強調していることが分かります。
 私たちは、そんなことより、早くよみがえられたイエスさまに登場してほしいと願うでしょう。しかし神の御使いは、まずイエスさまの語られた予言を思い出しなさいと言うのです。

     使徒たち

 このメッセージを聞いた婦人たちは、急いで墓から使徒たちの隠れていた家に戻り、一部始終を告げました。すると使徒たちは、喜ぶかと思いきや、それを聞いて「たわ言のように思われた」というのです。とても信じられなかった、ばかばかしい話しとして聞こえた、というのです。
 それは、死人がよみがえったということが非科学的な現象だから、とても信じられないということでしょうか?‥‥たしかにそういう意味もあることでしょう。しかしここはもう少し、使徒たちの心の内を読み取りたいと思います。使徒たちは、イエスさまから選ばれ、イエスさまの最もおそばで従って来ました。
 ところが、最後の晩餐のあと、満月の夜、イエスさまと共にゲッセマネのオリーブ園に行った時、そこでイエスさまが逮捕されると、クモの子を散らすように逃げてしまいました。ずっとイエスさまに従って来て、最後に見捨てたのです。それは彼らにとって、大きな心の傷となったに違いありません。「覆水盆に返らず」ということわざがありますが、まさにそれでしょう。自分たちは、イエスさまを見捨てたまま、イエスさまが十字架で死んでしまわれた。もう取り返しがつかないのです。自己嫌悪に陥ったことでしょう。
 それなのに、この婦人たちは、イエスさまの遺体が墓に無く、その上天使がイエスさまのよみがえりを告げたという。あまりにも調子が良すぎる話しに聞こえたでしょう。彼らは自己嫌悪と、癒やしがたい罪責感にさいなまれていました。そんなに簡単に自分たちの過ちが赦されるはずがない、腹水が盆に返るはずはない‥‥そう思ったに違いありません。自分の罪、自分の弱さの暗闇の中から抜け出せないのです。
 それで、婦人たちの話しは、あまりにもムシが良すぎるたわ言のようにしか聞こえなかったのだと推察いたします。

     ペトロ

 中でも使徒ペトロは、その最たるものだったのではないでしょうか。ペトロは、最後の晩餐の席で、イエスさまのためなら「牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(22:33)と言ったのです。ところがその舌の根も乾かないうちに、イエスなど知らないと三度も言って、イエスさまとの関わりを否認しました。彼はその自分の弱さ、罪深さのために、泣くことしかできませんでした。そしてそのままイエスさまは十字架にかけられ、死んでしまった。
 自分自身の情けなさ、ふがいなさ、不信仰につまずき、どん底に落ち込んでいたに違いありません。それはまさに悪夢です。取り返しがつかないといって、これ以上のことはありません。そのペトロは、婦人たちの報告を聞いた時、立ち上がって墓へ走って行ったと書かれています。それはどういう心境だったのでしょう。「もしかしたら、ひょっとして?」という、一縷の望みをかけてのことだったでしょうか。ワラにもすがりたい思いだったでしょうか。それは絶望のどん底に射した、一筋の光に思われたかもしれません。
 墓に駆けつけたペトロは、婦人たちの言う通り空っぽの墓を見ました。イエスの遺体をくるんであった亜麻布だけがそこにありました。もしペトロに、「もしかしたら本当に復活?」という思いがあったのなら、それはペトロの信仰があったということよりも、最後の晩餐の席で、イエスさまがペトロにおっしゃった、「わたしはあなたのために信仰が無くならないように祈った。」(22:32)‥‥とのイエスさまの祈りによって、支えられていると言うべきでしょう。
 イエスさまはペトロのために祈られた。その祈りが、希望の一筋となっていたのです。

     復活の前兆

 今日ご一緒にお読みした聖書箇所では、まだよみがえったイエスさまご自身の姿は現れません。代わりに、神の御使いのイエスさまのよみがえりの言葉だけが語られます。イエスさまが言っておられたことを思い出しなさい、と。すなわち、御言葉に目を向けるように命じています。
 私たちも、復活のイエスさまご自身の姿を見ていません。しかし私たちの前には、聖書の御言葉があります。その御言葉が確かであることを信じるようにと、主はそのように私たちに命じておられると思います。
 やがて私たちも、この目で復活のイエスさまにお目にかかることになるでしょう。そしてそれを保証し、約束するのが聖書の御言葉です。そして今日の聖書のメッセージで 

(2015年4月5日)



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