礼拝説教 2015年3月8日

「究極の宣言」
 聖書 ルカによる福音書23章39〜43 (旧約 詩編32:5)

39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。
41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。
43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。




    震災から4年

 2011年3月11日(金)午後2時46分、東北地方の太平洋の海底の地下で発生した大地震から、今週水曜日で4年を迎えることとなります。その大地震から間もなく押し寄せた津波によって、福島第一原子力発電所が全電源を喪失し、重大な放射能放出を伴う事故へと発展しました。
 福島県の浜通りの南相馬市にある鹿島栄光教会は、平均礼拝出席が7名という小さな教会ですが福島第一原発から約30キロの距離にありました。(今、お仕事でいわき市にお住まいの当教会のM兄もその教会の礼拝に通っています。)
 震災の発生した日、鹿島栄光教会のある地域にも、広報車が回ってきて突然の避難勧告が告げられたそうです。「明日バスを用意しているからそれに乗るように」と。鹿島栄光教会の佐々木茂牧師は避難しなかった。町内の10件のうち、避難しなかったのは佐々木牧師の家族だけだったそうです。そして13日の日曜日の礼拝は、佐々木牧師の家族ともう一人だけで守ったそうです。
 なぜ逃げずにとどまったのか。それはご家族のことが大きな理由であったそうです。そして、聖歌397番「とおきくにや」(関東大震災の時に作られた聖歌)を口ずさんでいると、「神さまが何とかしてくださる」という気持ちになったそうです。そして、イエスさまが十字架で死なれて、エマオに向かう道をとぼとぼ歩いていた二人の弟子のところに、復活のイエスさまが現れて一緒に歩かれたように、絶望してとぼとぼ歩いているような自分にもイエスさまは必ず現れてくださると信じたそうです。そうして踏みとどまった。
 その佐々木牧師から、先日、手紙と共に小冊子が送られてきました。そこには、震災から三日目の3月13日(日)の主日礼拝の週報に載せた祈りが記されていました。こう書かれていました。「主なる神さま、私たちの魂が幼子のような素直な心で受難節を過ごすため、どうかあなたご自身が、私たちの魂を整えてください。私たちは、あなたを霊とまこととをもって礼拝し、貧しい罪人として、純粋な思いであなたの御前に歩むことができますようにと願っております。どうか私たちを導き豊かに祝福してください。」
 震災と原発事故からわずか二日後。その祈りには、地震のことも、原発の重大事故のこともありません。もっとも危険な場所にいるかもしれないのにです。ただ主のしもべとして受難節を過ごすことができるようにという祈りが記されていました。それに私は胸を打たれました。我々も、被災地のお守りとお導きを祈りつつ、幼子のような素直な心で、受難節を過ごすことができるように、主に祈りたいと思います。

     十字架上の悔い改め

 イエスさまが十字架につけられたゴルゴタの丘には、3本の十字架が立っていました。イエスさまの十字架が真ん中で、その左右にも犯罪人が十字架につけられていました。この犯罪人は、マタイによる福音書によれば「強盗」であったと書かれています。その二人の強盗のうち、一人は十字架の下にいる人々と同じようにイエスさまをののしりました。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と。しかしもう一人の強盗は、違いました。彼が語ったことが、40〜42節に記されています。その言葉をていねいに見てみたいと思います。
@ まず彼の言葉から、彼が神を恐れていたことが分かります。「お前は神を恐れないのか」と。自分という人間よりも、上に神さまがおられるということを認める。これは信仰の基本です。神を恐れない人は、神を信じない人です。しかし彼は神を恐れていることが、この言葉から分かります。
A 次に、彼は自分の罪を分かっています。「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。」との言葉がそれです。聖書では、自分の罪を自覚していることを悔い改め、と言います。聖書で言う悔い改めとは、「二度といたしません」と言って誓うことではありません。自分が罪人であることを認めることです。
 私が刑務所の教誨師をしていたときのことを思い出します。「人間はみな罪人です」と言うと、皆さんうなずかれるのです。自分が罪人であることを分かっておられる。だからむしろ話が早い。聖書の話がしやすい。しかし、人はなかなか自分が罪人であることを認めません。「自分は罪人呼ばわりされる覚えはない」などと思う人が多い。しかし、このイエスさまのとなりの十字架についているこの人は、そうではありません。自分が罪人であることを知っています。しかも、神さまに対する罪を犯してきたことを悟っています。
B 次に、彼はイエスさまについて語ります。「しかしこの方は何も悪いことをしていない。」‥‥イエスの無罪を知っています。イエスさまが何も悪いことをしていない、ということを知っているということは、この人はイエスさまのことを前から注目していたことが分かります。
C そして彼は、イエスさまの方を向きます。そして彼は、「イエスよ、あなたの御国にお出でになるときには、わたしを思い出してください」。「あなたの御国」という言葉は、直訳すると「あなたの王国」という言葉になります。つまりこれは天国のことを指しています。彼は、イエスさまが天国の主人、所有者であることを信じているのです。それを告白しています。十字架の下では、イエスさまを嘲りののしる言葉が満ちているときに、です。
D そして最後に彼は、そのイエスさまにお願いをいたします。「わたしを思い出してください」と。本当ならば、「天国に入れてください」と言いたいところでしょう。しかし自分のしてきた悪行、罪の数々を思い出したとき、とても「天国に入れてくれ」などと言える身分ではない。そのことをわきまえています。それで、せめて「わたしを思い出してください」と遠慮がちに、イエスさまにおすがりしています。
 これが彼の言葉です。自分が罪人であり、しかもひどい罪人であることを自覚している。そしてイエスさまが天国の持ち主であることを信じ、そのイエスさまにすがっています。

     イエスの宣言

 それに対してイエスさまは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とおっしゃいました。
 「楽園」と日本語に訳されている言葉は「パラダイス」という言葉です。これはペルシャ語で「囲いのある庭園」という意味だそうです。すなわちそれは天国の庭園を指していると言うことができます。つまりイエスさまは、となりの十字架にかかっているこの人に、今日イエスさまが天国に連れて行くと宣言なさっているのです!驚くべきことではありませんか!この人は、イエスさまから最初に天国に行くことを宣言された人となったのです!
 宣言されたのは、品行方正で清く正しく美しく生きた人ではありませんでした。立派で非の打ち所のない人でもありませんでした。皆から尊敬されている人でもありませんでした。強盗であり、十字架にかけられた死刑囚です。死刑になって当然な悪者です!
 いくら何でも不公平ではありませんか?!よりによって、十字架の死刑囚にイエスさまは天国行きを宣言されたのです!「そんなばかな!」「そんなやつにどうして?」‥‥私たちも信じられないのではないでしょうか。だいたい今さら悔い改めたって遅い、と思わないでしょうか。今までさんざん悪いことをしてきて、十字架にかけられて、あと数時間後には死ぬことになっている犯罪者。今さら悔い改めたところで、遅い。だいたい償いもできないじゃないか、と思われます。

     悔い改めの尊さ

 これも刑務所でのことです。ある受刑者との個人教誨の時のことでした。ちょうどこの個所を一緒に読みました。すると彼が、「私、この話が好きです」と、ポツリと言いました。私はその一言が忘れられません。
 私が接してきた範囲では、刑務所に入る人は、不幸な少年時代を送った人が多いように思います。温かい家庭というものを知らない人が多い。違う家に育ったなら、違う人生があっただろうと思うことがしばしばありました。考えてみてください。例えば、いつも両親がいがみ合い、ののしり合う家庭にいたら、子どもは、かわいそうでたまりません。
 この十字架上の死刑囚も、もしかしたらそのような背景があって、悪の道に染まったのかもしれません。しかし、罪は罪として彼は自覚しています。しかし今や十字架にはり付けにされている。彼の人生は、ここで終わろうとしている。今さらどうしようもありません。あとは数時間後に死ぬ。誰をうらむでもない。ただイエスさまの方を向いたのです。救われる資格のないわたしを憐れんでくださいというような、祈りすがる姿がそこにあります。
 その彼に対して、やはり十字架上のイエスさまは、救いを、しかも今日、イエスさまと一緒に天国にいると宣言されています。これは「悔い改め」ということの尊さが、極限まで強調されています。

     今日、今!

 「今さら悔い改めたって遅い」!!‥‥たしかにそうです。しかし!!イエスさまの目から見たらそうではない。今悔い改めたのなら、今あたらしくイエスさまと共にやり直すことができる。誰でもやり直すことができる。神さまの目から見たら、遅すぎる、ということはありません。そのことがここに際だって描かれています。
 それは私たちについても同じです。世間の人々は言うかもしれません。「遅すぎるよ」と。しかし!、イエスさまの目から見て「遅すぎる」ということはないのです。私たちが今日、今、気がついたのなら、そこが始まりです。今、イエスさまを信じたのなら、今から始まるのです。
 また、イエスさまの前では、取り返しのつかない失敗というものはありません。私たちは自分の犯した罪を思い出します。大きな失敗を思い出します。しかし、イエスさまの前では、その罪も赦されます。私たちの代わりに十字架にかかってくださったイエスさまがおっしゃるのですから、たしかです。
(Uコリント5:17)「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」
 今、イエスさまを信じてすがったならば、今から新しく始めることができる。この十字架の死刑囚に語られた言葉を、私たちが自分自身に向かってイエスさまが語られた言葉として聞くことができるのなら、幸いです。

(2015年3月8日)



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