礼拝説教 2014年9月21日

「終わりの時代の過ごし方」
 聖書 ルカによる福音書21章5〜19 (旧約 ダニエル書12章1)


5 ある人たちが、神殿が見事な石と奉納物で飾られていることを話していると、イエスは言われた。
6 「あなたがたはこれらの物に見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る。」
7 そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」
8 イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。
9 戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決っているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」
10 そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。
11 そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。
12 しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。
13 それはあなたがたにとって証しをする機会となる。
14 だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。
15 どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。
16 あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。
17 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。
18 しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。
19 忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」




     神殿崩壊の予告

 引き続き、エルサレムの神殿の境内での出来事です。
 神殿は、イスラエル民族の中心でした。この時建っていた神殿は、第3神殿と呼ばれます。その敷地はエルサレム市街地のおよそ6分の1を占めていました。まわりは高い石積みの壁で囲まれ、境内の中の本殿の建物は高さ14メートルありました。これは4階建てのビルに相当します。建物は大理石を積み上げて作られていました。そして屋根は金色に輝いていたと言われます。ですから、遠くからも大きな神殿の建物が燦然と輝いて見えました。「奉納物」と書かれていますが、これはヘロデ王が寄進した黄金の彫刻を指しているものと思われます。
 全くみごとな建物でした。そしてその神殿のみごとさを語り合っていた人に対して、イエスさまが言われたことから、きょうの個所が始まっています。主イエスは、「あなたがたはこれらのものに見とれているが、一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない日が来る」と言われました。この壮麗でみごとな神殿が崩れ去る日が来るというのです。
 実際、それまでの歴史でもエルサレムの神殿は過去2回、破壊されたことがありました。最初にここに神殿が建ったのは、この時から千年近く前のダビデ王の子ソロモン王の時でした。しかしそれはバビロン捕囚の時に、バビロニア帝国によって破壊されました。そしてやがてバビロン捕囚から戻ってきた人々によって建てられたのが第2神殿でした。しかしそれも、やがてローマ軍によって破壊されました。
 そのように、それまでも神殿が崩壊した歴史がありますから、イエスさまの神殿崩壊の予言は、あり得ない話しではありませんでした。それはユダヤ人にとって、再び戦乱と虐殺が起きることを予感させるものでした。

     終わりの時代

 この当時のユダヤ人は、メシアが来て自分たちの国を救ってくれるのを待ち望んでいました。そして、もしかしたらイエスさまがメシアではないかと思っていた人が多くいました。ですから、このようにイエスさまが神殿の崩壊を予告なさったということは、すぐにでもメシアが来て国を救ってくれるのではなく、逆に国が滅びてしまうということになりますから、聞いている人々はたいへん驚いたことでしょう。
 それでイエスさまに尋ねました。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。また、そのことが起こる時には、どんな徴があるのですか?」
 そこでイエスさまが語られたのがきょうの個所です。ここでは、単にエルサレムの神殿が破壊されることだけではなく、9節を読めば分かるように、世の終わりのことと合わせて交互に語られます。
 世の終わり、という言葉に、私たちは大きな不安を感じるのではないでしょうか。私たち自身の人生の終わり、すなわち死ということについては誰もが知っているし、これもまた不安に思うことです。しかしもしかしたら、それ以上に「世の終わり」という言葉には大きな不安を感じるのではないかと思います。
 むかしわたしは若い頃、いずれ太陽が膨張を始めて、10億年後か何かに地球を飲み込んでしまうだろうと聞いた時には、なにか底知れぬ恐ろしさを感じました。もちろんその頃にはわたしはとっくの昔にいなくなっている未来なのですが。ちなみに、現在の科学者の予想では、太陽は今よりずっと大きく膨張するが、地球が飲み込まれてしまうことはないだろうということです。ただし、膨張した巨大な太陽の熱で地球の水も大気もなくなってしまうのだそうですが。ともかく、世の終わりという言葉には、非常な不安を覚えるものです。

     主の言う世の終わり

 そういう、世の終わりということを語られるイエスさま。それは不安を与えるためではありません。逆に、イエスさまのおっしゃる世の終わりというのは、人類滅亡の時というのではなく、救いの時であるからです。それは、再びメシアであるイエスさまが来られる時、キリストの再臨の時です。そして神さまの支配が完全に実現する時、神の国が到来する時です。つまり救いの完成の時です。そういう喜ばしい時。
 しかしその時は、すぐには来ないと言われます。それどころか、その前にたいへんな困難なことが起きるという。戦争や暴動も必ず起きると言います。それだけではありません。地震や飢饉も起きる。疫病も起きると言われます。たしかにこれらはすべて起きてきていることです。
 それだけではありません。迫害があるというのです。イエスさまを信じる者が迫害されると!17節には、「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」と言われています。誰も迫害されたくなんかないし、憎まれたくもありません。そもそも、イエスさまを信じただけなのに、なぜ迫害されるのでしょうか?
 NHK大河ドラマの「軍師官兵衛」でも、もっとも不況に熱心だったキリシタン大名の高山右近が、秀吉から明石の領地を没収され、追放されました。最初は人なつこく好人物であった秀吉が、権力を握ると同時に顔つきまで変わってくる。独裁者にとって、自分の権力を少しでも脅かす恐れのある者は決して容赦しない。それは政権が徳川に移ってからは、もっとひどい迫害となり、多くの殉教者を出すことになりました。
 それはローマ帝国でも同じでした。キリスト教会がローマ帝国内広がって行くにつれて、迫害がましていき、多くの殉教者を出すに至りました。12使徒たちも、使徒ヨハネを除いて皆殉教したと言われます。なぜどこでも迫害を受けることになったのか。それは、一言で言えば、キリスト者は、神さまイエスさまを第一とするからだと言うことができるでしょう。

     なぜすぐに来ない?

 そのように、戦争が起き、暴動が起き、飢饉や疫病が起きて世界が混迷を深めていくのに、さらに主イエスのしもべたちが迫害を受けているというのに、なぜキリストの再臨はすぐには来ないのでしょうか? なぜ主は、再びこの世に来られて、すべてを完全に救って下さらないのでしょうか?
 私たちに与えられている答えは、ペトロの手紙二3:9に記されている通りです。
「ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。」
 世界のすべての人が救われるために、真の神さまとイエスさまを信じて救われるようになるために、伝道によって、すべての人がキリストの福音を聞くまで、終わりの時を待っておられるというのです。その時まで、もう少し待っていなさいと言われるのです。世界のすべての人々が福音を耳にするまで待ってくれ、とおっしゃるのです。
 それまでどうやって待っていればよいのでしょうか。その言葉19節に書かれています。「忍耐によって、あなたがたは命を勝ち取りなさい」と。忍耐であると言われます。忍耐というのは、待つということです。

     待たなくなった現代

 現代は、昔に比べて「待つ」ということがあまりなくなった時代であると言えます。たとえば、昔は手紙をよく書いたように思います。しかし今は手紙を書く人が減ったそうです。手紙ではなく、携帯電話やスマートホンのメールやラインでやりとりをする人のほうが圧倒的に多くなりました。何か分からないことが出てきて調べ物をするのも、ちょっと前までは図書館に行って百科事典やいろいろな本を調べたものです。しかし今は家に居ながらにして、インターネットですぐに多くの情報を得ることができます。欲しい本があっても、以前は本屋さんに注文して、早くても一週間、本によっては一ヶ月も待たされたものです。しかし今は、インターネットで今日注文した本が、明日には届くという時代です。待ち合わせにしても、昔は待ち合わせの場所に行ってもなかなか相手が来ないと、「時間を間違えたかな?場所を間違えたかな?」と心配になったものです。しかし今は、ちょっと待ってこないと携帯電話で確認します。そのように、待つということが少なくなった。待てなくなったのが現代と言えるでしょう。
 しかしイエスさまは、「忍耐」だと言われます。待つということです。

     忍耐

 この「忍耐」という言葉にはギリシャ語で「踏みとどまる」という意味があります。おろおろしないで、踏みとどまる。信じて待つということです。
 どうして踏みとどまることができるのでしょうか。それは未来を見ているから踏み留まれるのです。最後の勝利は主のものであると知っているから踏み留まれるのです。最後は全能の父なる神のもとに、万物が帰趨することを知っているから希望を持つことができるのです。
 聖書で言う忍耐とは、単なる我慢ではありません。単なる我慢には希望がありません。しかし聖書で言う忍耐には希望があります。やがて主が来て下さる、という希望です。そしてやがて神の国に行くという希望です。
 「花子とアン」の放送は今週で終わるそうです。テレビでは殆ど描かれていませんでしたが、花子の父親は熱心なクリスチャンだったそうです。もちろん村岡花子もクリスチャンでした。ちょっと前まで戦争中の場面が続きました。メソジストミッションのカナダ人と親交があった花子も、「非国民」と言われたこともあったことが描かれていました。そして、修和女学校(実際は東洋英和女学校ですが)のカナダ人宣教師スコット先生から託された「赤毛のアン」の翻訳を、戦争中も続けました。敵国の本ですから、戦争が続いている限り出版することなどできません。しかし、やがて出版できる日の来ることを信じて翻訳作業を続けました。
 私たちは、やがて主が再び来て下さる日を希望に持って歩むことができます。神の国に向かっていることを信じながら、この地上を生きることができます。戦争や天変地異が起きようとも、迫害が起きようとも、その希望は変わることがないということです。

     共におられるキリスト

 しかもただむなしい希望を抱いているだけではありません。15節に「どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」とおっしゃっています。
 イエスさまが聖霊を通して働いていて下さるのです。それが主が生きてともに歩んで下さる証しです。
 先週、皆さんは、どのような証しがありましたか。主が私たちにどのように恵みを与えて下さったか、ということです。思い起こして主をほめたたえたいと思います。そのように、私たちは、生きて働きたもう主、ともに歩んで下さる主に励まされ、慰められつつ、希望ある忍耐をもって福音がすべての人に届くよう祈りを熱くするものでありたいと思います。

(2014年9月21日)



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