礼拝説教 2015年2月8日

「判決」
 聖書 ルカによる福音書23章13〜25 (旧約 エゼキエル書34章6〜7)

13 ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、
14 言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。
15 ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。
16 だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」
18 しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだ。
19 このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。
20 ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。
21 しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。
22 ピラトは三度目に言った。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう。」
23 ところが人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた。その声はますます強くなった。
24 そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。
25 そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。




     裁判

 ローマ帝国の総督であるピラトは、イエスさまをガリラヤの領主ヘロデに裁かせようとして、ヘロデの所に送りました。しかしヘロデはイエスさまを嘲弄したあげく、結局イエスさまを裁くことなく、ピラトの所に送り返してきました。それでピラトがイエスさまを裁くこととなりました。
 ピラトは、イエスさまを訴え出た人々に対して、イエスさまがローマ帝国の法律に照らして、罪がないと言いました。そして、鞭を打ってから釈放しようと提案しました。鞭打ちというのは、立派な刑罰です。それだけで死んでしまう人がいるほど、残酷な刑罰です。無罪なのに鞭打ちを科すというのは、いったいどういうことでしょうか。それだけを見ても、これが裁判のようであってまともな裁判ではなく、ローマ帝国から派遣された総督と、現地のユダヤ人指導者たちとの取引であることが分かります。そしてヨハネ、マタイ、マルコの各福音書では、実際にイエスさまを鞭打ったことが記録されています。
 釈放を提案したというのは、以前からの慣例で、ユダヤ人の祭りの時は、囚人を一人釈放することになっていたからです。そしてこの時はちょうど過越祭の時だったからです。しかしイエスさまを訴える、祭司長、最高法院の議員たち、そして彼らが動員した民衆は、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ!」と叫びました。ピラトはイエスさまを釈放したかったので、再び彼らに呼びかけました。するとさらに彼らは「十字架につけろ!十字架につけろ!」と叫び続けました。そのようにして、ピラトは3度もイエスさまの釈放を提案しましたが、彼らは全く言うことを聞かないでイエスさまを十字架にかけて殺すように要求し続けた。聞く耳を持たないとはこのことです。
 私が岡山大学の3回生の時、大学祭の実行委員長を務めることになりました。そして学園祭が始まった当日、なんと夜、暴走族がなだれ込んできたのです。彼らはダンパ(ダンスパーティ)会場に押しかけ、「入れろ!」と叫んで、実行委員ともみ合いになりました。警察を呼べば良かったのですが、当時私は左翼でしたので、警察を呼ぶのもおもしろくありませんでした。それで放っておくと、暴走族と実行委員会の衝突で流血の事態になることは避けなければならないと思い、実行委員長権限で、彼らをダンパ会場に入れることにいたしました。翌日の昼、その暴走族のリーダーが今度は一人でオートバイに乗って大学祭にやってきました。一人だと全くおとなしい、ふつうの少年でした。私はふつうに挨拶を交わし、会話をしました。そのことを思い出します。
 群集心理、集団心理です。一人一人はふつうの人なのに、それが集まるとどうしようもなくなる。この時のイエスさまを告発する民衆も同じでしょう。一人ぐらい、「総督の話を聞こうじゃないか」という人が現れても良いように思いますが、そういう人が現れない。みんな右にならえで、「イエスを十字架につけろ!」と叫び続け、次第に興奮状態になっていく。ここにも人間の罪が表れています。
 結局ピラトは、その群衆の声に押されて、イエスを十字架につけるために引き渡してしまいます。自己保身です。このままだと暴動に発展する恐れがある。総督として、それだけは避けなければならない。暴動になれば、皇帝から自分の責任を問われるからです。それで、無罪と分かっているイエスさまに十字架という極刑に附す。ピラトの罪です。そのように、イエスさまに十字架刑を決定したこの裁判は、まるで裁判とは言えないような裁判でありました。

     神を裁く

 そしてこの裁判は、人間が神を裁くという裁判でした。神の子であるイエスさまを裁いたからです。その神の子を死刑と決めた。神がお遣わしになったひとり子を死刑にしたのですから、それは神を死刑にしたのと同じことです。人間が神に死刑の判決を下す。すなわち、人間の世の中には、神さまの居場所がないと言うことです。すべては人間の心の中から出ています。人間の心の中から、神を締めだそうということです。自分たちの思い通りではない神は、いらないということです。
 私たちに命を与えてくださったのは神さまであるのに、です。何という恩知らず、なんという破廉恥、何という身勝手‥‥。しかしそれが人間の現実の姿、私たちの姿であることを聖書は見抜いています。

     沈黙のイエス

 無実の罪を着せられる。そんなに悔しいことはないはずです。
 私が高校生の時のことでした。学校帰りにスーパーに寄り、店から出て自転車に乗ろうとしていた時、あとから店から出てきたおばさんに声をかけられました。何かな、と思ったら、「ちょっと手袋見せてくれる?」と言うのです。わたくしは、「なんか変なこというおばさんだな」と思いつつも、自分の手袋を見せました。すると、「ああ、もういい」とか言って、去って行きました。私はそのとき、はっと気がつきました。万引きと間違えられたんだ、と。そのおばさんは店の人で、万引きGメンかなにかだったのでしょう。私は頭にきて、後ろから「まちがいといて、謝れや」というようなことを言いましたが、その人はそのまま行ってしまいました。
 家に帰ってからも腹が立って仕方がありません。親に言ったところ親も腹を立てて、店に電話したところ、あとから菓子折をもって謝りに来ました。それでもまだ腹が立っていたことを思い出します。万引きと間違えられただけでも腹が立ちます。それなのに、死刑ですよ。無実の罪で十字架です。なぜイエスさまは黙っていられるのでしょうか?
 イエスさまは死刑を黙って引き受けられます。そして激しい鞭打ちの刑を、黙って引き受けられます。それは、すなわちイエスさまを訴える人々の罪を引き受けているということです。ユダヤ人の長老、祭司長、最高法院の人々、叫び続ける群衆、そして自己保身でイエスさまに十字架刑を言い渡したピラトの罪を引き受けているということです。そしてここに至ルまで関わった人々、イエスさまを裏切った弟子、見捨てて逃げて行った弟子たち、イエスさまを知らないと言って否認した弟子、それらのすべての罪を引き受けておられる姿が、これです。沈黙しておられるイエスさまの姿です。
 それらすべての罪を引き受けて十字架へ行かれます。

     私たちのために

 私たちはどう見るのでしょうか。「ピラトはひどい」「弟子たちはひどい」「ユダヤ人はひどい」と言って、彼らを非難するのでしょうか?
 実際、ヨーロッパでは、長い間ユダヤ人に対して「イエスを殺したユダヤ人」というレッテルを貼ってきました。そしてユダヤ人を、生かさぬように殺さぬように扱ってきたという負の歴史があります。あのヒトラーのユダヤ人虐殺の背景にも、ユダヤ人に対するそのような偏見をヒトラーが利用したのだと言われています。しかしそのような見方は、全くの聖書の読み違いであると言わなければなりません。聖書が言おうとしていることを、全く理解していません。聖書は、何か特定の人が罪人で、悪かったからイエスさまが十字架にかけられたと言っているのではありません。聖書が私たちに語ろうとしていることは、イエスさまを十字架に追いやった人々と全く同じ罪が、この私たちの中にもあるということです。
 ユダヤ人であるとか、ヨーロッパ人であるとか、日本人であるとか、韓国人であるとか、そういう民族や人種の違いは、「罪の性質」があるという点では何の違いもないということです。私たちは皆、等しく罪人です。
 あるクリスチャンのご婦人が、私に質問なさいました。それは、「教会では、イエスさまが私たちのために十字架にかかった、と言うけれども、それは『私たちのせいで十字架にかかった』という意味なのでしょうか?」と。たしかに、「私たちのために十字架にかかられた」というと、日本語としてふたつの取り方があると思います。一つは、「私たちを救うために十字架にかかられた」という取り方と、「私たちのせいで十字架にかかってしまった」という取り方です。
 これに対してなんと答えれば良いでしょうか。実は両方とも正しいと言えます。イエスさまは、「私たちの罪のせいで」十字架にかかってしまわれたとも言えるし、しかしそのイエスさまは同時に、「私たちを救うために」十字架にかかられたのだ、と。神を無視し、神の御子イエスさまを十字架にかけてしまうようなひどい罪人の私たちを救うために、その私たちの罪を引き受けて、十字架にかかってくださったと。
 そのことに私たちが気がつくと、私たちは、「イエスさま、まことに申しわけありません」と言って、十字架を仰ぐしかないのです。ペトロがイエスさまを見捨てて否認した自分の罪に気がついて、泣いたように。

     ありがたい

 倉田百三の書いた「出家とその弟子」という戯曲があります。終戦後よく読まれた書物と聞いております。これは、仏教の浄土真宗の開祖である親鸞とその弟子をめぐる戯曲です。浄土真宗の「他力本願」の教えを見事に描いています。それはそのまま、キリストの救いを映し出すものとなっているように思われます。
 その中で、親鸞のもっとも信頼する弟子である唯円が、親鸞に嘘をついて恋する女性と密会を重ねていたことが発覚します。唯円は、尊敬する師である親鸞に嘘をつき続けていたことを謝罪し、ひたすら「すみません、すみません」と言って謝ります。すると親鸞は、「その、すまぬという心を、ありがたいという心に深めてくれ」と答えるのです。
 「すまぬ」と謝る、しかしその「すまぬ」と言った罪はすでに赦されている。それゆえ、「ありがたい」という心に深めてくれ、ということでしょう。
 私たちは、私たちの罪がイエスさまを十字架に追いやった閉まったということに気がついた時、本当に胸を打って「イエスさま、申しわけありません」と嘆いて謝罪する気持ちになります。しかし同時に、その罪をイエスさまが引き受けて、十字架に行ってくださって、赦してくださった。そのことを思う時、「ありがたい。感謝です」ということが赦されています。これはまことにありがたいことです。

(2015年2月8日)



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