礼拝説教 2015年1月18日

「尋問」
 聖書 ルカによる福音書22章66〜71 (旧約 詩編110:1)

66 夜が明けると、民の長老会、祭司長たちや律法学者たちが集まった。そして、イエスを最高法院に連れ出して、
67 「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」と言った。イエスは言われた。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。
68 わたしが尋ねても、決して答えないだろう。
69 しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。」
70 そこで皆の者が、「では、お前は神の子か」と言うと、イエスは言われた。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」
71 人々は、「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言った。




     阪神大震災から20年

 昨日1月17日は、阪神大震災から20年の日でした。もう20年も経ったかと思いました。あのとき私は輪島教会の牧師でした。テレビに映し出される映像に、非常な衝撃を受けたことを思い出します。倒壊した高速道路、ビル、土砂崩れで埋まった家屋。神戸市内の各所で発生した火災のために煙があちらこちらで立ち上る。「なぜあれらの火事をすぐに消すことができないのか?」とたいへんもどかしく思ったことを思い出します。
 一昨年当教会のチャペルコンサートに来てくださった、ゴスペル歌手の森祐理さんもあの震災で大学生の弟さんを失いました。そのときのことが、教会の玄関の受付のところに置いてありますトラクトに書かれています。震災のあと、祐理さんのお父さんは、メチャクチャになった神戸の街を3時間歩いて、東灘区の祐理さんの弟さんの下宿にたどり着きました。下宿は見る影もないほど壊れていたそうです。そしてがれきを掘り始めると、弟さんの体を見つけました。近所の方と共に何時間もかけて掘りましたが、出てきた時にはすでに冷たくなっていたそうです。
 そして、お父さんや牧師さんに担がれて家に戻ってきた弟の遺体を見た時、心に穴が開き、どうすることもできない心の傷となったそうです。そして紫色にはれあがった弟さんの顔を見ていると、心の中に声が響いてきたそうです。「お姉ちゃん、オレ、死んでへんで」と。「オレ、もっといいところ、天国に行ったから心配するな」と。祐理さんは涙が流れたそうです。しかしそれは、悲しみの涙ではなく、死をも乗り越える大きな力を感じた畏怖の涙だったそうです。
 私たちにもいつ何が突然起こるか分かりません。しかし私たちには、ゆくべき世界がある。しかもそれはイエスさまのおられる神の国であることをあらためて思います。

     最高法院

 さて、聖書の場面は引き続き大祭司の邸宅です。ニワトリが鳴いて夜が明けると、最高法院と呼ばれるユダヤ人議会が招集されました。ここで、ローマ帝国のユダヤ総督にイエスさまを死刑にするよう訴え出る前の裁判が開かれました。しかしこれはまことにインチキな裁判であると言わなければなりません。
 まずこれは、夜が明けると同時に開かれた法廷です。こんなに朝早く開かれるということがそもそもおかしいのです。なぜそんな時間に開かれたか。それは、イエスさまを慕う民衆の反発を恐れてのことでしょう。民衆が起き出して、騒ぎ出さないうちに片付けてしまおうというわけです。
 さらにこの裁判は、最初から判決が決まっている裁判です。ふつうは裁判というものは、訴え出る検察の立場の人と、被告が弁護人と共に事実関係を争うものです。しかしこの裁判は、最初からイエスさまを死刑にすることが決まっていました。じゃあ何のためにわざわざ裁判をするかというと、それは単に形式を整えるためだけであったと言えるでしょう。「とにかく法廷を開いた」ということにして、イエスさまを死刑にする理由をくっつけるというためのものです。これはもうまともな裁判ではありません。

     尋問

 イエスさまを裁く人たちがイエスさまを尋問しました。「お前がメシアなら、そうだと言うがよい」。これは「そうだと言え」という命令になっています。
 それに対してイエスさまは、68〜69節でおっしゃいました。「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう。わたしが尋ねても、決して答えないだろう。」‥‥あなたがたには、聞こうとする耳がないということです。
 謙虚に、公平に耳を傾けようとしてイエスさまを尋問しているのではない。最初からイエスさまを罪に定めるために、尋ねている。そのように決めつけている人々に対しては、何を言ってもムダなものです。
 わたしにも思い当たることがあります。私は学生時代、左翼でした。それも新左翼とよばれる左翼でした。マルクス主義のイデオロギーの影響を受けました。そうすると、政府のすることはすべて悪いことであり、言うことには嘘があるというように見えてくるのです。対立するグループについてもそうです。彼らはすべて悪いのであり、言うことはすべて間違っていると思えてくる。だから対立するグループが何をしても、それは非難の対象となりました。
 ふつうに言えば、悪いところばかりではなく良いところもある、というのが本当でしょうが、そうは見えないんですね。政府や相手にレッテルを貼ってみる、色眼鏡で見るわけです。偏見ですね。
 これは私が経験したような世界ではなくても、ふつうの人間関係でもそういうことはあると思います。嫌いな人については、すべてが悪く見えてくるということがあるものです。本当はすべてが悪いというはずもない。評価すべき点もあるはずです。しかし嫌いで、腹が立って、すべてが悪く見えてくる。このときの、イエスさまを裁く最高法院の人たちは、まさにそういう状態であったと言えるでしょう。イエスさまが何を言ったところで、真剣に聞こうとしない。始めからイエスさまを断罪し、あら探しをするつもりで尋問している。まさに聞く耳を持たないわけです。
 しかしイエスさまは、ここではっきりおっしゃいます。「しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る」。ここで「人の子」というのは、イエスさまご自身のことです。神の右の座は、神に次ぐポジションです。その席に着くとイエスさまは言われました。彼らが信じようが信じまいが、真実を語っておくということでしょう。たとえ耳を傾けなくても、本当のことを語っておけば、あとになってそれが理解される時が来るということであるかもしれません。

     断罪

 すると彼らは、「では、お前は神の子か?」と問い返しました。神の右に座に着かれるのであれば、それは神の子であるということになる、ということでしょう。それに対してイエスさまは、70節後半に書かれているように答えられました。「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」。
 これは何か不思議な答えに聞こえませんか。「わたしが神の子だと言っているのは、あなたがただ」と言っておられるように聞こえる訳し方です。これだと、イエスなのかノーなのか分かりません。しかしもしそうだとすると、このイエスさまの答えに対する彼らの反応が、つじつまが合わなくなってしまいます。彼らは、「これでもまだ証言が必要だろうか。我々は本人の口から聞いたのだ」と言ったのですから。しかも、口語訳聖書をお持ちの方は、70節後半のイエスさまの言葉が「あなたがたの言う通りである」となっていることにお気づきかもしれません。口語訳聖書のように訳すと、彼らの反応もつじつまが合います。
 本当はどっちの訳が正しいのか? 実はギリシャ語を直訳すると、この新共同訳聖書のようになるのです。しかしその本当の意味はというと、ギリシャ語学者である織田昭氏は次のように述べておられます。‥‥「ピラトの最初の問いへの答えは、「その通りだが、あなたの言う意味とは大分違う」という響きを含んだ、微妙な表現です。」
 そうすると、「では、お前は神の子か」という彼らの問いに対するイエスさまの答えは、「確かに神の子であるが、あなたがたの言う意味とはかなり違う」という意味になります。
 それに対して彼らはもはや、「ではどういう意味で神の子なのか?」とは、もうイエスさまに聞き返しません。このイエスさまの答えを持って、「もう証言は必要ない。イエス自身の口から直接聞いた」と言って裁判を終了させました。つまり、イエスは自分が神の子であることを認めた。神の子であるはずがない者が神の子であると言った。これは神を冒涜するものである‥‥と彼らは決めつけたのです。そして律法によれば、神を冒涜する者は死刑でした。つまりここでイエスを死刑にする口実を見つけたのです。
 こうして、人間が神の子イエスさまを裁くという裁判が行われたのです。本当は神が人間を裁くのです。しかし人間が神を裁くという、本末転倒したことが起こっている。そうしてイエスさまは死刑に追いやられていきます。

     実際の神の子イエス

 さて、先ほどの70節後半のイエスさまの言葉、「お前は神の子か?」と問われた言葉に対するイエスさまの答えに、あらためて注目したいと思います。「その通りだが、あなたの言う意味とは大分違う」という響きを含んだ、微妙な表現です。
 当時のユダヤ人は、神の子であるメシア(キリスト)は、政治的なメシアを期待していました。つまり、ローマ帝国の圧政から自分たちを解放してくれるメシア、ユダヤ人を結集させ、武力でもってローマ帝国の支配を打ち破ってくれるメシアを期待していました。ユダヤ人の独立と繁栄を取り戻してくれるメシアです。それがメシアであり、彼らの期待するところの神の子でした。
 それに対してイエスさまは、「あなたがたの言う意味とはだいぶ違う神の子」であると言われたのです。
 しかし私たちは、どうでしょう。私たちも、神の子を断罪することはなかったでしょうか。「神さまは、自分が期待していた通りにしてくれなかった」と言って、神さまが信じられなくなることはなかったでしょうか。
 わたしの最初の任地の教会で、ある時あるご婦人が洗礼を受けました。その人は、むかし他のキリスト教会に行ったことがある人でした。しかし息子さんが病気となりました。それで母であるその後婦人も苦しみました。いくつかの宗教に通ったそうです。しかし息子さんの病気が治ることはなかった。
 そして、やがてその息子の奥さんが教会に通うようになり洗礼を受けました。そしてやがて彼女も教会に来て、数ヶ月後に洗礼を受けられました。息子さんの病気は相変わらずでした。しかし彼女はイエスさまを信じて洗礼を受けました。あとで聞いてみると、最初に再び教会に来た時に、すでに洗礼を受けることを決心していたと言いました。そして、それからはほとんど休まず礼拝に通うようになり、静かに神の言葉に耳を傾ける信仰生活に打ち込まれました。
 私たちも、神さまが、そして御子であるイエスさまが、私たちの期待した通りの方ではないかもしれません。しかし、にもかかわらずそのイエスさまに頼り、ついて行くところに見えてくるものがあります。

(2015年1月18日)



[説教の見出しページに戻る]