礼拝説教 2014年9月28日

「不滅のもの」
 聖書 ルカによる福音書21章20〜33 (旧約 イザヤ書40章8)


20 「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。
21 そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。
22 書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである。
23 それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである。
24 人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。」
25 「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。
26 人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。
27 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。
28 このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」
29 それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。
30 葉が出始めると、それを見て、既に夏に近づいたことがおのずと分かる。
31 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。
32 はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。
33 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」




     世の終わりとエルサレムの荒廃

 イエスさまは、この世の旅の終わりにエルサレムの都に入られました。そしてイスラエル民族の中心である神殿におられました。いよいよ十字架の時が迫ってくる。弟子たちはそんなことは知りません。イエスさまはご自分の十字架が迫っていることをご存じです。そしてイエスさまが人々を前にしてお教えになった最後のことは、世の終わりに関することでした。世の終わりに向かっていくこの世の中に、これからどんなことが起きるかをお教えになりました。それが前回の所からでした。
 聖書は、歴史というものが一直線に進んでいることを教えています。歴史というよりも、時間と言ってよいでしょう。時間に始まりがあり、終わりがある。この世も始まりがあり、終わりがある。それに対して、ギリシャ世界では、時間というものは円のように循環していると考えられていたようです。円は始まりもなければ終わりもありません。繰り返し回っています。しかし聖書は、初めがあり、終わりがあると語ります。それが黙示録に出てくる「アルファでありオメガである」という言い方になります。
 今日のところでは、エルサレムが滅びると言うことを予告なさっています。エルサレムが滅びるという時と、この世が滅びるということは同時に起きるのではありません。世の終わりが来る前に、エルサレムが滅びるということをおっしゃっています。
 私たちの聖書では、20節で「滅亡」と日本語に訳されていますが、実はここは「荒廃」という言葉が使われています。滅亡というと、もうそれでエルサレムは終わってしまうという印象を与えますが、そういうことではありません。なぜなら、今現在エルサレムの町がちゃんとイスラエルにあることからも分かります。滅亡ではなく、荒廃する、破壊されるのです。

     ユダヤ戦争とエルサレム

 実際、先週申し上げたように、イエスさまの時代の前に、すでにエルサレムの町は何度か荒らされ、破壊されました。神殿は過去に2回破壊されています。そしてまた同じことが起きるということを、ここでまず予言されています。
 そして実際に、このあと約40年後にエルサレムは破壊されました。そのいきさつですが、ヘロデ・アグリッパ王が死んだ後、ユダヤはローマ帝国の直轄地となりました。するとユダヤ人というのは、自分たちが神の民であるという誇りがありましたから、異教徒であるローマ人によって直接治められることが不満となりました。さらに、総督がエルサレムの町の整備のためにユダヤ人の神聖な神殿の宝物を持ち出しました。これに対して激しい反発が起きました。そして暴動が起き、それが拡大して行きました。そして紀元66年、ユダヤ人がローマ帝国に対する反乱を起こし、ユダヤ戦争と呼ばれる戦争が始まりました。やがてローマ帝国軍が巻き返し、エルサレムを孤立させて包囲し、70年にエルサレムは陥落しました。神殿は炎上し、破壊されました。エルサレムの町も、一部を残して城壁が破壊されました。この時の死者は110万人に達したと言われています。そして9万7千人が捕虜となり奴隷とされました。
 しかしユダヤ人の反乱はこれにとどまりませんでした。それから60年後の132年、バル・コクバという人がメシアを名乗り、再びローマ帝国に対して反乱を起こし戦争となりました。これが第2次ユダヤ戦争です。これもローマ帝国によって徹底的に鎮圧され、エルサレムは廃墟となり、その後のユダヤ人の立ち入りを禁止されるに至りました。そのように、イエスさまの予言通り、実際にエルサレムが軍隊に囲まれ、破壊されるに至ったのです。

     逃げよ

 イエスさまはそのように予言なさった上で、その時にはローマ軍に対して戦うのではなく、逃げなさいと言われるのです。逃げよ、と。ユダヤにいるクリスチャンは、ユダヤ人クリスチャンが殆どでしょう。同じユダヤ人が、ローマ軍と戦うというのに、エルサレムから逃げろとおっしゃる。その戦争で死ぬな、と言っておられるようです。わたしはなんかホッといたします。
 ユダヤ人にとっては、エルサレムの神殿がなくなれば正式に礼拝する場所が失われることになります。しかしクリスチャンにとっては、いつでもどこでも神さまを礼拝することができます。イエスさまのお名前によって礼拝するのだからです。そしてイエスさまの救いは、ユダヤ人一民族の救いではなく、世界のすべての民の救いです。エルサレムの滅亡ではなく、世界の滅亡のほうを見ています。

     近づく終わり

 25節から再び、この世の終わりのほうの話になります。前兆としてどんなことが起きるかと。それは前回の8節から見ると、次のようなことが起きると言われています。偽のキリスト、メシアがたくさん現れる(8節)。戦争や暴動が起きる(9節)。ほうぼうで地震、飢饉、疫病が起きる。そして、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる(11節)。また、キリスト教会への迫害が起きる(12節〜17節)。ここまでは前回の個所でした。そして今日のところ25節に続きますが、太陽と月と星に徴が現れると言われます。これはどんな徴かは書かれていないので分かりません。
 人間の立っている地面が揺り動かされるということは、恐ろしいことです。地震が恐いのは、その被害もさることながら、私たちの立っている所が揺らぐので、もうどうして良いか分からなくなるという不安があるのだと思います。さらに天体が揺り動かされるというのは、具体的にはどういうことなのか分かりませんが、大地が揺らぐから天体も揺らいで見えるということなのでしょうか。いずれにしても、想像を絶する不安と恐怖で、人々は「恐ろしさのあまり気を失うだろう」(26節)というのです。
 しかしイエスさまによれば、その不安と恐怖で終わるのではありません。それらは前兆であると言われます。世の終わりですべて終わってしまうように思えるが、それで終わってしまうのではありません。27節で言われるように、「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る」。このキリストの再臨があるのです。
 したがって、戦争や暴動、迫害や天変地異といったことののちにキリストが再臨される。それが世の終わりです。すなわち、世の終わりとは滅亡ではありません。28節で言われているように「解放の時」です。この「解放」という言葉は、「あがない」という言葉であり、すなわち救いということです。救いの完成する時です。世の終わりは一巻の終わりではなく、再び来たりたもうキリストによる救いの完成する時です。神の国が到来する時です。
 だから、戦争が起こっても、地震が起こっても、迫害が起こっても、恐れることはないということです。

     不滅のみことば

 いちじくの木の葉が出ると、夏が近いことが分かるように、これらの恐ろしいことが起こっても、それは解放の時、救いの完成の時、神の国が来る時の前ぶれであるとおっしゃいます。そのように言われる根拠はどこにあるのか。それはイエスさまの言葉であることに根拠があると言われます。33節です。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」‥‥この「決して滅びない」というギリシャ語は、強い否定の言葉になっています。「絶対に滅びない」「どうあっても滅びない」という意味です。永遠であるということです。
 およそ滅びないものなどこの世の中にありません。形あるものは必ず壊れます、滅びます。地球さえも滅び、太陽も滅びるでしょう。宇宙さえも、永遠であるという保証はどこにもありません。また、生きているものは必ず死にます。どんなにこの世で権力をふるった人でも、必ず死にます。また人の言葉も、永遠のものなどありません。永遠の愛を誓ったはずの約束の言葉も、時が経ち、事情が変われば失われてしまいます。
 そういう中で、イエスさまの言葉は「天地は滅びるが、決して滅びない」と言われます。これはイエスさまの約束です。これは、ものすごいことです。その決して滅びないもの、永遠に続く約束の言葉、みことばを信じて私たちは初めて希望を持って歩んでいくことができるのだと思います。

     人生の荒波を越えて

 この世の中にも戦争や暴動や飢饉や疫病が起きてくるように、私たちの人生もまた順風満帆という人は少ないことでしょう。「なぜこんなひどいことが起きるのか?」と不審に思うことも起きてきます。絶望するような時もあります。しかしイエスさまのみことばは、常に私たちに希望を与える言葉です。そしてその言葉は、天地が滅びても決して滅びない、ほごにされることのない確かなみことばであると言われます。
 10月中旬から「ザ・テノール」という映画が上映されます。これは日本と韓国の共同制作映画で、韓国人オペラ歌手べー・チェチョルさんと、べー・チェチョルさんを支えてきた日本人の輪嶋東太郎さんというプロデューサーの、2人3脚の物語です。このことについて、その輪嶋東太郎さんが、キリスト教の月刊誌「百万人の福音」で取り上げられていました。
 輪嶋さんは2003年に初めてべー・チェチョルさんの歌を聴いて、「おそらくこれ以上のテノール歌手に人生のなかで出会うことはないだろう」と思い、惚れ込んで、一緒に仕事をするようになったそうです。そして2005年には日本での全国ツァーも成功させる。ところが、べーさんに甲状腺ガンが見つかった。そして手術によって、歌声を出すためにひつような三つの神経を切断するに至りました。医者からは、「以前のように歌うことはあきらめて下さい」と絶望的な宣告を受けたそうです。
 そういう中でも輪嶋さんは、べーさんをサポートし続けた。そういう支えにより、クリスチャンであるべーさんは祈りを通して神と向き合い、次第に平安と希望を得ていったそうです。そしてついに、「ぼくは病気になって良かったのかもしれない。おかげで、人生で何が一番大切で、何にために歌うのかあらためて教えられた」という心境に至ったそうです。その言葉に感動した輪嶋さんは、さらにべーさんの回復のために奔走することになりました。そして2008年、べーさんは再び舞台に復帰することができました。
 さて、輪嶋さんのほうはクリスチャンではないどころか、キリスト教が大嫌いだったそうです。事務所には神棚を置いて欠かさず水を替え、コンサートがある時は、般若心経を唱えながら会場を歩き成功を祈願するような人でした。もらった聖書も神棚に置いたままだったそうです。ところが、2012年、制作中の映画「ザ・テノール」が暗礁に乗り上げたそうです。すでに制作費として億単位のお金を投じていた。それで自殺まで考えたそうです。神社仏閣や、先祖に手を合わせてお祈りした。そんなとき、韓国人牧師にもらった1冊の信仰書を手にとって読み出した。読み進めていくうちに、乾いた降る雨のように言葉がしみこんで、それからは聖書を手放せなくなったそうです。そして聖書を夢中で読むようになった。そしてキリスト教信仰を持つようになりました。
 雑誌の中で彼は言っています。「聖書の言う通りに生きれば、どんな課題も必ず越えていける。あの挫折を通して、本当の意味で導いていただいたと感じています」。
 「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」と言われた主の言葉の通りだと思います。私たちは危機を恐れます。苦しみを恐れます。しかし、今日の聖書は、私たちが依り頼むべきものがある。それはイエス・キリストご自身であり、その変わることのないみことばであることを教えています。

(2014年9月28日)



[説教の見出しページに戻る]