礼拝説教 2014年11月16日

「見えてくる神」
 聖書 ルカによる福音書22章24〜30) (旧約 民数記12章3)


24 また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろうか、という議論も起こった。
25 そこで、イエスは言われた。「異邦人の間では、王が民を支配し、民の上に権力を振るう者が守護者と呼ばれている。
26 しかし、あなたがたはそれではいけない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。
27 食事の席に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者である。
28 あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。
29 だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。
30 あなたがたは、わたしの国でわたしの食事の席に着いて飲み食いを共にし、王座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。」




誰が上か下か

 前回は、最後の晩餐のところを読みました。このあと、イエスさまはゲッセマネの園というところに祈りに行かれ、そこでイエスさまは捕らえられ、真夜中の裁判を経て、翌朝十字架につけられ処刑される。そういう非常に緊迫した状況です。しかし弟子たちは、まだ誰もイエスさまが明日十字架にかけられるということは知りません。
 今日の聖書を読みますと、最初のところで「使徒たちの間に、自分たちのうちで誰が一番偉いだろうか、という議論も起こった」と書かれています。なぜこんな議論が起こったのか。これは前回のところから続いていますので、そちらを見てみましょう。
 最後の晩餐の席で、イエスさまが、弟子の裏切りの予告をなさいました。それを聞いて、使徒たちは、自分たちのうちいったい誰がそんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めたと書かれています。自分たちのうち、いったい誰がイエスさまを裏切ろうとしているのか。そんなことを言い合っているうちに、それがいつの間にか、自分たちのうちで誰が一番偉いかという話になったというのです。
 この「偉い」という言葉ですが、このギリシャ語は「大きい」という意味の言葉です。偉いというと、何か話しが子供じみていますが、「大きい」という意味で考えると、偉いことも大きいことですが、有能であるとか、評判が良いとか、力があるとか、そういうことも言えるかと思います。つまり、こういうことでしょう。‥‥誰がイエスさまを裏切ろうとしているのかという話しから始まって、「俺じゃないよ」「いや、オレでもない。だって、オレは一番いっしょうけんめい奉仕してきたんだから」、「お前何を言ってるんだ。オレのほうがいっしょうけんめいやってきたよ」、「いやいや、オレがいちばん話がじょうずで、一番イエスさまの役に立ってきたんだよ」‥‥などということを言い合っていたのではないかと推察いたします。つまり、誰が裏切るか、という話しは、自然に「誰が一番上か」という話に変わったのです。
 そのように、使徒たちの内輪で人の善し悪しを言い合っていた。人間、人の善し悪しを言うのが好きではないでしょうか。考えてみると、このわたくしも神を信じなかった頃は、酒を飲んでは、友達と人の善し悪しを語り合っていたような気がします。人間、何でこんなに人の善し悪しを言うのが好きなのか。その裏には、心のどこかに、自分が認められたい、という思いがあるからではないでしょうか。「自分もたいした人間ではないが、少なくともあいつよりはマシだ」という思いがあって、人の悪口を言う。つまり、自分のほうが上だと思いたい。
 そしてそこには、自分が認められたい、評価されたいと思う心があるからだと思います。いっしょうけんめいやってきたのに、誰にも評価されない、認められないということになると、嫌になってしまうものです。自分の存在価値がないように思われてきます。そのように、自分の評価が気になる。それで他人の善し悪し、評価も気になるということになるかと思います。

     仕える者のようになれ

 それを聞いておられたイエスさまが言われました。「あなたがたの中で一番偉い人は、一番若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」と。そして「食事の席に着く人と教示する者とは、どちらが偉いか」と言われました。
 だれでも、給仕する者よりも、食卓について給仕される者になりたいと思うでしょう。自分は、食卓に着き、召使いが料理を運んで飲み物をグラスについでくれる‥‥。そういう身分になりたいと思うことでしょう。25節でイエスさまがおっしゃっていますが、できれば王になりたい、権力を持ってみたいと思うでしょう。この当時の王や権力者というのは、ほぼ独裁者です。家来が皆言うことを聞くのです。そしてまた「守護者」と呼ばれる。国民の守護者です。そのように人々の賞賛を受ける。もちろん、贅沢ができるし、何でも手に入る。そういう身分になってみたいと思う。
 あるいは、そこまで行かなくても、みんなから認められ、喜ばれ、ほめられる人になりたいと思うのではないでしょうか。仕える者よりは、仕えられる者となりたい。
 ところがイエスさまは、それとは逆のことをおっしゃっているわけです。そしてイエスさまご自身が、「しかし、私はあなたがたの中で、いわば給仕する者である」とおっしゃっています。イエスさまは弟子たちのために仕えてこられた。主であるイエスさまが、弟子たちに奉仕されてきたのです。
 その最たるものが、これからおかかりになる十字架です。御自分を犠牲にして、私たちを救われる。しかし誰からも感謝されません。誰も賞賛しません。この時は誰も評価しません。それどころか、人々から見放され、ののしられます。まさに、イエスさまは、誰からも評価されないのに、命をかけて仕えられました。給仕する者となられました。
 ですから、そのイエスさまのように、仕える者となるということは、いっしょうけんめい仕えたとしても、誰からも認められないし、ほめたたえられないし、喜ばれるわけでもないかもしれません。そんな風に仕えることなど、耐えられないように思われます。

     ただイエスが見ていてくださる

 しかしここでは、人間からは誰からも認めてもらえなくても、イエスさまは認めておられます。続く28節でイエスさまは、「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭った時、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた」と使徒たちにねぎらいの言葉をおかけになります。
 ここで「踏みとどまってくれた」と訳されています言葉ですが、これは「着いてきてくれた」とか、「一緒にいた」という意味にもなります。つまり、ここまでいろいろなことがあったけれども、どんなときもこの使徒たちは、イエスさまと共にいたということです。そのことをねぎらっておられます。
 「わたしが種々の試練に遭った時」と言われます。ここを読むと、「ああ、イエスさまもつらいことがおありだったのだなあ」と思います。困難な時、つらい時、一番励ましとなるのは、とにかく一緒にいる、ということではないでしょうか。
 わたくしが牧師となって最初の任地は、北陸のW教会でした。最初、礼拝に来る人は、私たち夫婦を入れて10名ほどでした。そして少しずつ人が増えましたが、数年後に、また試練の時が訪れました。教会員同士のトラブルが起き、一人は教会に来なくなりました。また、仕事が変わって、礼拝に来られなくなった人もいました。そういうわけで、再び教会は寂しくなってしまいました。
 祈祷会は、水曜日の夜におこなっていたのですが、4〜5人来ていたのが、わたしを含めて二人になってしまいました。家内は子どもがまだ二人とも小さくて、夜の祈祷会にはなかなか出ることができません。それで、わたくしと、もうひとりの70歳ほどの教会員であるご婦人と二人で祈祷会を守るということがしばらく続きました。
 このご婦人は、教会の役員もやられ、わたくしと家内を含めて三人しかいない教会学校の教師の奉仕もしていました。と言って、決して器用な方ではありませんでした。教会の書記役員をしておられましたが、万年筆でいっしょうけんめい役員会の記録を作られましたが、その記録は訂正印の目立つものでした。教会学校の教師も、むしろ人前で話しをするのは苦手な方なのですが、引き受けてくださっていました。教会のお花も生け、看板も書き、掃除当番もするという具合で、全然バリバリやるというタイプではないのですが、不器用ながらも黙々と奉仕されていました。
 そして水曜日の夜しかない祈祷会。わたくしと二人で守ることがしばらく続きました。とにかく彼女は、来るのです。何があっても礼拝と祈祷会に来る。彼女が来なければ、祈祷会は成り立ちません。しかし来る。それで、試練とも言えるその最も厳しい時を、教会の祈祷会を休みにすることなく、続けることができたのです。わたくしはその時、どれほど無言のうちに励ましを受け、慰められたことでしょうか。一人の存在というものが、これほど大きく感じられたことはありません。
 そのことを思い出します。「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭った時、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた」とイエスさまはおっしゃいます。全く頼りにならないような弟子たちです。しかしとにもかくにも、ここまでイエスさまと共に歩んできた。そのことにイエスさまが感謝を述べておられる。そして天の国を約束なさっている。
 ここに真実の慰めがあります。私たちも、もしかしたら、キリストを信じて従うことによって、誰からも評価されないかもしれません。認めてもらえないかもしれません。賞賛を受けるどころか、感謝もされないかもしれません。しかし、イエスさまだけは認めてくださるということです。そして、「わたしが種々の試練に遭った時、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた」と言ってくださるのです。そこに本当の平安があります。

     これからイエスを見捨てるのに?

 さて、しかしここで私たちは、疑問がわいてくるのではないでしょうか。それは、「イエスさまは、弟子たちが絶えずイエスさまと一緒に踏みとどまってくれたとおっしゃっているけれども、このあと弟子たちは、十字架にかけられるイエスさまを見捨てて逃げて行ってしまうではないか?」と。
 たしかにそうです。しかしイエスさまは、ここまで使徒たちが一緒に着いてきたことで十分だと言われるのでしょう。そして十字架は、ただおひとり、イエスさまだけが向かわれる所です。弟子たちはこのあと、十字架に行かれるイエスさまに、つまづきます。見捨てます。しかしその十字架は、ただ一人、イエスさまだけが行くことのできる所です。
 誰からも見捨てられ、誰からも評価も賞賛もされない十字架へ。ただ私たちを救うために一人行かれる。このイエスさまに心から感謝するほかはありません。

(2014年11月16日)



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