礼拝説教 2015年2月22日

「落涙」
 聖書 ルカによる福音書23章27〜31 (旧約 詩編119:145〜152)

27 民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。
28 イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。
29 人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。
30 そのとき、人々は山に向かっては、『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、丘に向かっては、『我々を覆ってくれ』と言い始める。
31 『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」




 先週も、「IS」(イスラム国)の恐ろしいニュースが報道されていました。リビアのISのグループが、捕らえたエジプト人のコプト教徒21人の首を切って殺害したというニュースです。コプト教というのは、キリスト教の一派で、古くからエジプトにある教派です。このニュースを聞いて、また暗い気持ちになった方も多いと思います。
 ところが昨日、ある報道を知りました。それは、その殺されたエジプト人コプト教徒の家族の発言が報道されていたのです。日本語では「クリスチャントゥデイ」のホームページで見ることができます。それによると、リビアでISに殺害された21人のうちの2人の兄弟であるベルーシ・カメルさんという男性が、アラブ人のキリスト教の番組に出演し、殺された兄弟のことを「キリスト教の栄誉のしるしとして誇りに思う」と話したとのことです。それは、IS が21人を殺害した映像をインターネットで流したわけですが、その殺された人の何人かの最後の言葉が「主イエス・キリスト」であったそうです。そしてそのメッセージを映像から消さないで流したISに感謝したそうです。ベルーシさんは、「ローマ時代から、キリスト教徒は常に迫害の犠牲となっており、自分の人生に起きた全てのことに対処することを学んできています。聖書は私たちに敵を愛し、私たちを呪う者を愛するよう教えていますから、このことはただ私たちの信仰を強めただけです」と語ったそうです。
 また彼は、「私の母は60代で、教育を受けていない女性ですが、犯人によって息子は天の御国に入ったのだから、犯人を家に招き入れ、神に彼の目を開くよう願うと言っていました」と語ったそうです。兄弟を殺害した者たちのために祈るよう言われると、ベシールさんはこう祈った。「愛する神、彼らが救われ、無知でいることをやめ、これまで教えられてきた間違った教えから離れられるように、目を開いてください」。
 私はこれを読んで、胸が打たれると共に、悔い改めの思いが強く与えられました。イスラム教徒が圧倒的多数のエジプトでは、キリスト教徒は全く少数派です。それゆえ、これまで長い間迫害や差別を受けてきました。しかしそのような中で、まさにイエス・キリストのゆるしと「敵を愛しなさい」との信仰に、そのまま生きているクリスチャンがここにいます。
 暗澹たる世界の中で、一筋の輝かしい光を見ました。それは、まさにキリストを信じることの希望の光です。願わくは、彼の祈りを主が聞き入れてくださいますように。

     ヴィアドロローサ

 今年もレント(受難節)の季節を迎えました。毎年のことなので、慣れてしまうのが一番怖いと思います。今年はちょうど福音書の受難の場面を礼拝で読んでおります。これは神の恵みであると思います。初心に返ったつもりで、読み進めたいと思います。
 エルサレムの旧市街に、「ヴィアドロローサ」(ラテン語で「悲しみの道」)と呼ばれる道順があります。「十字架の道行き」とも呼ばれます。それは、ローマ帝国のユダヤ総督であったポンテオ・ピラトによって十字架の判決が出された場所から始まって、イエスさまが死んで墓に葬られたと言われる場所まで続きます。カトリック教会の会堂に入ったことがある方はお気づきかと思いますが、カトリック教会では、会堂内に14枚の絵が飾られています。それは、この十字架の道行きの14の場面、14ステーションを描いているものです。
 出発地の、ピラトが判決を下した総督官邸は、現在はアラブ人の小学校の校庭になっていて、ふだんは入ることはできません。これが第1ステーションと呼ばれます。そしてイエスさまが鞭で打たれた場所には「ムチ打ちの会堂」という礼拝堂が建っていて、これが第2ステーションで、ここから見ることができます。
 そして、処刑場であるゴルゴタの丘には現在は聖墳墓教会が建っていて、そこまでの間の道の途中にいくつものステーションがあるのですが、そのほとんどは聖書には書かれておらず、伝説に基づいています。たとえば、イエスさまが倒れた場所であるとか、母マリアがイエスさまを見た場所であるとか、です。イエスさまがよろめいて手をついた壁というのもちゃんと保存されているのですが、二千年前のエルサレムの地面は、現在の地面の約20メートル下にあるといわれるのですから、本当にそこが手をついた場所とは言えないと思いますが、イエスさまが重い十字架をシモンと共に背負って行ったことは、想像させてくれます。
 そのように十字架の道行きにはいくつもの伝説があるのですが、ゴルゴタの丘までの間、聖書に記されているできごとは、きょう読んだ個所だけです。これは現在の十字架の道行きでは、第8ステーションでのできごととされています。現在のエルサレムは、途中から狭い路地の両側に隙間なく土産物などを売る焦点が軒を連ねていて、雑踏のようになっています。ですから、イエスさまの十字架の道行きを静かに黙想しながら歩く、ということとはかけ離れた状況ですが、しかし二千年前のこの時も、同じような状況だったかもしれません。群衆が押しかけ、怒号や泣き声が交錯する中をイエスさまは進んで行かれたのです。

     沈黙を破るイエス

 そして今日の個所で、イエスさまは、久しぶりに言葉を発せられます。23章3節で、総督のピラトに対して「それはあなたが言ったことです」とおっしゃって以来の沈黙が破られているのです。そしてそれは同時に、イエスさまが十字架にはり付けにされる前の、最後の言葉であり、最後の教えとなっています。
 処刑場へと向かうイエスさまのあとに、民衆と婦人たちがついて行きました。「民衆」と日本語に訳されている言葉は、本当は「数多くの群衆」という言葉になっています。ですから非常に多くの人々が、イエスさまの後についていったということになります。その中には、イエスさまを慕う人もいたでしょうが、先ほどまでピラトの前で「イエスを十字架につけろ!」と叫んだ人たちもいたことでしょう。また、物珍しさからの単なるやじ馬もいたことでしょう。そういう様々な人々がついて行ったことでしょう。
 そしてもう一つ、「嘆き悲しむ婦人たち」がついて行ったとも書かれています。この「嘆き悲しむ」という言葉も、言語を詳しく訳すと「嘆く」と「悲しむ」という二つの言葉からなっています。「嘆く」と訳されている言葉は、胸を打ちたたいて悲しみ嘆く、という意味があります。また「悲しむ」は、大声で嘆き悲しむという意味があります。そうするとこの婦人たちは、たいへん嘆き悲しみながら、胸を打ちたたいたり、声を上げて泣きながらイエスさまのあとをついて行ったということになります。
 まさに、いわれのない罪を負わされて十字架に向かうイエスさまのことを思い、同情し、心を痛めながら泣きながらついて行ったわけです。まさにその婦人たちに対して、イエスさまは十字架前の最後の言葉をお語りになります。

     自分のために泣け

 「エルサレムの婦人たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け」と。今、イエスさまのために泣いているわけですが、そうではなく、自分のために泣くべきである、と。なぜそんなことを言われるのでしょうか?
 29節では、子供を持たない女のほうが幸いだと言われる日が来ると、言われます。子供を授かるというのは、神の祝福であると考えられていました。逆に、子供が生まれない女性は、肩身の狭い思いをしていました。しかしそれが幸いだという日が来るというのです。なぜなら、子供が苦しむのを見なくてすむからだ、ということです。もちろん子供だけが苦しむのではありません。自分自身も苦しむ。しかもひどい苦しみであり、恐ろしさです。
 30節を見ると、その苦しみとは、山が崩れ丘が崩れて生き埋めになった方が楽だと思われるほどの苦しみであり、恐ろしさであるというのです。死ぬ方が楽であるというほどの苦しみ、恐怖。その苦しみとは何でしょうか?‥‥このあと約40年後に起こるユダヤ戦争によって、エルサレムが戦乱の中に置かれることだと言うこともできなくはないかもしれません。しかしそれよりも、ここでイエスさまがおっしっていることは、やはり神の裁きのことであると言えるでしょう。神が、私たち人間を裁かれる。その大きさ、厳しさを言っておられるといえます。

     生の木と枯れ木

 31節は不思議な言葉です。「生の木」とは誰を指しているのか?「枯れた木」とは誰のことか? 多くの聖書解説書を読むと、「生の木」とはイエスさまのことを指し、「枯れた木」とは私たちのことを指していると言います。「生の木であるイエスさまがこのような裁きに合うのであれば、ましてや枯れた木であるあなたがたはもっとひどい裁きを受ける」という意味であると。‥‥でも、それはなんか変です。私は腑に落ちませんでした。
 それで、こういうことであると思うのです。それは、「生の木」も「枯れた木」も、結局裁きを受けるということです。両方とも私たち人間を指している。その中には、善人だと言われる人もいるでしょう。悪人だと言われる人もいることでしょう。たしかに、生の木のほうが火はつきにくく燃えにくい。枯れた木のほうが燃えやすい。でも両方とも燃えるのだ、すなわち神の裁きを免れないのだ、と主は言われる。それが神の裁きの恐ろしさです。その厳しさと言ったら、たとえようもないほどであるとおっしゃっていると思います。
 我々は、神の裁きの厳しさということについて、それほどのものであると自覚しているでしょうか? もしかしたら、軽く考えていないでしょうか? しかし主イエスは、生の木でも滅びを免れないほどの厳しさであると言われるのです。

     罪を負いたもうキリスト

 先ほど歌いました讃美歌21−294番「ひとよ、汝が罪の」ですが、これは宗教改革時代の讃美歌で、作詞者はゼバルト・ハイデンというドイツ人です。もとの詩は23節もあるそうです。讃美歌21では最初と最後の節のみが歌詞になっています。その1節を、もう一度見てみましょう。
 「ひとよ、汝が罪の 大いなるをなげき、悔いて涙せよ。」
 これはまさに、今日のイエスさまの言葉そのものと言えるでしょう。私たちに主が呼びかけておられるのです。十字架にはり付けになる前に、最後に。みな、自分自身の罪の大きさを悟れ、と。そして悔いて涙を流せ、と。
 しかしいっぽうで、主イエス・キリストは、そのことを言うために来られたわけではありません。その続きを見てみましょう。
「このゆえキリスト 父のもとを去り、この世に来ましぬ。
 死にたるを生かし、病をとり去り、ついに時いたり、 
 ひとの罪のため、十字架のあがない  終えさせたまいぬ。」
 そのような人間の、つまり私たちの罪を、私たちの代わりに負うために、言い換えれば、神の裁きを受けて死ぬべきわたしたちを生かすために、病を癒やすために、この世に来られたのだ、それがキリストであると。
 山に向かって「我々の上に崩れ落ちてくれ」と言い、丘に向かって「我々を覆ってくれ」と言いたくなるほどの、恐ろしい、そして非常に苦しい神の罰、裁きから我々を救ってくださる。それがイエスさまの十字架であることを証ししています。滅ぶべき私たちの代わりに、イエスさまが滅んでくださった。それが十字架である、と。
 こうして、嘆き悲しみの涙が、感謝と喜び、そして主への賛美の涙と帰られる。このことをイエスさまは指し示しています。まことに感謝です。

(2015年2月22日)



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