礼拝説教 2015年1月4日

「鶏鳴」
 聖書 ルカによる福音書22章54〜62 (旧約 ヨブ記16:20)

54 人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。
55 人々が屋敷の中庭の中央に火をたいて、一緒に座っていたので、ペトロも中に混じって腰を下ろした。
56 するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。
57 しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。
58 少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。
59 一時間ほどたつと、また別の人が、「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言い張った。
60 だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然鶏が鳴いた。
61 主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。
62 そして外に出て、激しく泣いた。




ペトロとイエスの距離

 本日の聖書箇所は、キリスト教の福音信仰をもっともよく表している個所の一つであるということができます。
 満月の夜、ゲッセマネの園で捕らえられたイエスさま。イエスさまを捕らえた人々は、大祭司の邸宅に連れて行きました。そのあとをペトロが「遠く離れて従った」と書かれています。
 「遠く離れて」‥‥これはイエスさまとペトロの間の距離が実際に遠いということでしょうが、この言葉はそのままペトロのイエスさまに対する心の距離を表しているように思います。ガリラヤ湖で漁師をしていたペトロが、最初の弟子としてイエスさまに従って行き、それ以来、いつもイエスさまの最もおそばに付き従っていたはずのペトロが、今やイエスさまから遠く離れてついて行っている。
 いったいなぜこんなことになってしまったのか。イエスさまはメシア・救い主であると信じていたのに、無抵抗に捕らえられ、無力にも縛られて連行されていくイエスさまの姿に動揺してしまったのでしょうか。或いは自分も捕まってしまうと思って恐れたのでしょうか。
 しかしならばなぜペトロは遠く離れてはいるが、ついていったのでしょうか。それはやはり、最後の晩餐の時、33節でペトロがイエスさまに「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と勇ましく言ったからでしょう。イエスさまのためなら命も捨てると言った以上、このまま逃げてしまったのではうしろめたく、遠く離れてでもついて行ったということでしょう。
 そしてイエスさまが連れて行かれた大祭司の館の中庭に、人混みに紛れるようにして入っていきました。

     否認

 この時ペトロは何を考えていたでしょうか。不安と困惑の中にいたのでしょう。
 その時、不意に声がかかりました。「この人も一緒にいました。」この人もイエスと一緒にいた。おそらく周りにいた人々の視線が、一斉にペトロに注がれたことでしょう。息をのむような展開です。ペトロはなんと答えるのか?
 「わたしはあの人を知らない」。ペトロは、イエスさまを「あの人」と呼び、知らないと答えました。それはイエスさまとの関わりをすべて否定する言葉です。そしてそれは、ウソ、偽りの言葉です。ペトロは、こともあろうに主イエスを知らないと言ってウソをついたのです。ペトロは、あのガリラヤ湖ですべてを捨ててイエスさまに従って来ました。しかしその自分の歩みをすべて否定したのです。
 いったいペトロはどんな心境だったでしょうか。イエスさまが逮捕されたあと、他の弟子たちが逃げたままなのに自分が遠くからでも着いて来たのですから、イエスさまを知らないなどと言うつもりはなかったでしょう。おそらく不安と動揺の中で、言ってしまった言葉でしょう。ですから後ろめたさもあったことでしょう。
 しかし、悪魔は、そういう曖昧さを許さないかのようにたたみかけてきます。さらに他の人が、「お前もあの連中の仲間だ」と言いました。ペトロは、「いや、そうではない」と言ってしまいました。まさに、一度坂から転がり落ち始めたら、もはや止めようがないようにです。
 1時間ほどたって、また別の人が「たしかにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」と言いました。おそらくペトロにガリラヤなまりがあったのでしょう。ふだん標準語を話しても、怒ったり興奮したりすると方言が出るものです。すると今度はペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言いました。こうしてペトロは3度、イエスさまの弟子であることを否定したのです。
 ペトロに向かって、イエスの仲間であろうと語りかけた人たちは、おそらくペトロを捕まえるつもりはなかったでしょう。それはその後の展開を見れば分かります。だから、たしかにペトロがイエスさまと共にいるのを見た人がいるというのに、そのようにしてペトロがイエスさまを否認した時に、あっけにとられたに違いありません。なぜそこまでして自分の師匠である人を知らないと言うのか、と。
 ペトロが三度目の否定の言葉を言った時に、ニワトリが鳴きました。夜明けを告げる鶏の声です。それはまさにイエスさまの予告通りでした。34節です。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」と。

     イエスのまなざし

 その鶏が鳴いた時、イエスさまが振り向いて、ペトロを見つめられたと書かれています。そのイエスさまのまなざしは、どういうまなざしであったでしょうか。イエスさまのことを知らないと言ったペトロを責めるまなざし、にらみつけるまなざしだったでしょうか。
 そこで31節〜34節を振り返ってみたいと思います。イエスさまは今晩ニワトリが鳴く前に、ペトロが三度イエスさまのことを知らないと言うことをご存じでありました。ご存じの上で、32節「しかし、わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った」とおっしゃったのです。
 ですからそれは、ペトロを責め、睨みつけるまなざしではなかったでしょう。むしろ、そのペトロのために祈っているというまなざしではなかったかと思います。その弱いペトロの罪を引き受けて、あなたを救うために十字架に行くのだ、と。

     ペトロ泣く

 ニワトリが鳴いた時、イエスさまの言葉を思い出したペトロは、大祭司の館を出て激しく泣きました。ペトロが最後の晩餐の時に、イエスさまのためなら死んでもよいと言った時、それはその時点ではウソではなかったでしょう。本当にそういう気持ちだったことでしょう。しかし今、こともあろうにイエスさまのことを知らないと言って三度も否定してしまった。イエスさまを見捨てたのです。
 イエスさまのためなら命も捨てるという覚悟があったのに、イエスさまを否認した。それが人間の弱さというものです。罪というものです。ペトロは、自分の弱さに気がついたのです。知ったのです。自分に信仰のかけらもないことに気がついたのです。主である方を見捨てて裏切る。それは人間として最低の行為でしょう。そのどうしようもない自分の弱さ、罪深さを知ったのです。

     信仰とは

 キリスト教の信仰とは、何でしょうか。それは自分の覚悟でしょうか。それとも信念でしょうか。
 わたしがまだ若い日、そして幼児洗礼は受けていましたが、まだ信仰告白をしていない時のことです。ある時誘われて、当時通っていた島田教会以外の、日本基督教団ではない教会で開かれた集会に行きました。その講師の先生は、福音派と呼ばれるグループでは有名な先生でした。その先生がとても分かりやすい、力強いお話をしてくださったのですが、その中で、日本基督教団を批判されました。そしてこんなことをおっしゃったのです。‥‥「日本基督教団の人たちは喜びが少ない。我々は、たまには落ち込むこともあるが、だいたいいつも喜んでいる。日本基督教団は迫害が来ると信仰を捨てる。我々は捨てない。‥‥」
 そもそも、日本基督教団と言っても、それは教会によってみな違いますし、日本基督教団ほどバラエティに富んでいる教団はないとと思うので一概に言えないはずです。日本基督教団の中には、長老派もあればメソジスト派もあるしバプテスト派もある。ペンテコステ派だってあります。しかしわたしには、そんなことよりも、その先生の考え方に何となく違和感がありました。つまり自分たちは信仰が強いから迫害が来たとしても信仰を捨てない、と、そのように言っておられるように聞こえたのです。わたしは当時はまだ求道中でしたから、その違和感がなんなのか、はっきりは分からなかったのですが。あとになって分かりました。
 ペトロもイエスさまのためなら命を捨てる覚悟があったんです。自分は信仰が強いと思っていたんです。しかしこの日この夜、ペトロは三度もイエスさまのことを知らないとウソをついて見捨てました。なぜでしょうか?
 それはペトロが「自分の信仰」であったからです。そして「自分の力」で信じようとしていた。自分の信仰、自分の力。そういう人間のものは、もろくも崩れるのです。危機に直面した時に、一瞬にして失われるのです。
 ペトロの否認と呼ばれる、この夜のできごとは、新約聖書の4つの福音書すべてに書かれています。そしてこのできごとは、ペトロしか知らないできごとのはずです。それが4つの福音書すべてに書かれている。これはどうしてかと言えば、それはペトロが自分がイエスさまを否認したこのできごとを、何度も何度も教会の中で語って聞かせたからに違いありません。
 普通に考えれば、こんな自分の弱くみっともないことを話さないでしょう。しかしそれを堂々と言えるのがキリスト教の福音信仰です。なぜならそこにキリストの恵みが流れ込むからです。こんなどうしようもない罪人の私、弱い私を救うためにイエスさまは十字架に行ってくださった。そして救ってくださった。聖霊を与えてくださった。感謝、ということになるのです。
 ペトロはやがて教会のリーダーとして立てられました。それはペトロが強くて立派だったからではありません。自分の罪深さ、弱さを痛いほど知ったからです。そしてこんな自分を救ってくれるのは、イエスさま以外にはいないことを知ったからです。ここにキリスト教の福音信仰の核心があります。
 自分の信仰ではありません。キリストが与えてくださる信仰を求め、生きるのです。

(2015年1月4日)



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