礼拝説教 2014年11月2日

「新しい契約」
 聖書 ルカによる福音書22章14〜23 (旧約 エレミヤ書31:31〜34)


14 時刻になったので、イエスは食事の席に着かれたが、使徒たちも一緒だった。
15 イエスは言われた。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。
16 言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」
17 そして、イエスは杯を取り上げ、感謝の祈りを唱えてから言われた。「これを取り、互いに回して飲みなさい。
18 言っておくが、神の国が来るまで、わたしは今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。」
19 それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」
20 食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。
21 しかし、見よ、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に手を食卓に置いている。
22 人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。」
23 そこで使徒たちは、自分たちのうち、いったいだれが、そんなことをしようとしているのかと互いに議論をし始めた。




     最後の晩餐

 本日は、いわゆる「最後の晩餐」の場面となります。レオナルド・ダ・ビンチの絵がとても有名で、クリスチャンではない人でも知っています。イエスさまが12弟子と共にとった最後の晩餐です。
 そしてこの晩餐は、「主の晩餐」とも呼ばれる教会の聖餐式が主イエスによって制定された個所でもあります。19節でイエスさまが「わたしの記念としてこのように行いなさい」とおっしゃっておられます。主イエスの名によって礼拝のなかでパンを割いて食べること、杯につがれたぶどう酒を飲むこと、この聖餐を教会はずっと守ってきました。呼び方は違いますけれども、聖餐のない教会はありません。聖餐は説教と共に礼拝の中心です。
 イエスさまの最後の晩餐は、イエスさまがまさに十字架にかけられる前夜になされました。しかし弟子たちには、このあとイエスさまが捕らえられてあす十字架につけられると言うことが分かっていませんでした。しかしイエスさまはご存じでした。15節でおっしゃっています。「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。」 ここでおっしゃっている「苦しみ」というのが十字架を示していたのです。
 そして使徒たちと共にこの食卓に着くのを「切に願っていた」とおっしゃっています。イエスさまは、使徒たちと共にこの食事をとることを切に願っておられた。それは、単に明日死ぬことになるから、なんでもいいから愛する弟子たちと共に最後の食事をとりたかった、ということではありません。

     過越の食事

 それはこの食事が単なる夕食なのではなく、「過越の食事」というものであったからです。過越の食事、それは年に一度ユダヤ人が必ず守る食事でした。その起源は旧約聖書の出エジプト記にさかのぼります。それはイエスさまの時代よりも1300年以上も前のことでした。イスラエルの民は、エジプトの国で奴隷にされていました。苦役に苦しんでいました。そこに神がモーセという人を指導者にお立てになって、イスラエルの民をエジプトから脱出させるという物語が「出エジプト」です。
 しかし、エジプトの王は貴重な奴隷労働力であるイスラエルの民を解放しません。それで神が、モーセを通して10の災害をエジプトにもたらし、罰を与え、イスラエルの民を解放させるのです。そしてその10番目の災害、最後の災いが「過越」と呼ばれるものでした。それは、真夜中に神が御使いを遣わして、エジプト中の家の初子、すなわち長男を死なせるという恐ろしい罰でした。
 その前に、神は、小羊の血を家の玄関の柱と鴨居に塗れとイスラエルの民にお命じになりました。そのようにした家については、神の罰が過ぎ越して、初子の死を免れるというものです。そして、その小羊の肉を食べ、また、酵母を入れないで焼いたパンを食べるなどしたのが過越の食事です。そして神は、この過越の食事を子々孫々にわたって守るようにイスラエルの民、すなわちユダヤ人に命じられました。それで、ユダヤ人はずっとこの年に一度の過越の食事を守ってきたのです。
 それは、神が奴隷から解放してくださったことを記念し、また、イスラエルが神の民とされたことを記念するものでした。イエスさまは、その過越の食事を使徒たちと共にとることを切に願っておられたと言われます。
 では、なぜ「過越の食事」を弟子たちと共にとることを願っておられたのでしょうか?‥‥それは十字架前夜であったことにヒントがあると言えるでしょう。すなわち、これからイエスさまが捕らえられて十字架にかけられる、その十字架の意味を教えたかったのに違いありません。
 すなわち、玄関に小羊の血を塗った家を神の罰が過越たように、小羊なるイエスさまの十字架で流された血によって、私たちが受けるべき神の罰が過ぎ越すということです。私たちにとっては、イエスさまが過越の小羊であるということです。それが十字架のイエスさまなのだと。
 そうすると、その昔の旧約聖書で、小羊の血を玄関の柱と鴨居に塗ることによって神の罰が過ぎ越すというできごとは、たいへん奇妙に思え、「なぜ小羊の血を塗ったのだろう?」と不思議に思いますが、それは実はこのイエスさまの十字架を予言していたのだ、ということになります。それはまさに人類の罪を、イエスさまの十字架で流される血・命によって赦すという、神の救いのご計画がここで成し遂げられることになるということになります。
 20節でイエスさまは、ぶどう酒の入った杯を手に取られ、「この杯は、あなた方のために流される、わたしの血による新しい契約である」とおっしゃっておられます。「新しい契約」です。イエスさまが十字架で流される血、すなわち十字架でささげられる命によって、神さまと私たちの新しい契約がなされるのであるということです。その契約とは、むかしイスラエルの民がエジプトでの奴隷から解放され、律法が与えられて神の民とされたように、今、イエスさまが十字架にかかられて流される血によって、わたしたちは罪の奴隷・悪魔の奴隷から解放され、イエス・キリストを信じることによって新しい神の民となる契約を結ぶのであると。
 それが十字架の意味であることを、この最後の晩餐によって教えておられると言えます。そのことを使徒たちに伝えたかった。やがて教会の指導者となる使徒たちに。

     聖餐と契約

 教会は、ここでイエスさまが言われた通りに、主の晩餐を聖餐式としてずっと守って参りました。そしてそれは洗礼を受けた人だけがあずかるものとして守ってきました。
 ところが近年、洗礼を受けていない人でも聖餐式にあずからせるという牧師がいるようです。礼拝に来た人は誰でも聖餐式のパンと杯を取ることができると。その理由を聞いてみると、礼拝に出席したのに、洗礼を受けていない人だけ聖餐にあずかることができないのではかわいそうだ、みんなで一緒に食べたらよいではないか、ということのようです。
 しかしこれは、聖餐式の意味を考えたら、あり得ないことです。加藤常昭先生は、「このような考え方が主流になったら、キリストの教会は正しい意味で教会でなくなり、やがて崩壊するでしょう」と述べておられますが(『加藤常昭説教全集11』)、本当にその通りだと思います。
 一昨年、当教会の特別伝道礼拝に奉仕してくださった大隅啓三先生は、このことについて、洗礼とは「義兄弟の杯」にたとえられるとよく言っておられました。ヤクザの酌み交わす義兄弟の杯にたとえるのも何ですが、赤の他人でも義兄弟の杯を酌み交わせば、それからはもう兄弟分であるというのは、似ている所があります。教会でも洗礼を受ければ兄弟姉妹と呼ばれます。しかしこれを、杯の意味を何も知らないで飲んでしまったときに、ヤクザから「おまえも杯を受けたのだから兄弟だ」と言われたらどうでしょうか? 「知らなかったんです。仲間になるのは勘弁してください」と言うでしょう。それと同じことです。
 まだ神さまイエスさまを信じていないばかりか、その意味も知らないのに、聖餐の杯をとったのだから「あなたも兄弟だ」「もう契約をした教会員だ」と言われたとしたら、それは困ってしまうでしょう。信じていないのに聖餐にあずからせるというのは、それと同じです。その人に対して不誠実なことだと思います。
 最後の晩餐の意味を考えるならば、聖餐式は、私たちはイエスさまによって罪を赦され、神の民としていただいた、ということを繰り返し確認しているものです。

     神の国の食卓の予言

 さて、聖餐式はイエスさまの十字架によって罪が赦されるということを証しするだけではなく、もう一つたいせつな意味があります。それはきょうの個所の16節でイエスさまが言われていることに関係しています。
 「言っておくが、神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」これは言い換えれば、神の国が来たときにはまた共に食べよう、ということになるでしょう。すなわち、これは神の国、天国の予言となっているのです。すなわち、イエスさまの十字架によって罪が赦され、そのイエスさまを信じることによって新しい神の民とされる契約が結ばれ、そして永遠の神の国の希望が与えられている。それが聖餐式が指し示していることです。
 すなわち私たちの希望のすべてがここにあるということです。

     切に願っていた

 さて、もう一度15節をご覧ください。この最後の晩餐を始めるにあたって、イエスさまは「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」とおっしゃいました。
 この「切に願っていた」という言葉ですが、実は原文ではもっと強い意味の言葉になっています。詳しく訳すと、「欲望によって熱望する」というような意味になります。というと変な日本語になりますが、要するにたいへん、非常に、とても、すごく望んでいた、というようなことになるでしょう。イエスさまは、十字架の前の晩の、この過越の食事を弟子たちと共にとることを、そんなにもものすごく望んでおられたのです。
 このことを知って、私は衝撃を受けました。イエスさまがそんなにも、最後の晩餐を望んでおられたということを知ってです。つまりイエスさまは同じように、この教会の聖餐も、切に望んでおられたに違いありません。
 私たちはどうでしょうか?‥‥今日は主の導きですね、ちょうど聖餐式のある礼拝です。このあと聖餐式があります。それほどの思いでその聖餐式にあずかっているでしょうか。この聖餐式を熱望し、待ち焦がれていたでしょうか。イエスさまが私たちを救うために命を投げ打ってくださった十字架の恵みを、この聖餐式を通していただき、涙を流すほどに感謝していたでしょうか。
 「わたしは切に、切に願っていた」‥‥イエスさまはそうおっしゃいます。イエスさまは私たちと共に聖餐の食卓に着くことを、それほど願っておられる。あらためてそのイエスさまのお気持ちを受け取りたいと思います。

(2014年11月2日)



[説教の見出しページに戻る]