礼拝説教 2014年12月7日

「神の沈黙した世界」
 聖書 ルカによる福音書22章35〜38 (旧約 イザヤ書18章4)


35 それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと、
36 イエスは言われた。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。
37 言っておくが、『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである。」
38 そこで彼らが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うと、イエスは、「それでよい」と言われた。




     キリエ・エレイソン

 先ほど歌いました讃美歌21の32番は「キリエ・エレイソン」という歌でした。キリエ・エレイソンという言葉はギリシャ語で、「主よ、憐れみたまえ」という意味です。これは短い祈りの言葉です。プロテスタント教会では、一部の教派を除いてあまり重んじられてきませんでしたが、キリスト教会で長い間ずっと用いられてきた祈りです。
 昨年当教会の特別伝道礼拝に奉仕してくださった大隅啓三先生は、この「キリエ・エレイソン」という言葉を「福音的称名」だとおっしゃっています。称名というのは、浄土系の仏教で言う「南無阿弥陀仏」を唱えることですね。とくに浄土真宗では、なにかにつけてひたすら「南無阿弥陀仏」を唱えます。そして阿弥陀如来の救いを待つわけです。
 ではキリスト教にはその称名にあたるものがないのか。大隅先生は、それが「キリエ・エレイソン」であるというわけです。「主よ、憐れみたまえ」。神さまにあわれみを求める。たしかにこの最も短い祈りは、キリスト信仰の核心であると言えるでしょう。
 神さまに憐れみを求めるというと、「自分は何か憐れんでもらうほど落ちぶれていない」と思う方もおられるでしょう。かつて神を信じていない頃の私も、同じように思ったことでしょう。「自分は、誰かに憐れんでもらうほど落ちぶれてオラン」と。「憐れんでください」などというと、自分がとてつもなく惨めになったような気がしたことでしょう。
 しかし神を信じ、イエスさまの十字架の恵みが分かってきますと、事情は変わります。自分の本当の姿が見えてきて、自分が以下に罪深い者であったか、そして自分が無力であるかということを知っていくと、まさに「主よ、わたしを憐れんでください」と言うより他なくなることが分かってきます。そしてその祈り、そのようにして主に依り頼み、すがることが最も大きな力であることが分かってきます。
 そして、心からへりくだって主の憐れみを求める祈りは、必ず聞かれる祈りであることは、ルカ福音書18章の「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえのところで、イエスさまが語っておられることです。徴税人が、目を天に上げようともせず、「神さま、罪人のわたしを憐れんでください」と祈った時、それは神さまに受け入れられる祈りとなりました。
 「キリエ・エレイソン」=「主よ、憐れみたまえ」。ただ今アドベントですが、この思いで信仰生活を過ごしてまいりたいと思います。

     矛盾する言葉

 さて、本日の聖書箇所は、最後の晩餐の席の最後の場面です。このあとイエスさまは使徒たちを連れてエルサレム郊外のゲッセマネの園に祈りに行かれ、そこで捕らえられることになります。しかし私たちは、ここで全く意外なイエスさまの言葉を聞くことになります。それは36節です。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。」これは驚くべき言葉です。何かイエスさまとは思えないことをおっしゃっている。
 まず、財布も袋も持っていけという。袋というのは今日で言えば旅行カバンです。その中に旅行に必要なものをいろいろ詰め込む。しかしイエスさまは、かつてこれとは反対のことをおっしゃっていました。たとえば9章3節のところです。ここでは12使徒を神の国の福音を宣べ伝えさせるために派遣されたときのことです。そこでイエスさまは、「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない」とおっしゃっているのです。また、10章4節では72人の弟子たちを派遣した時に、「財布も袋も履物も持って行くな」とおっしゃっています。
 さらにきょうは「剣」を買えとまでおっしゃっています。これも驚きです。なぜならそれは今までイエスさまが教えてこられたことと、全く合わないように思えるからです。たとえばイエスさまは、マタイ福音書の山上の垂訓のところで、次のようにおっしゃっています。
(マタイ5:39)「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」
(マタイ5:44)「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
 それなのに今日のところでは、剣を持てという。この矛盾はどう説明したら良いのでしょうか? 背に腹は代えられぬということでしょうか?
 しかしそうではないでしょう。なぜなら、このあと夜のゲッセマネの園でイエスさまが逮捕されるわけですが、その時ペトロがイエスさまを捕らえようとした大祭司の手下にこの剣で切りつけ、その右の耳を切り落とすことになります。するとその時イエスさまは、「やめなさい」とおっしゃり、耳を切り落とされた人の耳を癒やされたのです。その同じ個所について、マタイによる福音書のほうは、「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」とおっしゃったイエスさまの言葉を記録しています。すなわちむしろ、剣を取ることを禁じておられる。
 するとなぜ、イエスさまはここでこのようにおっしゃったのでしょうか? 

     受難と神の沈黙

 もう一度、以前12使徒を派遣した時にイエスさまがおっしゃった、「杖も袋もパンも金も持ってはならない。下着も二枚は持ってはならない」という言葉について、思い出してみたいと思います。
 なぜあのときイエスさまはそのようにおっしゃったのでしたでしょうか。それは、神さまのご用をするのならば、必要なものは神さまが与えてくださるということを学ばせるためでした。何も持って行かなくても、神さまに従って行ったのであれば、神さまが助けて下さることを。
 では今回はどうでしょうか。今回は、神さまが守ってくれない、助けてくれないということになるでしょう。だから、持って行けとおっしゃっている。つまりそれは、神さまが沈黙されるということです。今から神さまが沈黙される。だから神さまが必要なものを与えて下さらない、助けて下さらない、守ってくださらないのだということになります。だから自分の身は自分で守れ、と。
 いったいなぜそんなことになるのでしょうか? そのことについてイエスさまご自身が37節で理由を述べておられます。それはイザヤ書53:12の引用です。『その人は犯罪人の一人に数えられた』‥‥これは、キリストの受難の予言です。「その人」というのはキリスト・イエスさまを指しています。キリストが犯罪人の一人にされるという。イエスさまが捕らえられて十字架につけられていくことを暗示しています。
 つまりそれは、父なる神さまが沈黙され、イエスさまが取られて十字架にかけられるということを意味しています。イエスさまが十字架という死刑台にかけられていくというのに、父なる神さまは助けない。人々のなすがままにされる。神さまのお守りがなくなるんです。だから、財布、袋、剣を持っていけ、というのは、神のお守りがなくなることのたとえであると言えます。それがたとえである根拠は、それを聞いた使徒たちが「主よ、剣なら、この通りここに二振りあります」と言った時に、イエスさまは「それでよい」とおっしゃっていることから分かります。「もっと持っていけ」とは言っておられない。
 イエスさまは、剣で武装しろという意味でおっしゃったのではない。たとえとしておっしゃったのに、使徒たちはまたもや勘違いをしているわけです。
 これからしばらく神はイエスさまを見捨てたようになさる。たしかにこのあとイエスさまは、イエスさまを憎むものの手に落ち、なされるがままに十字架へ上っていくことになります。

     神の沈黙される世界

 神が沈黙をなさる。イエスさまを罪人の手にわたし、苦しみを受け、十字架につけられるのを黙ってみておられる。神が沈黙される世界。それはまさに神なき世界です。
 私の最初の任地である輪島教会の時代のことでした。輪島教会は教会員十数名の小さな教会でした。ですから牧師謝儀というものも多くはありませんでした。ある時、小学生低学年だった我が子が私に尋ねました。「うちに貯金って、いくらある?」と。おそらく学校で友達同士でそんな話になったのでしょう。そして子供心に心配になったのかもしれません。
 そこで私は答えました。「山ほどある」と。すると子供は、びっくりしたように「ほんと?どこにある?」と聞いてきました。そこで私は、「ホントだよ。貯金は神さまのところに山ほどある」と答えました。そして付け加えて言いました。「ただし、自由におろせるわけじゃない。神さまが、これは必要だと思えば与えてくれる」と。‥‥私たちはそのように信じている、或いは信じようとしているのではないでしょうか。
 しかし、もし神さまがいないとしたら、意味がありません。神さまがいないとしたら、或いは全く沈黙しているとしたら、奇跡がありません。そうなると、お金がなくてはなりません。自分のことは自分で心配しなければなりません。自分の身は自分で守らなければなりません。人のことなどかまっておれません。完全に弱肉強食の世の中となります。強い者が勝ちです。神がおられないのですから。剣も武器も持たなければなりません。
 さらに、神がいなければ、倫理道徳もなくなってしまうでしょう。人が見ていなければ、何をしてもよい、ばれなければ何をしてもよいということになるでしょう。弱い者を助けても、自分になんの得があるかということになってしまいます。弱肉強食の、むちゃくちゃな世の中になるでしょう。
 ‥‥と、ここまで語っていて、すでにそういう世の中になっているようにも思えます。それは神を信じない人が多くなったからです。
 そして神がいないのならば、死によって人生は完全に終わりです。死んで永遠の無に帰してしまうならば、人生に何の意味があるのでしょうか。どうせ死ぬのなら、どんな悪いことをしてでも良い、自分のやりたいほうだいしなけりゃ損だ、ということになるでしょう。それが神なき世界、神が沈黙される世界です。

     身代わりの愛

 そしてイエスさまは、そこに飛び込んで行かれる。神が沈黙し、もはや助けても守ってもくださらず、イエスさまはあざけりを受け、なぶり者にされ、むち打たれ、思い十字架を負わされて、ゴルゴタの丘で十字架につけられる。そしてまさに神の沈黙したままに死なれる。
 いったい何のために?‥‥神なき世界から私たちを救い出すためです。そのために、私たちの代わりに神なき世界に行ってくださった。それと引き替えに、私たちは救われたのです。神を父と呼ぶことのできる者になれたのです。神の沈黙は終わったのです。
 神さまは、イエスさまによって私たちの父となられ、私たちの祈りを聞いてくださる方となったのです。こんな私をもかえりみてくださる。「キリエ・エレイソン」、主よ、わたしを憐れんでくださいと祈りつつ、主にすがって歩んでまいりたいと思います。そして、神が沈黙されずにこんな私をも助けて下さることを、お互いに証しできる一週間でありますように。

(2014年12月7日)



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