礼拝説教 2014年12月14日

「渾身の祈り」
 聖書 ルカによる福音書22章39〜46 (旧約 イザヤ書53章1〜4)


39 イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。
40 いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。
41 そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。
42 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
43 すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。
44 イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。
45 イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。
46 イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」




     ゲッセマネの園

 クリスマスを来週に控えるアドベント第3主日ですが、本日もいつものようにルカによる福音書の連続講解説教を続けたいと思います。そして今日ちょうど、ゲッセマネの園の場面を迎えました。イエスさまは使徒たちと最後の晩餐をお取りになりました。そしてエルサレムの街を出て、オリーブ山のほうに行かれました。そして、弟子たちと共にその麓のゲッセマネというオリーブの果樹園に行かれました。ルカによる福音書には「ゲッセマネ」という名称は出てきませんが。
 ここでプロジェクターを使わせていただきます。(壁にプロジェクター画面)
(映像1)
 エルサレムの地図。イエスさまは、ここで最後の晩餐を弟子たちと共にされたと言われています。そしてエルサレムの街を囲う城壁を、この門から出て、こちらの道を通ってゲッセマネに行かれました。
(映像2)

 これが現在のゲッセマネの園ですね。オリーブの木が何本も植わっています。オリーブの木というのは、この地方では昔からたくさん植えられていました。オリーブ油を取るために、そしてオリーブの実を食べるために、オリーブの果樹園が方々にあったようです。そしてオリーブの木は、あまり上の方に伸びて大きくなることはなく、ゴツゴツとゆっくりと太っていくのだそうです。
(映像3)
 これが現在ここに残っているオリーブの木の中で、一番古いと言われる木です。樹齢二千年と言われていたそうですが、調べたところ、樹齢千年ほどだそうです。しかしオリーブの木というのは、一度切られても、また切り株から芽が出て成長するのだそうで、私たちを案内してくれたガイドさんは、「この木の根本の部分は二千年だと思っている」と言っていました。そうすると、このオリーブの木は、もしかしたら今日の聖書の場面、イエスさまの祈りを見ていたかもしれません。
(映像4)
 これがそのそばに建っている「万国民の教会」です。この中にイエスさまが祈ったとされる場所が保存されています。

(映像5)
 この岩がそうです。伝説では、この岩に寄りかかるようにしてイエスさまは祈られたことになっています。

(映像6)
 これは他の人が撮った映像ですが、明るくて見やすいのでお借りしました。

(映像7)

 これがその祭壇の上に描かれている壁画です。
 さて、見えにくかったとは思いますが、このようにしてご紹介したのは、この場所が私が聖地に行ってみてたいへん印象に残った場所の一つだったからです。それはイエスさまの愛を感じさせる場所となりました。

     祈るイエス

 最後の晩餐を終えたイエスさまは、満月の夜、使徒たちを伴ってゲッセマネの園へ行かれました。「いつものように」(39節)、「いつもの場所(40節)と書かれています。つまりイエスさまは、エルサレムに来てからいつも毎日、夜になるとここに来られていたということが分かります。ですから、ユダも知っていたということになります。
 なんのためにイエスさまはここに来られたのか。それは今日の聖書でも書かれているように、父なる神さまに祈るためでした。そして弟子たちにも「誘惑に陥らないように祈りなさい」と、祈ることをお命じになりました。
 間もなくイエスさまが逮捕される。そして明日の朝、イエスさまは十字架に張り付けにされる。そういう緊迫した状況です。しかもイエスさまはそれらのことが起こることをご存じです。おそらくこの世の人々は、「祈っている場合か!」と言うでしょう。そんな危険が迫っているのなら、情報を収集し、情勢を分析し、相談し、勝てないなら逃げるようにしなければならない、と。全力を挙げてそのことをしなければならないのに、祈るなどとなんと悠長なことをするのか、と思われることでしょう。祈りなど、なんの力にも助けにもならないと思うことでしょう。全く無駄なことをしているように見えるでしょう。
 しかしイエスさまは祈られました。それは、祈りというものが、全能の父なる神さまの力を借りることだからです。このような時こそ、イエスさまは全能の父なる神さまに祈られたということです。

     祈りの内容

 さて、そのイエスさまの祈りの内容です。何を祈られたのか。42節に記されています。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」
 ここで言われている「杯」とは、旧約聖書に時々出てくる表現ですが、神の怒りの杯ということです。神の怒りの杯を飲む。それは神の罰を受けるということです。そして今日の聖書では、それは十字架を指していると言えるでしょう。つまり、神の怒りの杯をイエスさまが飲もうとしている。神の怒りがイエスさまに下る。
 いったいなぜでしょうか?‥‥それは私たちの代わりに神の怒りを受けるということです。イエスさまは神の怒りを受ける理由が何もありません。しかし私たち人間にはある。神の御心(みこころ)にそむいてきた。その罪があるからです。その神の怒りをイエスさまが代わりにお受けになる、罰を代わりにお受けになろうとしている。十字架が迫っているというのはそういうことです。
 ここでイエスさまは二つの願いを祈られています。一つは「この杯をわたしから取りのけて下さい」と、十字架にかからなくてもすむようにしてくださいという祈りです。もう一つは、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままにおこなって下さい」という祈りです。
 そのようにまず十字架の回避を祈っておられます。これはいったいなぜでしょうか?十字架が恐ろしいからでしょうか?嫌だからでしょうか?‥‥いや、本当に恐ろしくて嫌ならば、この場を逃げ出せば良いはずです。まだ逃げる間があるのです。するとここは、神の御子であるイエスさまが、人間の代わりに十字架にかからなければならないほどに、人間の罪は重いのか? 御子イエスさまが十字架にかかることなく、人間はもう一度悔い改めて、今度こそ神に従う者となるようにできないものなのか?‥‥このイエスさまの祈りは、そういう神さまへの問いであるとも言えると思います。
 そして続けてイエスさまは、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままにおこなって下さい」と祈っておられます。すなわち、天の父なる神の御心にゆだねています。神さまが十字架へ行けと言われれば行く。そういう判断を神さまにゆだねている。
 マザー・テレサは、このように述べています。「祈りは願いごとではありません。祈りとは自分自身を神のみ手の中に置き、そのなさるままにお任せし、私たちの心の深みに語りかけられる神のみ声を聴くことなのです。」
 イエスさまのこの時の祈りも、天の父なる神さまの答えを求めて祈られたということです。そして天使が現れてイエスさまを力づけたと書かれています。何を力づけたんでしょうか?‥‥それは祈ることを、イエスさまが父なる神に祈ることを励ましたということです。

     渾身の祈り

 さて、このゲッセマネの祈りが書かれているのは、このルカによる福音書のほかに、マタイとマルコの福音書にも書かれています。そしてそれら二つの福音書のほうでは、イエスさまは3度祈られたことが書かれています。最初一時間ほど祈られて、弟子たちのところに戻ってみると弟子たちは眠っていた。それを起こして、「誘惑に陥らないよう目を覚まして祈っていなさい」ということを言われる。そしてまた祈りに行かれます。そしてまた弟子たちのところに戻られ、そしてまた祈りに行かれる、ということを繰り返されます。
 ところがこのルカによる福音書のほうでは、そのことが省略されています。これはどういうことか。つまり、マタイとマルコは、イエスさまが祈られることと、弟子たちのところに戻って起こされる往復を書くことによって、弟子たちの弱さを浮き彫りにしていると言えるでしょう。
 それに対してルカによる福音書では、それよりもイエスさまがいかに力を尽くして祈られたかということに焦点を当てていると言えます。ルカだけが、イエスさまが「汗が血の滴るように地面に落ちた」ということを書き留めているからです。
 汗が血の滴るように、というと、なぜわざわざ「血」という言葉を使っているのか不思議に思えます。別に「汗が地面にしたたり落ちた」といえばすむように思います。それでこの個所を、「汗に血が混じった」と考える人もいるようですが、そうではないでしょう。それはまさに、汗が地面にしたたり落ちたのですが、その汗が血ではないかと思えるほどに、苦しみもだえて身をよじるようにして渾身の力を込めて祈られた、ということを言おうとしているのではないかと思います。
 汗がそのようにイエスさまの体からしたたり落ちたという。しかしそもそも、このあと55節を見ると分かるように、大祭司の邸宅では「たき火」が焚かれているんですね。それほど冷え込んでいたのです。だから、気温が暑くて汗が流れたのではありません。寒いのにもかかわらず、汗がしたたり落ちるほど、熱く、全力で祈られたということになります。マタイとマルコの福音書を参考に知ると、だいたいこの時3時間ほど、苦しみもだえて祈られたのです。
 すごい祈りです。それほどに苦しまれ、なんとしても神さまの答えをいただこうとして祈られた。皆さんの中に、そのようにして祈ったことのある人がいるでしょうか。
 何をそんなに苦しんで身をよじるようにして、全力で祈られたのでしょうか?‥‥それは私たちのために祈られたのです。私たちを救うためです。私たちが滅んでしまって良いのなら、何も苦しむ必要はありません。私たちが滅びようが死のうが、知ったことではないということになります。しかしイエスさまは、私たちを何とかして救う道はないか、神の答えを求めて苦しんで祈られたのです。
 つまりそれは、私たちを愛するがゆえの苦しみです。親が、道を外れて歩む我が子のために苦しむように、です。私たちは、他人の子が非行に走ろうが、悪さをしようが、苦しむことはありません。しかしこれが、自分の子が非行に走ったり、悪さをしたりするならば、どれほど苦しむことでしょうか。それは愛するからこそ、苦しむわけです。

     十字架の愛

 来週はクリスマスです。御子イエスさまがお生まれになったことについて、ヨハネによる福音書は次のように述べています。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
 クリスマスにお生まれになった御子イエスさま。そのクリスマスのできごとが、まさに神の愛の表れであることが、イエスさまの歩みで分かってきました。今日の個所は、我々のために苦しまれるイエスさまの姿がありました。
 弟子たちは悲しみの果てに眠ってしまったと書かれています。それに対してイエスさまは、「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と言われます。誘惑に陥る、信仰がなくならないためには祈って神さまに助けていただく他はありません。私たちを愛してこれほど苦しまれたイエスさまが、祈るようにおっしゃっています。

(2014年12月14日)



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