礼拝説教 2015年3月22日

「十字架上の死」
 聖書 ルカによる福音書23章44〜49 (旧約 イザヤ書53章9〜10)

44 既に昼の十二時ごろであった。全地は暗くなり、それが三時まで続いた。
45 太陽は光を失っていた。神殿の垂れ幕が真ん中から裂けた。
46 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。
47 百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って、神を賛美した。
48見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った。
49 イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた。




     イエスの生涯と死

 本日はイエスさまが、ついに十字架上で息を引き取られるという場面です。私たちキリスト教会が、このイエスさまを信じているということはたいへん独特であるばかりではなく、ちょっと分かりにくいことかもしれません。
 たとえばお釈迦様はどうでしょうか。インドのシャカ族の王子として生まれられ、生後間もなく母親を亡くしますが、生活は何不自由なく育ちました。しかしやがて人生の苦しみの問題の答えを求めて29歳で裕福な生活を捨てて出家し、やがて悟りを得て多くの弟子が従い、最後は弟子や信者が見守る中亡くなる。‥‥このような歩みを聞いて、多くの人々は自然に共感し、また尊敬することでしょう。
 あるいはマホメット、今日ではムハンマドと正しく呼ばれることも多いイスラム教の開祖ですが、マホメットの場合はどうでしょうか。彼は幼少の時に父母に死に別れるなど苦労しましたが、のちに神の啓示を受けたと言われ、徐々に頭角をあらわし、次第に信者を増やしていきます。また彼は軍略家としてもたけていて、幾たびもの戦いに勝ち抜いて、ついにアラビア半島を制圧して亡くなります。それはまるで、英雄の伝記、立身出世の物語のようで、わくわくするところがあるだろうと思います。
 お釈迦様と言い、マホメットと言い、その人生は、いずれも人間の目から見て理解できるところも多いように思われます。
 ところがイエスさまのほうはどうでしょうか。名もなき貧しい庶民の子として生まれたのはまだ良いとして、両親が泊まるところがなくて馬小屋で生まれたというところで、まずつまずきます。その後も庶民として育ち、30歳にして神の国の福音を宣べ伝え弟子たちを得ますが、わずか足かけ3年で指導者たちによって捕らえられ、最後は十字架という極悪人が処刑される死刑台で死ぬ。しかも弟子たちにすら裏切られ、見捨てられてしまう‥‥。
 これはとてもふつうには受け入れられないことです。見栄えもしません。それは成功談ではなく、失敗談にしか聞こえません。せいぜい、「おかわいそうに」という悲劇にしか見えない。もちろんそれは復活という輝かしい栄光へ至るのですが、多くの人はそこまで行く前に愛想を尽かしてしまう。「いったいなぜ教会は、そんな十字架をたいせつにしているのか?」という声が聞こえてきそうですが、そこに神の愛と救いが現れているからに他なりません。

     

 イエスさまが十字架にはり付けにされたのは午前9時のことでした。そして今日の聖書では、昼の12時頃から午後3時まで全地が暗くなったと書かれています。これがいったい何を表そうとしているのか分かりません。日食ではありません。というのは、イエスさまが十字架にかかったのはユダヤ人の過越祭の時でした。過越祭は満月の時なので、満月の時は日食には絶対になり得ないからです。ですから、厚い雲が空を覆ったという考え方もあります。
 しかしそのようなことよりも、暗くなったということに、天の父なる神さまの心が表れていると思います。イエスさまが捕らえられてから、何の奇跡も起こっていません。神さまは、イエスさまに対して沈黙を守っておられるように見えます。しかし全地が暗くなったというところに、人間の罪の闇を表しているように思えます。それに対する神の怒り、悲しみが表れているように思われます。

     神殿の垂れ幕

 そして午後3時となり、まさにイエスさまが息を引き取る場面になりますが、エルサレムの神殿の垂れ幕が真ん中から裂けたと書かれています。このことについて、このルカによる福音書では、イエスさまが息を引き取る直前に起きたように読めますが、マタイとマルコの福音書では、イエスさまが息を引き取ったと同時に起こったように書かれています。もっとも、どちらにしろ1〜2分の違いでしょうし、当時はもちろん時計などというものはなかったのですから、正確にはどちらが正しいなどといっても意味がないでしょう。
 しかし聖書が私たちに伝えようとしていることは、イエスさまの死によって、神殿の垂れ幕が真ん中から裂けたということです。それは確かに不思議な現象であるが、たいしたことではないと思われる方もおられるかもしれませんが、実はたいしたことなのです。だから三つの福音書がこの出来事を書き留めているのです。
 この神殿の垂れ幕というのは、神殿の建物の中の垂れ幕です。詳しく言うと、神殿の一番奥の「至聖所」(しせいじょ)と呼ばれる場所と、手前の「聖所」と呼ばれる場所を分けている垂れ幕なのです。至聖所とは何かというと、そこは神さまが人間と面会なさるという場所で、もともとは十戒の石の板の入った神の箱が置かれていました。だから最も神聖な場所です。ここに入ることができるのは、民の代表である大祭司だけで、しかも年に一度だけしか入ることが許されていません。神さまは聖なる方なので、罪人である人間は簡単には神さまに会うことができないことを表しています。
 その至聖所の手前の垂れ幕が裂けたのです。イエスさまの死によって。垂れ幕が裂けたということは、至聖所が見えるようになった。つまり、神さまの場所が開かれたわけです。今まで民の代表として大祭司だけが、年に一度だけ、しかもしかるべき手続きをして入ることが許されていました。しかしこの時その垂れ幕が裂けたということは、だれでも神さまの所に行くことができるようになった、ということになります。イエスさまの十字架の死によって。
 旧約と新約の違いはわかりますか?‥‥イエスさまが生まれる前が旧約で、イエスさまがお生まれになってからが新約だとこたえる方が多いことでしょう。確かに旧約聖書と新約聖書ということではその通りなのですが、その意味するところでいうと、ここで旧約と新約が分かれるといって良いと思います。イエスさまの十字架の死によって、今や誰でもイエスさまを信じることによって、神にお目にかかり、神さまの所に行けるようになったという意味でです。

     イエスの言葉

 そしてイエスさまは、最後に「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と大声で叫ばれて息を引き取られたと書かれています。
 これは旧約聖書の詩編31:6の言葉です。新約学者のバークレー先生によると、この言葉は、ユダヤ人が最初に我が子に教える祈りの言葉だそうです。この「霊」という言葉は、ここでは命と言って良いでしょう。ユダヤ人は、最初に自分の命を神さまにゆだねることを教える‥‥すごいですね。そしてこの言葉は、ユダヤ人が一日の業を終えるときに祈る祈りだそうです。そのように、十字架上のイエスさまは、最後に父なる神にすべてをゆだねられました。命を父なる神さまにゆだねられました。しかし単に命をゆだねられたということだけではありません。
 まずイエスさまは無実の罪で十字架にはり付けにされたのです。もし私たちが、そのようにして十字架につけられたらどうでしょうか。憤懣やるかたないでしょう。まったくのでっち上げの罪で死刑になる。死んでも死にきれないほど怒り、悔しいに違いありません。えん罪事件で長く刑務所に入った方々がおられますが、どんなに悔しかったことでしょうか。しかしこれは刑務所に入るどころではない、死刑ですからひどすぎます。
 また、イエスさまの場合は、弟子によって裏切られ、弟子が逃げて行ってしまったのです。これも、もし私たちがイエスさまだったらと言うのも変ですが、怒りが収まらないでしょう。
 さらにこれまでイエスさまは、父なる神さまに仕えてこられたのです。完全に従い、仕えてこられた。しかしその結果が十字架では、もうやってられないという思いがいたします。我々ならば、「神も仏もあるものか!」と言いたくなるでしょう。神さまにゆだねるどころか、神を恨んで呪って死ぬことになるでしょう。
 そう考えると、イエスさまが神にすべてをゆだねて息を引き取られたということは、驚くべきことだと言わなくてはなりません。すべてを父なる神が善に変えてくださる子とを信じて息を引き取られたということになります。こうして私たちは、神さまにゆだねるということは、神さまを信じるということだと分かります。

     終わりではなく始まり

 そうしてイエスさまは息を引き取られました。死なれたのです。これですべて終わってしまったかのように見えます。確かに死は終わりです。しかし、神さまがおられるとき、それは終わりではない。そのことがこれから書かれています。もちろん、それが復活、よみがえりへと続くことを私たちはすでに知っています。しかし、今日の聖書箇所を見ても、復活の前にすでに出来事が始まっていることが分かります。
 それは、まず百人隊長の告白です。「本当に、この人は正しい人だった」と言って神を賛美したという。百人隊長というのは、死刑執行人であるローマ兵の隊長、現場責任者でしょう。その人がイエスさまがこのようにして息を引き取られたのを見てそう言ったという。イエスさまが死んだことによって、終わったのではなく、何かが始まったのです。神が信じられなくなったのではなく、かえって神を賛美する。

 回りで見ていた群衆も皆、胸を打ちながら帰って行ったとある。胸を打つというのは、悲しみ嘆く姿です。先ほどまでは、イエスさまを十字架につけた人々が十字架のイエスさまを嘲り、ののしった。マタイ、マルコの福音書を読むと、通行人もののしった。しかし今は、イエスさまをののしったり嘲ったりする姿はありません。悲しみ、嘆いて帰って行ったのです。イエスさまが十字架上から奇跡によって飛び降りずに、とどまって死なれたのに、です。

 こうして、神にゆだねて死なれたイエスさまによって、新しいことが始まっている。そしてこれは劇的な復活の朝へと向かうことになります。

     神にゆだねる

 私たちは、毎日神さまにゆだねる訓練をさせられています。夜寝るときにそうです。なぜなら、明日の朝はもう目覚めないかもしれないからです。もしかしたら今夜がここの地上の人生の最後となるかもしれない。そう考えると不安ですね。どうして良いか分からなくなります。しかし今日の聖書は、イエスさまが父なる神さまにゆだねられたように、ゆだねて床につけば良いと教えてくれます。そしてキリストと共に死に、キリストと共によみがえる。

 また、今夜、私たちは誤解を受けたまま床につくかもしれません。大きな失敗をしたまま布団に入るかもしれません。屈辱を受けてベッドに入るかもしれません。しかし私たちは、神にすべてをゆだねて眠ることができるということです。キリストと共に。すべてを良きに変えてくださる神さまにゆだねることができるというのです。

 そしてまた、たとえ明日の朝、この世で目覚めなくても、主イエスの十字架の執り成しによって、神の国で目覚めさせてくださる神にゆだねることができると教えています。

(2015年3月22日)



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