礼拝説教 2014年11月23日

「絶望と希望の予告」
 聖書 ルカによる福音書22章31〜34 (旧約 申命記9章19〜20)


31 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。
32 しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
33 するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。
34 イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」




     サタンのふるい

 最後の晩餐の席での場面が続きます。このあと、イエスさまはイエスさまを亡き者にしようとする人々によって捕らえられることになります。本日の個所では、イエスさまがペトロの否認を予告なさいます。12使徒の中でも最も目立ってきたペトロ。そのペトロが、捕らえられたイエスさまのことを「知らない」と言って、関係を否定するという。実に驚くべきことが予告されます。
 最初にイエスさまは、10節で「シモン、シモン、サタンはあなたがたのことを、小麦のようにふるいにかけられることを神に願って聞き入れられた」と言われました。シモンというのはペトロのことです。サタン(悪魔)が、使徒たちのことを小麦をふるいにかけるようにすると言われる。しかもそれを神が許したと言われます。
 「ふるい」というと、子どもの頃を思い出します。子どもというのはいろいろな遊びを発明するものですが、友達の間で、ふるいが流行ったことがありました。土をふるいにかけ、きれいな粉のような土にして、そこからきれいな泥団子を作るのですね。それで土をがばっと取って、ふるいに入れてふるいにかける。そうすると、ふるいには、それまでは土に隠されて見えなかった小石や、粒の大きな土が現れてくるんですね。
 イエスさまはここで「小麦のようにふるいにかける」と言われました。これは、脱穀した麦をふるいにかけることのようです。麦をふるいにかけると、実の小さな麦や、クズがふるいの目から下に落ちる。そして良い実だけが残るという寸法です。つまり本物が残るのです。
 サタンは、これから使徒たちをふるいにかけるという。それは、ふるいにかけて、ほんものの良い麦が現れるように、人間の本当の姿をあらわにするということでしょう。使徒たちの本当の姿が、イエスさまを見捨てることであり、裏切ることであり、イエスさまのことを「知らない」と言うことであると。そのようなあさましく、醜い姿であることを明らかにしようとするのであると。
 サタンの役割というものは、人間が神を信じないように、また愛を信じないように仕向けます。サタンは、愛を信じていません。またサタンは、信仰を信じません。ですから、人間が神など信じるはずがない、と思っています。また、人間が愛することなどできるはずがないと思っています。愛もない、信じることもできない、それが本当の人間の姿であると思っているのがサタンです。
 ですから、これからイエスさまが十字架にかけられていく過程で、愛も信仰もない人間の本当の姿を明らかにしようという。それがここでいう「ふるいにかける」ということです。

     サタンの言うことは本当かも

 しかし私たちは、世の中を見回した時、サタンの主張が当たっているかもしれないと思えるのではないでしょうか。愛だ、平和だと言っていても、いざ自分に不利となるとかなぐり捨てる‥‥。それが人間の本当の姿ではないのか。
 私は学生時代、実は反戦平和運動というものに深く関わったことがありました。本当に人間の力で戦争がなくなり、平和な世界が実現するのだと思った。しかしそれは、反戦平和を唱える人々どうしの激しい争いを見た時、失望へと変わりました。
 オレオレ詐欺を始めとする振り込め詐欺と呼ばれる詐欺の被害金額が過去最高になりそうだと言います。何もかもが信じられない世界です。児童虐待の件数も、統計を取り始めてから過去最高を記録しそうだと言います。愛が冷えていく時代です。
 たしかに人間、自分さえよければそれで良いというのが本音かもしれません。何も信じられない、愛がない‥‥それが本当の人間の姿かもしれません。そのことについて聖書は、人間はみな罪人であるといいます。そうすると、サタンの主張のほうがむしろ当たっていることになります。そうすると、救いがないように見える。どこに希望があるというのでしょうか。絶望しかないのでしょうか。

     否認の予告

 そんな闇を打ち消そうとするかのように、ペトロがイエスさまに言います。「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでも良いと覚悟しております。」‥‥イエスさまのためになら、命も捨てる覚悟だという。イエスさまに対する愛と信仰を告白したのです。自分はそんなに弱くない。イエスさまを信じている、と。
 そのペトロに対して、イエスさまは衝撃の予告をなさいます。「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」!‥‥夜が明ける前に、今晩のうちに、まさにあなたが今誓ったその舌の根も乾かないうちに、あなたはわたしを見捨てるだろう、と。
 それは、まさに絶望の告知であります。主でありイエスさまを見捨てるという、まさにもっとも人間としてみにくいことをするのだ、と。

     希望の告知

 そのように予告するということは、イエスさまはペトロを断罪し、切り捨てたのでしょうか。しかし、今日の個所を読むと、そういうことではないことが分かります。そもそもイエスさまがその前に32節で語っておられます。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」。
 ペトロがイエスさまのことを見捨て、否認することをご承知の上で、そのペトロのために祈ったと言われます。そしてその祈りが父なる神に受け入れられて、ペトロが立ち直ることを信じておられます。そして、兄弟たち、つまり他の弟子たちを力づけてやりなさい、と。

     祈り

 イエスさまはペトロのために祈ったと言われました。ご自分を見捨て、裏切るペトロのために祈ったと。
 この「祈った」ということは、拍子抜けするほどに、軽く聞こえる言葉かもしれません。たとえば、この世の中では、「祈っています」というのは、年賀状に「ご多幸をお祈りいたします」のように書く、単なる社交辞令のように感じるかもしれません。「祈った」というのは、何か単なる希望的観測であって、何の力にもならないと思われるかもしれません。イエスさまともあろうお方が、「祈った」なんて、もっと効果のあることができなかったのか?‥‥などと思うかもしれません。
 しかしここでイエスさまは、唯一サタンに対抗できるのが祈りであるということを示しておられるのです。サタンに対抗できるのは、私たちの力ではありません。それは、イエスさまのためなら死も覚悟するというペトロの決意が、もろくも崩れてしまうことからも分かります。
 祈りとは、神の力に頼ることです。神さまにすがることです。それゆえ、祈りを通して神の力が働いて、サタンを退けることができるのです。
 私は若い頃、教会に行かなくなり、神を信じなくなり、その果てに死の淵まで行きました。しかし不思議な出会いによって導かれ、再び教会に通うようになりました。そして礼拝だけではなく、水曜日の夜に行われていた祈祷会にも初めて出席しました。そこでわたしはたいへんな感動を覚えました。なぜなら、祈祷会に集まった人々が、いろいろな人のために祈っているのを見たからです。
 わたしはその時思いました。‥‥「自分が教会に戻り、神のもとに戻ってくることができたのは、この人たちのお祈りのおかげではないか」と。そしてさらに、わたしの知らないところで、両親がわたしの救いのために祈り続けていてくれたであろうことを思いました。わたしは自分で教会に戻ったと思っていました。しかしそうではありませんでした。両親の祈り、教会の人々の祈りがあって戻ってくることができたのでした。
 今から1600年前、古代の教会の教父と呼ばれる、最も影響力のある指導者の一人にアウグスチヌスという人がいました。しかしアウグスチヌスは、順調な道をたどったのではありませんした。放蕩三昧を続け、女性遍歴を重ねました。しかし、アウグスティヌスの母モニカはクリスチャンでした。彼女は、放蕩三昧を続ける息子の救いのために、涙と共に17年間祈り続けました。そんなある日、アウグスチヌスは、庭で遊んでいる子どもたちの「取りて読め、取りて読め」という歌声が聞こえてきました。彼にはそれが神の声のように思われ、聖書を取って開き、回心に至ったといわれます。それはまさに、母モニカの祈りを、神さまが聞き届けてくださったからに他なりません。
 ペトロが、ご自分を見捨てることをご存じであったイエスさまは、ペトロの信仰が無くならないように祈ったと言われました。そしてその祈りが、ついに聞き届けられることとなるのです。私たちも、隣人のために祈りを熱くするものでありたいと思います。

(2014年11月23日)



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