礼拝説教 2015年1月25日

「告訴」
 聖書 ルカによる福音書23章1〜5 (旧約 エゼキエル書34章8)

1 そこで、全会衆が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。
2 そして、イエスをこう訴え始めた。「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました。」
3 そこで、ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」とお答えになった。
4 ピラトは祭司長たちと群衆に、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言った。
5 しかし彼らは、「この男は、ガリラヤから始めてこの都に至るまで、ユダヤ全土で教えながら、民衆を扇動しているのです」と言い張った。




     総督ピラトに訴える

 今日の聖書箇所は、イエスさまを有罪に定めたユダヤの最高法院の議員たちが、イエスさまをポンテオ・ピラトのところに訴えたという個所です。ピラトというのは、ローマ帝国のユダヤ総督です。当時のユダヤにおける、占領政府の長官であり、ローマ皇帝の代理です。
 ポンテオ・ピラトという人は、キリスト教会ではとても有名な人です。なぜそんなに有名かと言えば、私たちの教会でも毎週「使徒信条」を唱和していますが、その中に名前が出てくるからです。「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と。毎週のように世界中で言われているわけです。言われると言って、こんなにあとあとまで世界中の人々によって毎週のようにこの時のことを言われ続ける人というのも、他に類を見ないと言えるでしょう。しかし使徒信条は、何かピラトという人を非難し続けているというのではなく、ピラトがイエスさまに十字架の判決を下したことに見られるような、人間の罪を言っているわけです。ピラトに代表されるような人間の罪ですね。私たちの罪もそこにあるということを言っているのです。
 さてユダヤの長老、祭司長など最高法院の人たちは、イエスさまをそのピラトに訴えました。十字架につけさせるためです。しかも嘘を言って訴えます。その嘘とは、まず、2節にあるように、イエスがローマ皇帝に税金を納めるのを禁じたというものです。こんなことをイエスさまはおっしゃったことがありません。しかし彼らはそのように嘘をついてイエスさまを訴えます。
 2番目に、イエスは自ら王であると言っているという嘘です。3番目は、5節にあるように、イエスは群衆を扇動してローマ帝国に対する反乱を企てているというものです。
 彼らはなぜそのように嘘をつくのでしょうか? そしてそれは、そもそもなぜ彼らはピラトに訴えるのか、ということでもあります。自分たちでイエスさまを死刑にするのではなく、ローマ帝国の総督に訴えるのはなぜか?
 よく「当時、ユダヤ人には死刑にする権限が与えられていなかった」と言われます。また、ヨハネによる福音書18:31では、彼ら自身が「私たちには人を死刑にする権限がありません」と言っています。しかしそれは本当ではありません。なぜなら、宗教上の問題に限っては、ローマ帝国占領下のユダヤ人にも死刑にすることができたからです。たとえば、ヨハネによる福音書8章のいわゆる「姦通の現場で捕らえられた女」のケースですね。律法学者やファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえた女をイエスさまの所に連れてきました。その女の人を石打の刑にするためでした。そのように、姦通罪は石打の刑で、それはユダヤ人の律法という宗教上の問題でした。また、使徒言行録7章では、教会のリーダーの一人であったステファノが、最高法院の議員たちによって石打の刑によって死んでいます。
 そのように、ユダヤ人の宗教上の問題であれば、ユダヤ人の決まりに従って死刑にすることが認められていました。しかしそれならばなぜ、今日の聖書箇所で彼らは、イエスさまを自分たちで石打の刑によって死刑にせず、わざわざローマ帝国の総督のところに連れてきて訴えたのでしょうか?
 それはやはり、民衆の反発を恐れたからに違いありません。イエスさまを慕う民衆の反発が恐ろしい。だから自分たちの手でイエスさまを処刑するのではなく、占領政府であるローマ帝国の手によって処刑させようとした。自分たちの責任逃れです。これもまた人間の罪です。

     ユダヤ人の王

 こうしてイエスさまは、ユダヤ人指導者たちによってピラトに訴えられました。そしてピラトがイエスさまを尋問いたします。「お前がユダヤ人の王なのか」。
 するとイエスさまがお答えになりました。「それは、あなたが言っていることです」。これは前回の最高法院の尋問で、イエスさまがお答えになった言葉とほぼ同じです。そして前回も申し上げましたが、この言葉のギリシャ語の意味するところは、「その通りだが、あなたの言う意味とは大分違う」というようなニュアンスを含んだ微妙な言い回しだそうです。
 この答えを聞いたピラトは、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言ってイエスさまが無罪であると表明しました。これはどういうことかというと、イエスが王であるとは、この世の政治的な王ではなく、宗教上、信仰上の世界の王であると理解したということになります。だからイエスの問題は、ローマ帝国に対して問題とならないという理解です。ピラトがこのように判断した背景には、イエスさまについてすでにかなりの情報を得ていたと思われます。
 そして先ほど申し上げましたように、このころのローマ帝国は、征服した民族の宗教問題には関わらないで自由にさせておくという方針でやってきました。それでピラトはイエスさまについて、「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言ったわけです。
 それに対してユダヤ人指導者たちは、5節ですが、「この男」イエスは、民衆を扇動してローマ帝国に反乱を企てていると言って、何とかローマ帝国の総督ピラトによって処刑させようとしているのです。そのような訴えに対して、ピラトは彼らの主張をむげに退けるわけにもいきません。なぜなら、むげに退けると、今度は彼らが暴動を起こすかもしれないからです。総督にとって、暴動が起きるということは、絶対に避けなくてはなりません。なぜなら、暴動が起き大混乱となるということは、ユダヤを納めている総督ピラトが無能であると皇帝から見なされる恐れがあるからです。そうすればピラトは左遷されかねません。

     真理にたどり着けない

 こうしてイエスさまは、イエスさまを訴える人々と、イエスさまが無罪であることを知りながら煮え切らない総督ピラトの間に置かれています。
 聖書は、このイエスさまが神のところから来られた方であり、神の御子であると言います。神の御子がそこに立っておられるのに、周りにいる人々は誰もそのことを信じない。認めようともしない。彼らの目から見たら、そこに立っているのは、自分たちにとって不利益なものであり邪魔者であるに過ぎない。せっかくそこに神の御子がおられるのに、信じない。それでなにも起こらないわけです。
 私たちのところにも、すぐそばにイエスさまはおられるはずです。聖霊によってです。そしてそのことを信じたならば、神さまの働きがそこから始まります。
 福島第一原子力発電所の一番近くにあった教会は、前にもご紹介した福島第一聖書バプテスト教会でした。震災と原発事故のあと、その教会は流浪の旅に出ることになったことも以前お話ししました。そこの教会の牧師である佐藤彰先生。先週、その佐藤先生の書かれた『祈りから生まれるもの』という本を読んでいたら、こんなことが書かれていましたのでご紹介します。
 ある時、教会の近くの歯医者さんがクリスチャンになったそうです。その方は大学の医学部でずっと研究をしていた方だそうですが、体を壊したために、その福島県大熊町で開業したそうです。クリスチャンになったあと、佐藤彰先生がその人に「クリスチャンになって、何か変わりましたか?」と尋ねたそうです。すると彼は、「変わりました。治療する時に、祈りながら治療するようになりました」と答えたそうです。
 その方はただの歯医者さんではなく口腔外科を扱う方だそうです。それで、歯が原因で頭痛がするような難しい患者さんが回されてくるのだそうです。ある時も、総合病院に入院して検査したけれどもどうしても頭痛の原因が分からず、もしかしたら歯が原因ではないかということで紹介されてきたそうです。最初、一本一本治療しても治りませんでした。けれども、お祈りしながら治療したところ、それ以来、来なくなったそうです。やがてその患者さんから、「治りました。感謝します」という手紙が来たそうです。身につけた医療技術だけで治療するのではない、神さまに祈りながら治療するのだと佐藤先生は書いておられました。
 祈りは、そこにおられるイエスさまが分かるようになる手段です。人間の考えや思いによってだけ動いていると、そこにおられるイエスさま、神さまが見えなくなってしまいます。そこに神の御子がおられるのに、それを認めないというのは、何というもったいない話しでしょうか。

     私たちを救うために

 ピラトの前に立たされたイエスさま。それはまさに、この世の人間の罪の真ん中に立っておられるイエスさまです。
 今、「イスラム国」という集団に二人の日本人が捕らえられ、殺害予告がなされています。そのうちの一人、佐藤健二さんは、田園調布教会の教会員だそうです。戦争で苦しむ子供たちのことを取材し、伝えることによって、その人たちに寄り添うことを使命としておられたようです。今回のシリア行きも、知人である湯川さんを助けたいと言って向かったそうです。たいへん無謀なことであるには違いありません。しかし彼らが解放され、そしてイスラム国の人々が、そして敵も味方も回心し、さらには彼の地に平和が訪れることを願わずにはおれません。
 しかし考えてみると、イエスさまがこのように無抵抗のまま、言わば敵地に飛び込んで行かれたことも、無謀なことと言えるでしょう。それはそのまま、私たちの罪を贖い、救うということが、どんなに無謀なことであるかということになります。この罪人の私たちを救うために、命を投げ出すというのは実に無謀なことです。しかしその無謀なことをイエスさまがなさった。それが十字架です。イエスさまは、次のようにおっしゃっています。‥‥(マタイ 20:28)「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」
 イエスさまは、私たちを罪の奴隷、悪魔の奴隷から救うために、ご自分の命を身代金として投げ出すためにこの世に来られたとおっしゃっています。そう考えると、イエスさまに感謝するしかありません。

(2015年1月25日)



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