礼拝説教 2014年12月28日

「闇の中の救い主」
 聖書 ルカによる福音書22章47〜53 (旧約 詩編41:10)

47 イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。
48 イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われた。
49 イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。
50 そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。
51 そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。
52 それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。
53 わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」




     闇の支配

 いよいよイエスさまが逮捕される場面です。このところは、マタイとマルコの福音書では、イエスさまが捕らえられたあとに、弟子たちがみなイエスさまを見捨てて逃げたことを書いています。しかしこのルカによる福音書には、そのことは書かれておらず、代わりに53節の最後のところ「だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」という言葉が記されています。
 これはつまり、マタイとマルコの福音書では、弟子たちがイエスさまを裏切り、また見捨てたことに注目していると言えるでしょう。それに対して、ルカによる福音書では、闇が支配していることに焦点を当てていると言うことができるでしょう。闇とは何でしょうか。闇とは、人間の罪、そしてサタンの支配を指しています。それでは、「闇が力を振るっている」とはどういうことを言っているのでしょうか。

     イエス逮捕

 それでは、もう一度きょうの聖書箇所を振り返ってみましょう。最後の晩餐のあと、イエスさまと使徒たちは、満月の夜、エルサレムの街の外のゲッセマネというオリーブ園に行かれました。そこでイエスさまは、神さまに長い祈りをしました。その祈りを終えて、弟子たちが待っているところにイエスさまが戻られると、弟子たちは眠っていました。
 そこでイエスさまが言われました。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」
 そのようにイエスさまが言っておられるうちに、12使徒の一人であるイスカリオテのユダが、祭司長、神殿守衛長、長老たちを先導してきました。ユダは、挨拶の接吻をしようとイエスさまに近づきました。すると、イエスの周りにいた人たち、これは弟子たちのことですが、剣を抜いて抵抗しようとしました。そのうちの一人、それはヨハネによる福音書を見るとペトロであることが分かりますが、彼が剣を抜いて大祭司の手下に打ちかかり、その右の耳を切り落としました。
 するとイエスさまは、ペトロを制止し、耳を切り落とされた人の耳をお癒やしになりました。そしてイエスさまは無抵抗のうちに、捕らえられたのです。そして先ほども申し上げたように、マタイ福音書とマルコ福音書によれば、弟子たちはみなイエスさまを見捨てて逃げて行きました。
 これがきょうの聖書の展開です。

     闇の姿

 さて、ここには4つの登場人物がいます。
 第一は、イスカリオテのユダです。ユダは言うまでもなく、イエスさまと常に行動を共にしてきた12使徒のうちの一人です。そのユダがイエスさまを裏切りました。イエスさまを憎む祭司長や長老たちは、しかし昼間は民衆がイエスさまを取り巻いているので手を出せませんでした。けれどもユダは、イエスさまの回りから民衆がいなくなる時と場所を知っていました。それで祭司長たちは、ユダにイエスさまの居場所まで先導させたのでした。
 イエスさまはユダにおっしゃいました。「あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と。接吻、すなわち口づけは、この地方の親しみを込めた挨拶です。そして「接吻」という言葉は、ギリシャ語では「愛する」という言葉と同じです。つまり敬愛するしるしとして口づけをするのです。しかしユダの心の中は全く逆でありました。それはまさに裏切りの口づけでした。心の中の裏表、嘘と偽りを問うた言葉が「あなたは接吻で人の子を裏切るのか」という言葉です。
 主であるイエスさまを、お金で裏切った。神さまよりも、この世の利益をとった人の姿がこれです。
 2番目には弟子たちです。イエスさまを捕らえるためにやってきた人々に対して、剣を抜いたのですから、武器を取って戦うつもりでいました。それは、イエスさまをメシアであると信じてはいたが、それは武装蜂起してローマ帝国を倒す革命家としてもメシアを描いていたのかもしれません。それで、ついに武器を取って決起する時が来たか、と思ったかもしれません。
 しかしイエスさまが、「やめなさい」と言ってそれを制止された時、弟子たちは何をしてよいかを見失ったと言えましょう。武器をとって戦うのでなければ、それはすなわち負けてしまうということです。‥‥弟子たちは何が何だか分からなくなった。イエスさまが武器をとって戦うのではないと知って、もう逃げるしかなくなった。
 ここに、ずっとイエスさまのそばにいながら、何もイエスさまのことを理解していなかった弟子たちの姿があります。言い換えれば、自分たちの都合の良い神さまを作り上げてしまう人々の姿です。
 3番目に、祭司長、神殿守衛長、長老たちです。この人たちは、イエスさまを捕らえて死刑にすることに決めていました。最初からイエスさまを信じるつもりはなかったのです。自分たちのほうがイエスさまよりも偉いと思って来たのです。高慢です。自分たちが聖書の専門家であり、宗教の専門家です。そういう高ぶりが、イエスさまが神から来られた方であることを分からなくさせたのです。
 そして最後はイエスさまご自身です。それは今までの三者と違って、神さまにすべてをゆだねている姿です。この個所を読んでいると、イエスさまは逮捕される側ですが、しかしイエスさまがこの場を仕切っているかのように見えます。主導権はイエスさまにあるように見えてくる。
 登場人物の三つが、イエスさまを取り囲む闇をあらわしています。お金のため、また自分勝手に神を考える、そして高慢。この罪の闇が、サタンの誘惑によって引き起こされているのです。聖書で言う誘惑とは、人間が神を信じないように誘うものです。信仰から引き離そうとする誘いです。こうしてサタンは、イエスさまからすべての者を引きはがし、奪い取ろうとする。丸裸にして、孤立させたのです。

     闇の中を進まれるイエス

 こうしてイエスさまの回りから、弟子たちが去り、今や最後までイエスさまを信じて従うという人は一人もいなくなりました。それどころか、弟子たちからは裏切られ、見捨てられ‥‥という、まさに闇の世界です。園や身のまっただ中にイエスさまは立たされた。
 しかし、です。イエスさまは、弟子たちを非難するのでもなく、ご自分を捕らえる敵対者たちを神の力でなぎ倒すのでもなく、身をゆだねておられるのです。ペトロによって耳を切り落とされた人の耳をお癒やしになることのできる方が、そんな力を持っておられる方が、身をおゆだねになる。つまりそれは神さまにゆだねられています。
 そして人間の罪の闇の中に踏み込んで行かれます。闇の中にある者を見捨てるのではなく、罪の中にある者を見捨てるのではなく救うために踏み込んで行かれます。私たちの心の闇の中に。そして私たちの代わりにイエスさまが苦しみを受けられる。
 昨日、ある方から電話で相談を受けました。その方はおっしゃいました。「こんなダメなわたしのような罪人が祈っても、神さまはお怒りになりますよね」と。しかし私は申し上げました。「自分がダメだと気がついたことを主はお喜びになります。その罪を負ってくださったのがイエスさまです。だから、祈りをお怒りになるどころか、喜んでくださいますよ」と。イエスは私たちの闇を引き受けて、そこから救うために、闇の中を前に進まれます。

     誘惑に陥らないように

 闇の力はサタンの力でもあります。私たちが神を信じようとすることから、常に引き離そうとしています。それで、きょうの個所の直前の46節、ここから話しはつながっているのですが、「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」とイエスさまはおっしゃいました。今日のできごとは、そのイエスさまがおっしゃっている途中でした。
 「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」。私たちが信仰を失わないようにするには、神さまの力を借りるしかありません。つまり祈るしかありません。
 「ハーザー」というキリスト教の月刊誌をとっていますが、その1月号に、「10分ごとの短い礼拝」というお話しを、ある牧師(新宿シャローム教会・富田慎吾牧師)が書いておられました。
 ドイツの、あるクリスチャン医師が「いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝する」という第1テサロニケ書5章16〜18に書かれている御言葉を実行しようと決断した時、この「絶えず」というのはどれくらいの頻度が良いのかを何度も試してみたそうです。その結果、10分に1度が最適のリズムであることに気づき、毎日の生活の中でタイマーをかけ、10分ごとに音が鳴るようにし、そのたびたとえ短い時間であっても主に向かって感謝をささげ、礼拝するということを実行し始めたそうです。
 すると、まず自分自身の生活の内に主を愛する喜びと臨在の楽しみが回復することを経験し、さらに不思議なことが起こっていったそうです。
 また、あるアメリカの牧師夫妻は、集会の講師としてあまりにも用いられすぎて、多忙を極め、主が身近におられるということが感じられなくなってしまったそうです。体の調子も悪くなり、2年間暗闇の中に置かれているような状態だったそうです。しかしある時、「私のために時間をささげなさい。たとえ5秒であっても私に心向け祈りなさい」という語りかけを聞き、その夫妻は毎日10分ごとに短く感謝と礼拝することを取り入れて、実行し始めたそうです。すると数週間のうちに、以前のように、主との親密な関係を取り戻すことができたそうです。
 何か神さまが遠い所に行ってしまわれたように思われるならば、それは私たちのほうに原因があると言えます。私たちのために暗闇の中を進んで行かれたイエスさまは、「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と言われました。
 10分に1度と、几帳面に考えなくても良いでしょう。思い出したら、短く礼拝する。礼拝と言っても、10分ごとに讃美歌を歌い聖書を読み使徒信条を唱える‥‥と考えなくても良いと思います。そんなことをしていたら、すぐに次の10分が来てしまって何もできなくなってしまいます。ですから、気がついたら、5秒でも良いから「神さま、感謝します」とか、「主よ、あなたを信じます」「主よ、あなたにできないことはありません」‥‥というように心の中で唱える。これでも良いと思います。朝や晩には聖書を読んで祈り、日中はそのようにして、しばしば主を思い起こして短い礼拝を献げる。
 私はこの先生の文章を読んで、本当に教えられました。
 きょうは今年最後の礼拝です。その最後に、この10分ごとの短い礼拝をご紹介させていただきました。どうぞその実践した結果をまた教えてください。私たちの闇の中に入ってきてくださり、救ってくださる主イエスをほめたたえます。

(2014年12月28日)



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