礼拝説教 2014年10月5日
「目を覚ましている」
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聖書 ルカによる福音書21章34〜38
(旧約 ダニエル書12:9〜10)
34 放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。
35 その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。
36 しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」
37 それからイエスは、日中は神殿の境内で教え、夜は出て行って「オリーブ畑」と呼ばれる山で過ごされた。
38 民衆は皆、話を聞こうとして、神殿の境内にいるイエスのもとに朝早くから集まって来た。
世界聖餐日
本日は「世界聖餐日」です。NCC(日本キリスト教協議会)のホームページには、世界聖餐日について次のように説明しています。「世界聖餐日は、1946年に、WCCの前身である世界基督教連合会の呼びかけによって始められました。第二次世界大戦の深い傷跡の後、世界中の教会が聖餐をとおしてキリストにある交わりを確かめ、全教会の一致を求めて制定されました。」
国境、民族を超えて、主イエスを信じる者は一つである。このことを覚えて、後ほどの聖餐にあずかりたいと思います。
終わりの時に際して
人々を前にしたイエスさまの最後の教えは、世の終わりに備えるということでした。本日はその最後のところです。
34節の「その日」という言葉が、終わりの日であり、キリストの再臨の日であり、最後の審判の時です。「人の子の前に立つことができるように」と言っておられますが、「人の子」とはイエスさまのことであり、この世の終わりに再び来られたキリストの前に立つことができるように、とおっしゃっているのです。それが最後の審判で、私たち一人一人が神の裁きを受ける時のことです。神の国に入れてもらえるのか、もらえないのか、決まるということになります。
そのためにどうしたら良いのか、最後の審判に備えるためにはどうしたら良いのか、ということが語られます。
今終わりが来たら
しかしその終わりの時というのが、いつ来るのか分かりません。それは、私たちのこの地上の人生の終わりがいつ来るのか、全く分からないのと似ています。明日、終わりの日が来ても大丈夫でしょうか。いや、もしかしたら今来るかもしれません。今、来ても大丈夫でしょうか? 今世の終わりの時が来て、最後の審判の時が来て、「今から、あなたについて裁判をする」と言われたらどうでしょうか?
チイロバ先生こと故榎本保郎先生の説教の中で、こんな話が出てきました。細かい所は忘れましたけれども。まだ若い頃、ある日夢を見たそうです。夢の中で自分が死んで、天国に昇って行きました。すると門があった。ところが閉まっている。当然自分は入れるものと思っていたので、門をたたくと、門番が出てきた。そして言うには「名前が書いてない」という。「そんなはずはない」と言うと、門番は「あなたは今日電車に乗った時に、おばあさんに席を譲ってやらなかっただろう。それでは入れないのだ」という‥‥。
これは夢の話しですが、もし私たちがこの夢のようなことで裁きを受けたとしたらどうでしょうか。とても天国になどは入れそうもありません。愛のないことばかりしている自分があります。自分を愛するように隣人を愛することができないのです。
では、「今ではなく、もうちょっと待って下さい」と言うことができるでしょうか。いつまで待てば、自分がそういう愛に溢れた人間になることができるでしょうか。神さまの期待する正しい人間になることができるでしょうか。確かにそのような立派な人になれたら良いと思います。しかし、なることのできない自分があります。いつまで待ってもらって、努力を積み重ねたら立派な人になることができるのでしょうか。‥‥自分を見ていると、いつまで経ってもダメのような気がします。ではどうすれば良いのでしょうか。
心が鈍くならないように
34節を読むと、イエスさまは「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい」と、おっしゃっています。
ここで「放縦」と日本語に訳されている言葉ですが、原文のギリシャ語では「酩酊」という言葉になっています。つまり「酩酊や深酒」となっていて、同じような言葉の繰り返しです。浴びるほどお酒を飲んで、酔っ払っている状態です。なぜ酩酊するまで深酒をするのでしょうか。それは単にお酒がおいしいからというのとは、ちょっと違っています。
私自身の若い時、そのようにお酒を飲んでいた時がありました。学生時代にも時々ありました。そしてサラリーマンになってからは、しょっちゅうありました。いずれも教会に行かなくなり、神を信じることをやめていた時でした。特にサラリーマンになって、持病のぜんそくが再発して、思うように仕事ができない時は、毎晩のように深酒をして酔っ払っていた覚えがあります。
なぜそんなに酒を飲んでいたかというと、やはりストレスでした。思うように体が動かない。それで「酒でも飲まなければやっていられない」という状態になるのです。そうすると、お酒はぜんそくに良くないんですね。ますますぜんそくが悪化しました。それでますますストレスが増して酒を飲む‥‥という悪循環に陥りました。つまり、当時神を信じていなかった私は、神さまに頼るのではなく、お酒に頼ったのです。しかしお酒に頼っても、お酒が問題を解決してくれることはありませんでした。ただ気を紛らわすだけでした。
またイエスさまは、「生活の煩いで」とおっしゃっています。生活の煩いで心が鈍くならないように、と。毎日の生活のこと、仕事のこと、家族のこと、子供のこと、人間関係のこと‥‥思い煩いの原因は無限にあるように思います。心配で心配でノイローゼになりそうな人もいます。ここの「心が鈍い」という言葉の「鈍い」という言葉は、「重荷を負わせられる」という意味の言葉です。心が重くなるのです。自分で重荷を負っているのです。
酩酊といい深酒といい、生活の思い煩いといい、いずれも神さまに頼っていないところが共通しています。
目を覚ましている
それに対してイエスさまは、「いつも目を覚まして祈りなさい」とおっしゃいます。「目を覚ます」というのは、もちろんこの肉体の目のことではありません。つまり、二十四時間眠らないで目を覚まして起きていなさい、という意味ではありません。この目は、神を見る目、神を見ようとする目です。信仰の目のことです。心を神さまのほうに向けなさい、ということです。
「いつも目を覚まして祈りなさい」。深酒をして酩酊をして、問題が解決するのではないからです。思いわずらって問題が解決するわけではないからです。そうではなくて、心を神さまのほうに向けて、信仰の目を神に向けて、祈りなさい、とおっしゃるのです。そこに解決があるからです。いつもキリストに頼る、ということです。
そのキリスト・イエスさまは、こんな私、終わりの日が今来たら「ちょっと待って下さい」としか言いようがない、愛のない、罪人の私でありますが、そんな私でも救われるために十字架にかかってくださった方です。だからイエスさまに頼るならば、こんな私でも神の国に連れて行っていただけるのです。今終わりが来ても、イエスさまに頼っているならば、大丈夫だということです。だからいつもイエスさまに頼っていなさい、と。
御言葉と祈り
北朝鮮に拉致された横田めぐみさんのお母さんである早紀江さんが、このたび『愛は、あきらめない』という本を出版されました。その中で次のようなことを書いておられますので、ご紹介したいと思います。
めぐみがいなくなって、気の遠くなるような年月を過ごしてまいりました。もし信仰をもたなかったとしたら、自分を支えるすべがわからず、私は今、もうこの世にいなかっただろうと思います。
−−−ある日突然めぐみがいなくなり、まったく見えない、今も見えないことに変わりはありませんが、20年の空白がありました。ところが20年たって、「平壌にいるようだ」との情報が入ってきました。それから今日まで15年間、いろいろな方に助けられながら、倒れることもなく活動をしてきました。このこと自体、奇跡だと思っています。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる」(イザヤ41・10)との聖書のことばに、ほんとうにそうなの? と疑問に思った時もありましたが、祈り続ける中で、まさかと思うようなことを経験し、「神はいらっしゃる」と確信できるようになりました。どんなに苦しくても、その中で多くのことを教えられてきました。めぐみがいなくなるまでの、平凡に生きてきた人生では、ついぞ味わうことのなかった、ものすごい経験をさせていただきました。
あと何年生きることが許されているかわかりませんが、拉致されるまでの13年間だけ見てきためぐみの姿を目に浮かべながら、「希望をもって生きていきたい」と念じています。支えてくださる多くの人たちがあって、私か今日あることを感謝しています。−−−
めぐみさんが行方不明になってから37年間、北朝鮮に拉致されたと分かってから17年間、どれほどの苦しみと絶望の中に置かれたことでしょうか。しかしその絶望の中で、主を信じる者となり、天地が滅びても決して滅びることのない神の言葉を信じて、祈ってこられたのです。そして、その祈りを通して、神が生きておられる奇跡の経験をしてこられたのです。
あなたの道を
もう一個所読んでいただいた聖書、ダニエル書12章9節は、私の献身を決断させた御言葉です。口語訳聖書では、「ダニエルよ、あなたの道を行きなさい」という訳になっていました。これは世の終わりのことについて、ダニエルが、この世に来られる前のキリストに尋ねたことの答えでした。
「もう行きなさい」というのは、これ以上終わりの時のことを知らなくてよいということです。ただ「あなたの道を行きなさい」と。神さまが、あなたのために用意してくださった道がある。それを行きなさい、と言われたのです。
明日、世の終わりが来るかもしれない、今日終わりが来るかもしれない。あるいは、きょう、私のこの地上の人生が終わるかもしれません。しかし、信仰の目を神さまの方に向け、イエスさまに祈り、頼っていけば良いのだと、教えられます。
(2014年10月5日)
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