礼拝説教 2015年2月15日

「加担」
 聖書 ルカによる福音書23章26 (旧約 創世記4章13)

26 人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。




     十字架を担いだ人

 本日は1節だけという短い言葉をを取り上げました。しかしこれは非常に印象的な個所です。そしてまた同時に、この個所は私たちの人生のナゾを解き明かす手助けとなる個所です。
 この個所は、イエスさまの十字架を担いだ人がいたということを告げています。イエスさまが十字架の死刑に処せられることが決まりました。そしてその十字架を処刑場であるゴルゴタの丘まで担いで引いていったのは誰なのか、ということについて、このルカによる福音書とマタイとマルコの福音書では、このシモンというキレネ人であるというように読めます。しかしヨハネによる福音書のほうを見ると、イエスさまが担いでいったと書かれています。いったいどちらが正しいのでしょうか。
 どちらも正しいのだと思います。おそらく、最初はイエスさまが十字架を担いで歩き始めた。しかし途中で、このシモンというキレネ人に交代したのだと考えられます。なぜ交代したかと言えば、イエスさまは鞭打ちの刑罰を受けており、皮膚は肉が見えるほどに裂け、血を流し、あばら骨の何本かがおれていたと思われるからです。とても担いで歩けるような状態ではなかったのです。それで途中で交代した。
 しかし皆さんご覧になった方はご存じかと思いますが、映画「パッション」と最近日本でも映画館で上映された「サン・オブ・ゴッド」では、シモンがイエスさまといっしょに十字架を担いでいることになっていました。
 きょうのルカによる福音書を見ると、シモンに「イエスの後ろから運ばせた」と書かれています。この「後ろ」という言葉をどう解釈するかに、違いがあるようです。一つは、十字架を担ぐのは、イエスさまからシモンに完全に交代し、イエスさまが十字架を担がずに前を歩き、その後ろからシモンが十字架を担いでいったという考え方です。2番目は、イエスさまが十字架の前のほう、つまり縦の棒と横の棒がクロスしているところを担ぎ、シモンが十字架の後ろのほう、つまり縦の棒の端のほうを持っていったという説です。3番目は、「後ろから」というのは、実際に後ろからということではなく、精神的な意味での「後ろ」であるとする説です。この場合は、先に挙げた二つの映画のように、シモンはイエスさまと共に十字架を担いでいったと考えます。
 どれが本当かということは、断定するのは難しいと思います。しかしいずれにしても、このシモンはイエスさまの十字架を担いだ、ということに注目をしたいと思います。

     十字架

 十字架というのは、ローマ帝国の死刑の方法のうち、もっとも厳しい死刑の方法です。それは十字にクロスした木の柱にはり付けにするという、むごい刑罰です。
 私の前任地の教会で、新しい会堂を建てる時に、礼拝堂に十字架を取り付けることにいたしました。ほんものの十字架よりも一回り小さいものです。十字架にする材木は、教会員が寄付をしてくれました。樫の木です。樫の木というのは、たいへん堅い木で、水に浮くか浮かないかというほど重い木です。実際の十字架も、そのようなしっかりした木材が使用されていたと思われます。
 新会堂に取り付ける前に、教会員一人一人に十字架にノコギリなどで傷をつけてもらいました。それは、イエスさまが私たちの罪を十字架で負ってくださったことを覚えるためでした。みんな、これがとても印象に残ったようです。そして、いよいよ十字架が新しい会堂に取り付けられる日が近づいた時のある夜、私は一人でその十字架の縦の棒を持ち上げて、肩にかけてみました。驚きました。縦の棒だけを肩にかけただけなのに、想像以上に重かったからです。ずしりときました。それは何か私の罪がずしりときたような気がして、こんな重い十字架をイエスさまが負ってくださったのかと思うと、胸がジーンときました。

     キレネ人シモン

 さて、その重い十字架を、途中からキレネ人のシモンという人が担ぎました。キレネというのは、北アフリカの、今のリビアの中にある町です。シモンという名前はユダヤ人の名前ですから、彼はリビアのキレネに住むユダヤ人だったのでしょう。その彼がどうしてこのエルサレムに来ていたかということですが、これはちょうどユダヤ人の過越祭の時でしたから、そのお祭りの時をエルサレムで迎えるために、巡礼のために来ていたのでしょう。お祭りの時に、エルサレムに巡礼をするというのは、海外に住むユダヤ人にとって夢だったようです。
 私がエルサレムに行った時に、ところどころ、アラブ人の家の玄関にバナーがかけてあったので、何かとガイドさんに尋ねたところ、「それは、イスラム教徒が、自分はメッカに巡礼したよと、誇っている」とのことでした。イスラム教徒にとって、聖地メッカに巡礼するというのは夢であるそうです。それと同じように、当時のユダヤ人にとっては、エルサレムに巡礼に行くというのは夢であったようです。
 そのように、シモンは、おそらく家族とともに巡礼のためにエルサレムに来ていたのでしょう。それは夢がかなったのであり、まことに喜ばしいことであったことでしょう。ところがそのシモンが、イエスさまを引いていくローマ軍の兵士の目に留まってしまった。おそらくシモンは体格が良かったのでしょう。そしてイエスさまは、もうぼろぼろの体で、十字架を担ぐことができなくなっていたのでしょう。ローマ兵はシモンに目をつけ、イエスさまの十字架を担がせたのです。
 シモンにとって、これは何という不運でしょうか。死刑囚の十字架を担ぐなど、絶対に嫌だったに違いありません。しかしローマ兵に逆らうことができない。だからしぶしぶ担ぐことになったでしょう。
 さて、メル・ギブソン監督の映画「パッション」では、シモンが十字架を背負い、イエスさまと共に担いでいくのですが、シモンの心境が変化していく光景が描かれています。イエスさまは連行するローマ兵に小突かれ、倒れるとけられ、また周りにいた群衆の中にも、イエスさまを愚弄する者がいる。それを見ていてシモンは、「やめろ〜!」と絶叫いたします。そして、イエスさまを励ましながら再び、イエスさまと共に十字架を担いでいく。「頑張れ。あと少しだ」と励ましながら、処刑場であるゴルゴタの丘に向かっていくんです。
 きょうの説教題は「加担」といたしました。「加担」というと、現代の日本語では、何か「悪事に荷担する」というように、悪い意味で使われることがおおいようですが、もともとは悪い意味ではありません。広辞苑を調べますと、「力を添えて助けること。味方すること。」と書かれています。こうしてシモンは、十字架を負うイエスさまを助ける。

     十字架にかかったのはイエス

 そうしてシモンは十字架を背負っていきます。しかし、結局処刑場で十字架にはり付けにされて死んだのは誰だったでしょうか? それはイエスさまに他なりません。
 このキレネ人シモンは、「シモン」と名前が記されています。固有名詞が記録されている。さらにマルコ福音書では、シモンが「アレクサンドロとルフォスとの父」であるとまで書かれています。つまりこの聖書の読者が知っている人物であると。これはいったいといういうことかというと、おそらくこのシモンは、後に主イエス・キリストを信じてクリスチャンになったのだと思われるのです。すなわち、本当は神さまに対する罪の罰として自分が担ぎ、十字架で死刑にされるところを、イエスさまが十字架にかかって死んでくださった。そのことを自分が体験した。そのことに気がついたに違いないと思います。

     イエスの十字架、私の十字架

 最初に、今日の個所は、私たちの人生のナゾを解き明かす手がかりとなる個所だと申し上げました。私たちの人生のナゾの一つは、「神さまを信じているのに、なぜ苦しい目に遭うのか? つらい目に遭うのか?」ということではないでしょうか。
 作家の曽野綾子さんが、むかしタイに行ったときのことだそうです。そこで、エイズにかかっている若い母親に会いました。彼女は子供と2人でいたのですが、この子供もエイズで死んてしまいました。また、ハンセン病で目も見えず、耳も聞こえず、指先も麻痺している人に会ったそうです。その人は、そのさんと一緒にいた神父に問うたそうです。「神さま、どうしてわたしだけこんな目に会うの?」と。神父は答えを持っていたが、言うのをしばらく言うのをためらっていたそうです。そして言ったそうです。「イエスが『この世の十字架を負ってくれ』とあなたに言っているのだ」と。後で神父は曾野さんに言ったそうです。「この人が今の言葉を受け入れてくれるかどうかは分からないが。」と。(1996.11.1、石川県宗教連盟結成50周年記念講演会にて、曾野綾子氏『理性と祈り』の講演より。場所:石川厚生年金会館)
 使徒パウロは言っています。(コロサイ 1:24)「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」
 キリスト者にとっては、苦しみは罰ではありません。キリストが負ってくださる苦しみの一部を、私たちも担わせていただくと言うことです。
 イエスさまはおっしゃいました。(ルカ 9:23)「それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」
 私たちは、キリストが負ってくださる十字架のほんの一端を担わせていただくことができるのです。そしてその十字架は、最後はイエスさまがかかってくださり命を投げ打ってくださる十字架です。私たちの罪のために私たちに代わって死んでくださる。しかしその十字架は、輝かしい復活へと続く十字架です。 私たちは、私たちのために十字架で死んでくださるイエスさまのお役に立つことを赦されていると言えます。これも感謝なことです。

(2015年2月15日)



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