礼拝説教 2015年3月29日

「埋葬」
 聖書 ルカによる福音書23章50〜56 (旧約 詩編89:49)

50 さて、ヨセフという議員がいたが、善良な正しい人で、
51 同僚の決議や行動には同意しなかった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいたのである。
52 この人がピラトのところに行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出て、
53 遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。
54 その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。
55 イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、
56 家に帰って、香料と香油を準備した。婦人たちは、安息日には掟に従って休んだ。




<イエスの墓の写真(プロジェクター)>
@聖墳墓教会
 エルサレム旧市街地にある聖墳墓教会。それはゴルゴタ(ラテン語で「カルバリ」)の丘の上に建てられたと言われる。その教会の建物の中には、十字架が立った場所、そしてイエスさまが十字架から取り下ろされ、葬られた墓だという洞窟も保存されている。しかし建物の中だし、やたらと飾り付けられていて、なんだかピンとこない。それで‥‥
Aゴードンのカルバリ
 こちらはエルサレムの城壁の北側になる場所。19世紀、イギリスのゴードン将軍が、この場所のそばで昼食をとっていた。ふとみると、この崖がドクロ(ゴルゴタ、またはカルバリ)に見えた。かれは「ひょっとして、ここが本当のゴルゴタの丘では?」と思い、土や石に埋もれていた地面を発掘。するとそこから崖に掘られた墓が出てきた。そして、中には、3体の遺体を置くスペースが。しかも、手前の二つは未完成。このことはつまり、この墓がまだ未完成の新しい墓であったことを示していた。
 するとそれはマタイによる福音書27:60の記述と合致する。‥‥アリマタヤのヨセフが「岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。」
 これが本当のイエスさまの墓なのかどうかは分からない。しかし、イエスさまの当時の墓の様子を想像することができる。

     墓に

 すべての物語には終わりがあります。それはたいてい主人公の死によってラストを迎えます。
 昨日放送を終えたばかりの、NHK朝の連続テレビドラマである「マッサン」の妻エリーも死にました。そして墓の場面で終わりとなりました。テレビでは描かれていませんでしたが、エリーの実在のモデルであるリタはクリスチャンで、余市教会で葬儀が執り行われました。
 マッサンがエリーの墓で過去を思い起こしたように、墓というのは、何かとてつもなく懐かしい思いになる場所だと思います。確かにその中には、個人の体の一部がある。しかしもはや何の返事もない。しかし、故人によびかけたくなる。そして懐かしい記憶がよみがえってくる。そういう場所ではないかと思います。
 しかしそれはまた同時に、死というものの冷酷な現実を思い知らされる場所でもあります。呼んでも叫んでも、答えは返ってこない。もはや私たちの手の届かない所に行ってしまったという思いになります。十字架で死なれたイエスさまも、その墓の中に納められるというのが今日の個所です。

     アリマタヤのヨセフ

 旧約聖書の申命記21:23に、木にかけられた死体は呪われたものであり、必ずその日のうちに埋葬しなければならない、ということが書かれています。しかもこの日は金曜日で、日没と同時に次の日である安息日が始まります。安息日が始まると、なにもしてはならないので、イエスさまの遺体を葬ることもできなくなります。つまり、イエスさまが亡くなったのが午後3時であり、この頃はちょうど春分を過ぎたあたりなので、日没は午後6時として、わずか3時間の間に、イエスさまの遺体を十字架から取り下ろし、葬りのための処置をして、墓に納めなくてはならないのです。
 しかし、ご承知のように、イエスさまの最もおそばで付き従ってきたはずの使徒たちはここにはおりません。さて、どうする?という状況です。たいへん困った状況となりました。
 その時のことです。今日の聖書箇所に記されている通り、アリマタヤ出身のヨセフという人が現れ、イエスさまを埋葬したのです。彼は初登場です。どんな人なのか。「ヨセフという議員」とあるように、彼はユダヤ最高法院の議員であったことが分かります。つまり、昨夜、大祭司の邸宅でイエスさまを尋問し、死刑を決定した最高法院の議員であった。
 しかし、きょうの聖書個所には、彼は「善良な正しい人」であったと書かれています。「正しい」というギリシャ語は、「公平な」という意味の言葉です。つまり、このヨセフという人は、偏見のない人であったということになります。仲間の議員たちが何といおうと、それに左右されずに、偏見のない目で公平に人を見る目があった人です。そして、彼は同僚の決議や行動には同意しなかったと書かれています。イエスさまを死刑にすることに同意しなかった。ということは、反対したのでしょうか?
 マタイによる福音書の27:5には、「この人もイエスの弟子であった」とあります。また、ヨハネによる福音書19:38には「イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していた」とあります。「イエスの弟子」ということの意味は、イエスさまを信じていた、ということです。しかしそれを隠していた。すなわち、密かにイエスさまの弟子となったということです。イエスさまを信じていたが、そのことを公にすることを恐れていた。ゆえに、イエスさまの死刑に「同意しなかった」ということの意味は、おもてだって反対したというのではなく、賛成はしなかった、という、おそらくは黙っていたという消極的な意味でしょう。
 しかし、「ヨセフは弱虫だ。卑怯だ」と言って、私たちは彼を責めることができるでしょうか?
 たとえば、戦争中、実は戦争に反対だったという人もいたようです。しかしその人たちは、勇気を出して反対できたのでしょうか?‥‥やはり自分が捕まることを恐れて、黙っていた人が多いのでしょう。だからと言って、あとになって誰がそれを非難できるでしょうか。もしかしたら自分が反対の声を上げることは考えたかもしれない。しかし、家族までもひどい目に遭うことを考えると、できなかった。そういう人もいたことでしょう。だからと言って、どうして私たちがそれを裁くことができるでしょうか。責めることができるでしょうか。‥‥
 そんなことを考えますと、このアリマタヤのヨセフの気持ちも分かってくるように思います。

     埋葬

 しかし、今や十字架の上には、遺体となったイエスさまがある。先ほど申し上げたように、安息日が始まる日没まで3時間しかありません。使徒たちも逃げてしまっていない今、だれがイエスさまの遺体を取り下ろして墓に葬るというのか?
 ここでヨセフは決心したのです。自分が、自分が行って、イエスさまを葬るしかない、と! ヨセフは、できることならイエスさまが生きているうちに弟子として従って行きたかったことでしょう。しかしそれができなかった。そうこうしているうちに、イエスさまが十字架にかけられて死んでしまわれた。悔やんでも悔やみきれない思いだったことでしょう。遅かった、と思ったことでしょう。遅すぎた弟子でした。その申し訳なさを埋め合わせるかのように、ヨセフは走り出しました。今や、同僚議員の目や世間体をかなぐり捨て、イエスさまの遺体を葬ることに全力を挙げるのです。
 まず、総督であるピラトの所に行って、遺体の引き取りを願い出ました。そして、十字架から遺体を降ろしました。そして、おそらくは血だらけとなったご遺体を、布か何かで拭いて清め、ユダヤのしきたりに従って亜麻布で巻きました。そして、おそらくは自分と家族のために作った新しい墓を、イエスさまのために提供し、その中に納めました。そして、丸い大きな石で入り口を塞いだ。‥‥
 そこには、イエスさまの婦人の弟子たちもいました。男の弟子たちの姿はありません。彼女たちは、家に帰って香料と香油を準備しました。これは遺体に塗るためのものです。日没までわずかの時間しかなかったので、イエスさまの遺体は十分に香料と香油を塗って差し上げる時間がなかった。それで、安息日が終わったら、日曜日の朝に墓場に行って、あらためてイエスさまの遺体をきれいにして差し上げようと思ったのです。

     土曜日のキリスト

 そして日没となり、安息日となりました。さて、死なれたイエスさまはどうなったのでしょうか? イエスさまの霊はどこに行かれたのでしょうか?
 私たちがこのあと唱和する「使徒信条」では、「十字架につけられ、死にて葬られ、陰府に下り」と述べられています。イエスさまの霊は、陰府に下られたのです。陰府、それは、天国ではない場所です。死者の霊魂、救われない死者の霊が行く所です。しかしイエスさまはそこへ行かれたという。本来、神の御子が行くところではありません。イエスさまが行くところではないはずです。しかし罪人として、私たちの罪を負ってくださったがゆえに罪人として、イエスさまは陰府に行ってくださった。すなわち、私たちの代わりに陰府に行ってくださった。そう信じる者は幸いです。私たちの代わりに陰府に行ってくださった、と。
 そしてまた、暗黒の陰府の世界も、イエスさまが行かれることによって、神の一筋の光が差し込む所となりました。
 安息日の土曜日、イエスさまは陰府に行っておられました。私たちの代わりに。観善意私たちの罪を負ってくださった証拠です。そして、イエスさまを葬ったアリマタヤのヨセフは、イエスさまを信じていたことを表すのが遅すぎなかったということが、これから明らかとなります。ヨセフの提供した墓は、イエスさまの復活の部隊として用いられることになります。
 そのように、イエスさまにあっては、「遅すぎる」ということはありません。イエスさまのために、今できることをするならば、用いられるのです。イエスさまのためにささげた祈りも、用いられるのです。

(2015年3月29日)



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