礼拝説教 2015年3月1日

「執り成しの王座」
 聖書 ルカによる福音書23章32〜38 (旧約 出エジプト記32:13〜14)

32 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。
33「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。
34 そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。
35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」
36 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、
37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」
38 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。




     十字架

 十字架への道行きは、その終着点につきました。「されこうべ」という場所だと書かれています。これはマタイ、マルコ、ルカの各福音書では「ゴルゴタ」と、当時話されていたアラム語のままの言葉が記されています。またラテン語では、これもよく聞く言葉ですが、カルバリと言います。ここは丘になっていて、イエスさまとクレネ人シモンは十字架を背負って上り坂を行ったことになります。
 ここでイエスさまは十字架に張り付けにされます。現在のエルサレムでは、この場所は聖墳墓教会の中にあります。そして、イエスさまの十字架の木がここに立てられたという穴が、大理石で表面を固められて保存されています。もちろんその場所が本当にイエスさまの十字架が立てられた場所かどうかは分かりません。しかし、たしかにイエスさまがこのエルサレムのどこかで十字架にかけられたことを想像することができました。
 この丘が「されこうべ」と呼ばれたのはなぜなのかという推測はいろいろされています。一つには、丘の形がどくろに似ていたからだという説があります。もう一つは、引き取り手のない死刑囚の遺体が放置され、鳥や獣に食べられたりして骨になり、その骨がそこかしこに散らばっていたからだという説もあります。
 イエスさまはここで十字架にはり付けにされました。太い釘で、手のひらか手首、そして足首を十字架の木に打ちつけられます。そうしてつるされる。むごいことです。考えただけでも恐ろしいものです。イエスさまの生涯を描いた映画を高校生に見せると、イエスさまの手に釘を打ち込むためにローマ兵がハンマーを振り下ろす場面で、必ず叫び声が上がります。十字架に両手首と足首を釘で留められてつるされる。‥‥想像を絶する苦痛に違いありません。いや、想像することもできません。こうして無実のイエスさまが、死刑囚の一人としてはり付けにされました。

     嘲る人々

 十字架の下では、イエスさまの着ていた服をくじ引きで分け合うローマ兵の姿がありました。死刑囚の服でもほしいということでしょうか。それとも、有名となったイエスの着ていた服ということで、やがて値打ちが出ると思ったのでしょうか。
 見物していた多くの群衆から、イエスさまを助けようとする声や、励ます声は上がっていません。もはやイエスさまを擁護する声はそこにはありません。代わりに、イエスさまに罵声を浴びせる最高法院の議員たちと、ローマ兵の声が響きます。
 ここまでイエスさまの後についてきた民衆の中には、さまざまな思いの人がいたことでしょう。単なる見物人もいたことでしょう。また、「ひょっとして、もしかしたら、本当にこのイエスという人はメシア、救い主ではないだろうか?」と思っていた人もいたことでしょう。そのような人々の中には、十字架につけられたイエスさまが、釘を引き抜いて十字架から飛び降り、自分を十字架につけた者たちをなぎ倒すのではないかと、ひそかに思っていた者もいたことでしょう。しかし、十字架につけられたイエスさまは、そこにとどまったまま。民衆は、失望し落胆したことでしょう。やはりこの人も救い主ではなかったと。
 そのような中で、ののしる声がイエスさまに浴びせられます。イエスさまを死刑にすることを決めたユダヤの最高法院の議員たちが、あざ笑って言ったと書かれています。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うが良い。」ローマ兵も同じようなことを言ってあざけりました。「酸いぶどう酒」は、ぶどう酒が悪くなって酢のようになったもので、十字架上の死刑囚の痛みをいくらか和らげるためのものだったようです。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」。
 イエスさまの頭の上というのは、十字架の縦の棒の上の方ということですが、そこには罪状書きが記された札が付けられていました。「これはユダヤ人の王」と書かれていました。それは、ヨハネによる福音書の19章によれば、ローマ帝国の総督であるピラトが掲げさせたものでした。彼がそれを掲げさせたのは、ユダヤ人が自分たちの王を十字架につけるように要求したという当てこすりでありました。しかし今やそれも冗談のようにしか、人々には思われなかったことでしょう。十字架上にはり付けにされているのは、メシアでも王でもなく、単なる無力な死刑囚にしか見えなくなっていたからです。
 「自分を救うが良い」‥‥その嘲りの言葉が、さざ波のようになって人々の間に広がっていきました。

     執り成して祈るイエス

 その十字架上でイエスさまが口を開かれました。イエスさまが十字架上で語られた言葉は、全部で七つが記録されています。ルカ福音書では、そのうちの3つを記録しています。その最初の言葉が34節です。「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです。」
 衝撃的な言葉です。私たちの胸を打たずにはおれません。イエスさまは十字架の苦しみの中で、ご自分を十字架につけた者たちのために父なる神に執り成しの祈りをされたのです。
 この「彼らを」の彼らとは、誰のことでしょうか? いま私は、イエスさまを十字架につけた者のことであると申し上げました。しかしこの間、私たちはイエスさまの十字架までの歩みを共に読んできて、イエスさまを十字架につけた者の中に、この私たちも含まれているのであるということを学んできました。
 イエスさまが十字架につけられるに至るまで、さまざまな人間模様がありました。イエスさまのことをねたましく思い、逮捕したユダヤ人の律法学者や長老、祭司長たち。イエスさまを銀貨30枚で裏切った弟子のユダ。逃げて行った弟子たち。イエスさまのことを3度も知らないと言って見捨てたペトロ。イエスを十字架につけろと絶叫する群衆たち。イエスさまが無罪であることを知りながら、保身のために十字架刑に処した総督ピラト。十字架にはり付けにされているイエスさまをののしり嘲る人々‥‥。それは人間の罪の姿そのものです。それゆえに、そこには私たち自身の姿があります。
 我々人間の罪のために、イエスさまは十字架につけられている。罪というのは何か。私たちが罪人であるというとき、それは、一つ一つの過ちを言っているのではありません。私たちが罪の存在である、ということを言っているのです。それは、本来の姿ではないということです。神さまが最初に天地をお造りになり、人間をお造りになった。そのときの本来の姿が失われている。それが罪人であるということです。
 それゆえ、イエスさまが十字架上で神に祈られた「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです」という言葉は、本来の姿を失っている私たちすべての人間の罪を赦してくれるようとりなす祈りの言葉であるということができます。
 十字架というむごい刑に処されているイエスさま。中には、「イエスさまは神の子なのだから、十字架の肉体的な痛みはないのではないか?」と考える人もいるかもしれません。しかしそれは、はなはだしい間違いです。なぜならイエスさまは、人の子としてこの世を歩まれたからです。私たちの痛むように痛まれる。それが人の子イエスさまです。

     救い

 そうすると、ここに完全に救われた人の姿があります。それがこのイエスさまです。このイエスさまには、死への恐れも、自分を十字架にかけた者、見捨てた者たちへの憎しみもなく、非難の言葉もない。怒りもない。復讐心も、呪いの言葉もない。痛みさえも乗り越えている。そのようなものから解放されている。そこにあるのは、ただ私たちの罪の赦しと救いを願う心だけです。
 これこそが完全に救われている姿です。人々は、イエスさまに対して「自分を救え」と言ってあざける。しかしこれはすでに完全に救われている姿です! そしてまた同時に、この救いこそが、私たちの目標となる姿です。
 なぜイエスさまには、それが可能となっているのでしょうか。それは次回のところになりますが、イエスさまがとなりの十字架の死刑囚に向かっておっしゃった言葉があります。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」という言葉です。イエスさまは楽園、パラダイス、天の国を見ていました。十字架で終わりではない。死によって終わるのではない。その先、神の国を見ておられたのです。そして、それこそがたしかな世界です。この世のものは、すべて時間と共に変化し、流れていきます。変わらないものは何一つありません。すべては消え去っていきます。
 しかし、ただ一つ変わらないものがあります。それが楽園、すなわち神の世界です。そこに結びつくということです。

     救われるということ

 「父よ、彼らをおゆるしください。」なぜ「おゆるしください」なのでしょうか? それは、赦しということは、救われるということと同じだからです。イエスさまは、私たちの救いを祈っておられるのです。私たちを救いへと招いておられる。
 私たちはイエスさまを信じることによって救われ、神の国の住人とされている。その私たちが、このイエスさまと同じ境地になるように、すなわち、神さまが最初に人間を造られた、その最初の本来の姿に戻るように招いておられるのです。憎しみもなく、呪いもなく、怒りもない。痛みさえも乗り越える。そして、隣人の救いのためにとりなして祈る。‥‥そういう境地に達するように、導かれます。
 私たちは、イエスさまの執り成しの祈りによって、行くべき永遠の世界、揺らぐことのない神の国が与えられています。そのことを心に刻みたいと思います。

(2015年3月1日)



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