礼拝説教 2015年1月11日

「侮辱」
 聖書 ルカによる福音書22章63〜65 (旧約 イザヤ書50章5〜7)

63 さて、見張りをしていた者たちは、イエスを侮辱したり殴ったりした。
64 そして目隠しをして、「お前を殴ったのはだれか。言い当ててみろ」と尋ねた。
65 そのほか、さまざまなことを言ってイエスをののしった。




     キリストの受けた苦しみ

 本日の聖書箇所は、目をそむけたくなるような個所です。私たちの主イエスが、侮辱と受け暴行されるという場面だからです。
 先週は、使徒ペトロがイエスさまのことを三度知らないと言って見捨てたところを読みました。そして今日は、その大祭司の邸宅にて、イエスさまが手荒い扱いを受けています。まさに目をおおいたくなるような、そして悲しい光景が続きます。まだ裁判を受ける前です。今日で言えば未決拘留中ということになります。だからなにも不当な扱いを受けるいわれはありません。しかしそんなことはお構いなしの乱暴狼藉です。
 イエスさまに目隠しをして殴り、「お前を殴ったのは誰か。言い当ててみろ」と言ったと書かれています。この「言い当ててみろ」という言葉は、「預言してみろ」という言葉です。預言というのは、神の言葉を取り次ぐことです。つまり、神の言葉で当ててみろ、と言うことです。すなわち、これはイエスさまが本当に神の子であり預言者であるならば、目隠しをされても誰が殴ったか分かるはずだろうということです。しかしお前は分からない、だから偽預言者であり、偽メシアであるとあざけっているのです。
 これらのことが福音書に書かれているわけですが、誰がこのことを見ていたのでしょうか。使徒ペトロはイエスさまを否認したあと屋敷の外に出たわけですが、ペトロがいるうちからイエスさまは暴行を受けていて、このことを目撃していたのでしょうか。それとも、この館の中にいる他の人、それはイエスさまを捕らえ裁判にかける側の人々ですが、その中の誰かが後にキリスト信徒となって、このできごとを語ったのでしょうか。
 いずれにしろ、イエスさまは殴られ、侮辱されました。そしてイエスさまは耐えておられます。荒海を沈めることのできる方が、耳を切り落とされた者の耳を元通りにすることのできる方が、耐えておられます。神の子である方が、このことを耐えておられる。

 イエスさまと並べるのは、まことに不遜であり、イエスさまの受けられた暴行に比べたら何でもないことなのですが、私も理不尽な暴力を受けたことがあります。それは神さまを信じなくなっていた学生時代のことでした。ある夜、私の親友と後輩の三人で学生寮に帰っていきました。酔っ払っていました。そして学生寮の建物がすぐというところまで来た時のことでした。寮の中から自動車が出てきて、我々のすぐ横で止まり、中から4人の見知らぬ男たちが飛び出してきました。なにかと思っていると、突然私に襲いかかり、殴る蹴るの暴行を受けました。私は地面に倒れ、転げ回ることとなりました。しかしなおもその人たちは私を蹴り続ける。私は何が何だか分かりませんでした。
 そのとき、ふと私の視線の中に、さっきまで一緒に歩いていた私の親友と後輩が、10メートルぐらい向こうから不安そうに私を見ている光景が入りました。私はなおも蹴られながら、「あいつらなにを突っ立っているのか」と思いました。そうして間もなく4人組の男はまた車に乗って、急発進して去って行きました。幸い私にたいした怪我はありませんでした。しかし私は猛烈に腹が立ちました。もちろん、私に暴行を働いた見知らぬ者どもに対しても腹が立ちましたが、それよりもっと腹が立ったのは、親友にたいしてでした。どうして私を助けてくれなかったのか。助けられないとしても、学生寮がすぐそばのところまで来ていたのだから、仲間を呼びに行けば、すぐに寮から何十人という味方が駆けつけたことでしょう。しかしそれもしなかった。腹が立って腹が立って、彼とは口もききたくありませんでした。
 そうして一ヶ月ほどした時、彼が私に謝ってきました。そして言いました。「怖かったんや」と。正直に言いました。それを聞いて私も「そうだろうなあ」と思い、彼と仲直りしたばかりか、以前よりも親しい関係となりました。彼の正直な言葉によって、無理なく赦すことができたのだろうと思います。
 このできごとは、後に、私が神さまを信じるようになった時、神さまに対しては正直にあやまちを告白することが、大切だということが体験的に理解できることに役立ったのだと思います。

     イエスさまおいたわしや。か?

 さて、聖書に戻ります。私たちはこのできごとを読んで、胸が痛みます。私たちはなぜイエスさまがじっと暴力や侮辱に耐えておられるのか、知っております。それは私たちを救うためであったと。このあと十字架へかかられる。その十字架が、私たちの代わりに神の罰をお受けになるものであったことを知っています。だから、イエスさまが私たちのために苦しみを受けておられるということを、知っております。だから、「イエスさま、おいたわしや」と思います。
 しかし、ただ私たちのために苦しんでくださって「もったいない、ありがたや」だけで終わってよいのか、ということを考えてみたいと思います。

     神の似像

 先週私は、渋谷のオリンピック青少年総合センターで開かれました、東神大の教職セミナーに二泊三日で行って参りました。今回のテーマは「洗礼と伝道」でした。プログラムでは、4回のシンポジウムが開かれ、そのうちの1回は私もシンポジストとして講演を依頼されたわけですが、私以外のシンポジストはみな東神大の先生方でした。私はもちろん学者ではありませんし、そもそも東神大が私に学問的な話しを期待してはいないと思いましたから、私はもっぱら体験的、実践的なことを話させていただきました。
 それはどうでもよいのですが、教授の先生方の講演を伺っていて、さすがは教授の方々と申しますか、洗礼について私自身、あらためて非常に整理して考えることができまして、感謝でした。
 さて、ある教授のお話しの中で、「キリストは神の像の回復した人間」ということを言われました。そこで私はしばらく忘れていたことを思い出しました。それはその「神の像の回復」ということです。これは何かと言いますと、人間が始めに神さまによって造られた良い状態を回復するということです。旧約聖書の一番はじめ、創世記の1章26節に、人間が神さまの姿に似せて造られたと書かれています。つまり、神さまのご性質、愛と命に満ちたものとして造られたということです。人間ははじめ神さまによって極めて良く造られました。
 しかしそれがどうしてこんなに悪くなってしまったかというと、それはそのあと創世記第3章に書かれているわけですが、最初の人類であるアダムとエバが神さまにそむいて罪を犯したからです。そうして人間に罪が入り込み、人間は神の像を失ってしまったというのが聖書の記していることです。
 そしてそんな人間を神さまは救おうとされているわけですが、そのためにイエスさまは十字架にかかられます。そしてその「救い」ということは、悪くなってしまった人間、私たちの罪を赦すことであるということは、何度も何度も私たちが教わっていることです。しかしその救いには、罪の赦しだけではなくても、もう一つある。それはこの罪人である悪い人間が、造られた時の最初の良い状態にを回復するということです。それが「神の像の回復」ということです。
 たとえば次のような御言葉が聖書にあります。‥‥(Uコリント 3:18)「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。」
 キリストは神の造の回復した人間であり、そのキリストに似たものになっていく、聖霊がそのように私たちを変えていってくださるということです。キリストの救いはそこまで行きます。私たちが悪いままではない。良くしてくださる、キリストに似たものとしてくださる。そこまで行くということです。
 さて、キリストと似たものとしていただけるということは、イエスさまの持っている平安、喜び、愛、感謝といったすばらしいものが私たちのうちに生じてくるということになります。それと同時に、今日のキリストの苦しみの姿も含まれてくるということになります。つまり、苦しみが全くないということではないということです。
 キリストも苦しまれました。その苦しみは、私たちを救うための苦しみでした。では、私たちも苦しみに会うわけですが、それはどういう意味があるのでしょうか?

     苦しみの意味

 渡辺和子さんというシスターをご存じのことと思います。ノートルダム清心学園理事長で、2012年刊『置かれた場所で咲きなさい』は150万部のベストセラーとなりました。もう87歳になられます。
 今年の読売新聞の1月1日〜4日にかけて、渡辺和子さんの対談記事が連載されていました。たいへん興味深く読ませていただきました。その中で、渡辺さんが膠原病とうつ病になったことがあると言われていました。そのことについて渡辺さんは、次のように語っておられました。
 「発想を転換することも習いましてね。「なぜ」でなくて「何のために」。最初、なぜ私がうつ病にならないといけないのですかと神様に不平を言っていたわけです。「理不尽じゃないですか。なぜですか、なぜですか」と。学長の仕事も、管区長という修道会の仕事も荷が重すぎると思い、私は何にもできない人間だという気持ちになったこともあります。でも、病気を経験することによって、ある学生が自殺未遂をした時に「私もうつ病になったことがある」と寄り添ってあげることができた。あの時苦しんだのは、そのことのためだったと思えたのです。」
 病気を患うということはとても苦しいものです。病気にかかっている時は、渡辺さんがおっしゃっているように「神さま、なぜですか?」と問わざるをえなくなります。しかしその病気にも意味があることを、しかも他人に寄り添うことができるような意味があることが、後になって分かったと言われます。

     主イエスと共に

 私たちも苦しみに会います。それはなにか神の罰ではないかと思ったりする。しかしキリストもまたひどい苦しみを受けたことを思い起こしたいと思います。キリストの苦しみにあずかる。キリストは苦しみを受け十字架にかかられ、死なれました。しかしそのあと復活という、考えられないようなすばらしいできごとが続きました。
 私たちの受ける苦しみも、そのキリストと同じ姿に変えていただくために用いられているのだと思います。どうか、苦しみが喜びへと、悲しみが感謝へと変えられることを信じて歩んでいきたいと思います。

(2015年1月11日)



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