礼拝説教 2015年2月1日

「黙秘」
 聖書 ルカによる福音書23章6〜12 (旧約 詩編14編2〜3)

6 これを聞いたピラトは、この人はガリラヤ人かと尋ね、
7 ヘロデの支配下にあることを知ると、イエスをヘロデのもとに送った。ヘロデも当時、エルサレムに滞在していたのである。
8 彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである。
9 それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。
10 祭司長たちと律法学者たちはそこにいて、イエスを激しく訴えた。
11 ヘロデも自分の兵士たちと一緒にイエスをあざけり、侮辱したあげく、派手な衣を着せてピラトに送り返した。
12 この日、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。




     人質事件

 イスラム国に捕らえられていた後藤健二さん。今朝のニュースでは、殺害されたということです。たいへん悲しいことです。残念なことです。「イスラム国」という名前がついているので、イスラム教全部がそうかと誤解されているようですが、日本のイスラム教の団体は「人質の殺害はコーランの教えに反する」として、即時解放を求める声明を出していました。宗教が間違って信じられる。或いは、宗教が自分たちの目的を達成するための手段として利用される。それはとんでもないことになります。神の名を利用して、人を殺すというようなことがあってはなりません。
 今聖書では、イエスさまの受難の場面を読んでいますが、私たちの主イエスさまを捕らえ、裁判にかけているのも無神論者ではありません。神を信じているという人々です。同じ神を信じる人々が、イエスさまを死刑にしようとしている。神を信じているという人々が、神の子を抹殺しようとしているのです。それが人間の罪です。

     ヘロデ王の所に

 ユダヤ人の指導者たちは、イエスの裁判をするよう、ローマ帝国の現地の長官=総督である、ポンテオ・ピラトに訴え出ました。しかしピラトはイエスさまの無罪を知っていました。だから関わりたくありませんでした。するとイエスさまがガリラヤ地方の人であることを知って、それならばと、ガリラヤ地方の領主であるヘロデの所にイエスさまを送ることにしました。自分が面倒なことに関わりたくない。だから、「たらい回し」にしたのです。エルサレムの都には、ちょうど過越祭を守るために、ヘロデも来ていました。
 12節を読むと、「この日、ヘロデとピラトは仲が良くなった」と書かれています。それまで仲が悪かった、総督ピラトと領主ヘロデが、イエスさまのことで仲良くなった。それは良いことで仲が良くなったのではありません。イエスさまを卑しめることで仲が良くなったという、野合のような話しです。なぜ仲が悪かったのか、いろいろ推測はできますが、地元の領主と、ローマ帝国から派遣された総督と、どっちが偉いかというような、勢力争いも背景にあったのだろうと思います。
 しかしこの時、総督であるピラトは、イエスさまをヘロデの所に送りました。イエスはガリラヤ地方の人、そしてガリラヤ地方はヘロデの管轄の領土であるということで、イエスさまをヘロデに裁かせることにしたのです。ピラトから見れば、何もヘロデの顔を立てたのではなく、単にユダヤ人同士の争いという面倒なことに関わりたくなかっただけなのでしょう。しかし、ヘロデからしてみれば、ピラトが自分にイエスの裁判の権利を譲ったと見えたことでしょう。「ピラトが俺に気を使っているな」と思ったでしょう。こうして二人は、この日から仲が良くなったというわけです。
 神の子を裁くことに関して仲が良くなった。これもまた人間の罪を表しています。

     沈黙

 ヘロデは、イエスを見ると非常に喜んだと書かれています。非常に喜んだ、と。なぜそんなに喜んだかというと、イエスさまの噂を聞いていて、イエスさまが「しるし」を行うのを見たいと望んでいたからだ、と書かれています。
 ここで「しるし」という言葉が使われていますが、これはギリシャ語では「奇跡」という言葉でもあります。ヘロデはガリラヤ地方の領主、そしてイエスさまは、おもにガリラヤで神の国を宣べ伝えて活動しておられました。ですからヘロデの耳には、イエスさまのなさったことが伝わっていたわけです。イエスさまが多くの病人を癒やされたこと、目の見えない人の目を開けられたこと、死人をよみがえらせたこと、わずかのパンと魚を使って男だけでも5千人もの人々を満腹させる奇跡を行ったこと‥‥などなど、です。それはヘロデにとってもとても興味深いことであり、見てみたいことであったでしょう。イエスさまの生涯を描いた映画「JESUS」では、ヘロデがイエスさまに向かって「奇跡を行うそうだな。やって見せてくれんか」と言っていました。まるで、見世物でも見物するかのようにヘロデは言ったのだと思います。
 それに対してイエスさまは、「何もお答えにならなかった」と書かれています。沈黙されたのです。
 なぜ、イエスさまは沈黙なさったのでしょうか?反論されなかったのでしょうか? 私たちのことを考えてみましょう。私たちが相手に対して沈黙を守る時というのは、どういう時でしょうか。教の説教題は「黙秘」とつけましたが、これは警察に捕まったような時に、自分にとって不利益な供述をすることを拒否する権利が「黙秘権」であり、それは法律で認められた権利です。そのように、何かしゃべることが自分にとって不利益であるから、イエスさまは黙っておられたのでしょうか。私たちのために十字架にかかってくださったイエスさまが、そんなことを考えるはずはないでしょう。
 あるいは、私たちが黙る時というのは「言ってもムダだ」と思う時でしょう。これはイエスさまの場合にあり得るのでしょうか。確かにありうるような気もします。しかし22章67〜69節の、イエスさまがユダヤの最高法院で尋問された時は、言ってもムダだと思える状況でしたが、答えておられます。
 では、きょうのヘロデ王の前ではなぜ沈黙されていたのでしょうか?沈黙されているのなら、何を思っていらしたのでしょうか?‥‥おそらく祈っておられたのではないでしょうか。たとえばこのあとの、十字架にかけられている時のことですが、イエスさまは十字架上に於いて「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と、父なる神さまに祈っておられます。ご自分を十字架にかけた者たちのために、執り成しの祈りをしておられるのです。

     イエスの答えを聞くには

 このことは私たちにとっても、たいせつなことを教えてくれています。すなわち、イエスさまの答えを聞くためには、どうしたら良いのか、ということです。この時のヘロデ王のように、「何か言ってみろ。奇跡をして見せろ」という態度では、イエスさまは何もお答えになりません。そのような姿勢では、神の言葉を聞くことができません。神さま、イエスさまに対して上から目線では、何もお答えにならないでしょう。また、友達のようにして「何か言ってよ。奇跡をして見せてよ」でもダメでしょう。自分と対等な態度でも、何も答えは与えられないでしょう。
 ではどうしたら神さま、イエスさまの答えをいただくことができるでしょうか。神さまの言葉を聞くことができるのでしょうか。それは、私たちが身を低くして、へりくだって、求める時です。
 私が神さまの答えをいただいた時というのは、すべてそのように身を低くして尋ねた時でした。仕事を辞めて伝道者となるために神学校に献身すべきかどうかの答えを求めて祈った時もそうでした。数ヶ月聖書を読みながら祈り続けました。そして聖書を通して答えを与えられました。そのとき、すべての不安は消えてなくなりました。神さまが言葉をくださると、そのようになることを知りました。
 東京神学大学を卒業して、最初の任地である輪島教会に赴任する時もそうでした。赴任に先立って出席した輪島教会の礼拝にて、私は主の御心を尋ね求めていましたが、主は、「この地を愛しておられる」という言葉と、幻を見せてくださいました。そのとき、すべての不安は消え失せました。
 また、その教会で、ある時、牧会に失敗し、またいろいろな困難の中に置かれた時、私は絶望的になりました。聖書を開いて、涙ながらに主に助けを求めました。そのとき主は、御言葉をもって慰め、力を与えてくださいました。そして教会は息を吹き返しました。それは主の奇跡でした。
 次の任地の教会で、教会の移転建築をめぐって教会内の意見がが分裂した時、私は進退窮まったように思いました。しかし皆で聖書全巻の通読会を開き、ひたすら身を低くして主の答えを求めました。「ただ、あなたのお答えをください。私たちはそれに従います」と祈りました。そうして答えが与えられました。道が開かれ、一人も失うことなく、すべてが満たされて教会は移転することができたということは、すでに以前証ししました通りです。それも奇跡でした。
 そのように、私自身が主から答えをいただいたという時は、すべて我が身を低くした時のことでした。私たちは高慢になって主の前に立っても、主は何も答えにならないでしょう。しかし逆に、身を低くし、謙遜になり、ただ主の憐れみを求める心になるならば、主は答えを与えてくださるでしょう。聖書や、様々な事柄を通して。
 聖書通読も同じです。すでに皆様にもお配りしているわけですが、現在も聖書通読表を用いて聖書全巻の通読に取り組んでいます。そして、とくに心に留まった聖句があった時は、通読表の裏にその個所を書き留めています。そして、神さまの前に身を低くする気持ちで聖書を読むと、励ましや慰めや非常に迫ってくる言葉が与えられます。
 今日の個所でイエスさまは、ヘロデや訴える人々が、悔い改めるように祈って沈黙されています。主の前に身を低くして神の言葉を求めるようになるように、祈っておられることと思います。私たちも、身を低くして、主をほめたたえ、祈り、御言葉を求めて行きたいと思います。 

(2015年2月1日)



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