礼拝説教 2014年9月14日

「究極の賭け」
 聖書 ルカによる福音書21章1〜4 (旧約 ヨシュア記24:14〜15)


1 イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。
2 そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、
3 言われた。「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。
4 あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」




 本日は敬老祝福礼拝であり、年に一度の教会学校との合同礼拝です。小さいお友達は、いつもの教会学校の礼拝よりも長くて退屈かもしれませんが、おじいちゃんやおばあちゃんと一緒に礼拝できることを神さまに感謝してください。
 さて、きょうの説教題は合同礼拝にしては、ちょっとむずかしい題をつけてしまいました。「究極の賭け」。なんだか分かりませんね。「究極」という言葉もむずかしいですが、「賭け」ってなあに?と思われるかもしれませんね。その言葉の説明はしないことにして、さっそく聖書に入っていきましょう。

献金

 きょうの聖書では、イエスさまがエルサレムの神殿の庭におられた時のことです。みなさん、神社に行くと「賽銭箱」というのがありますね。それと同じように、エルサレムの神殿にも、神さまを礼拝に来た人たちが献金を投げ入れる賽銭箱がありました。いろいろな献金のために、献金箱が13個置いてあったそうです。
 そこに献金を投げ入れるようになっていて、投げ入れるとチャリン、と音がしました。昔は今のような「紙幣」というのがなかったんです。みんな、銅や銀や金でできているコインでした。ですから、たくさん投げ入れると「ジャラン、ジャラン」と音がしたことでしょう。そうすると「あの人はたくさん献金したな」と思われたことでしょう。少ししか投げ入れないと、「チャリン」という音で終わりでしょう。そうすると「あの人はちょっとしか入れなかったな」と思われるでしょう。

献金はなぜする?

 さて、ここで「献金」ということを考えてみたいと主ます。献金とは、「お金をささげる」という字を書きます。誰にささげるかというと、神さまに献げます。何か人間に献げるのではなくて、神さまに献げるのが献金です。
 なぜ神さまに献げるかというと、神さまが献げなさいとおっしゃっているからです。旧約聖書に書かれています。旧約聖書の時代は、昔々ですから、麦などの作物や羊などの家畜を神さまに献げました。その時代は、お金がまだあまり使われていなかったので、麦や羊などの品物で献げたのです。たとえば麦を収穫したら、その収穫の10分の1を神さまに献げました。
 それは、「神さまのおかげで収穫を得ることができました。感謝します」という感謝を表しています。そして、「わたしは神さまのものです」と、自分を神さまに献げる、つまり献身ということをあらわしています。そして神さまに献げた品物や献金で、神さまを礼拝する施設である神殿が守られ、またそこで神さまのために働いている祭司やレビ人が生活しました。
 ですから、献金もそういう意味です。神さまへの感謝です。神さまの与えてくださる恵みに感謝するしるしです。そして、神さまを信じ、自分を献げるしるしです。

貧しいやもめの献金

 さて、ある貧しいやもめがレプトン銅貨2枚を入れるのをイエスさまはご覧になりました。「やもめ」というのは、夫を亡くした奥さんです。この当時、女性が一人で生きて行くのはとてもたいへんでした。それで、やもめというのはみんな貧しかったのです。
 この女の人が、レプトン銅貨2枚を献金しました。レプトン銅貨というのは、当時流通していた最も安い硬貨でした。今わたしたちの国で一番安いお金は何円ですか?1円ですね。でもレプトンは銅貨ですし、1園ほど安くもないように思いますので、10円ということにしておきましょう。そるとこの女性は10円玉2枚を献げたということになります。
 それに対してお金持ちたちはいくら献げたのでしょうか。10万円、100万円と献げたかもしれません。そうすると20円というのは、ほんとにわずかな金額です。
 この女の人ですが、もう一度2節を見ると、「ある貧しいやもめ」と書かれています。実はここに使われている「貧しい」という言葉は、聖書の中でここにしか使われていないことばが使われています。ここの「貧しい」という言葉を言い換えると「その日暮らし」という意味になります。「その日暮らし」をするほかはないほど貧しい。つまり、食べ物を買うお金も殆どなく、ようやく何とか生きているほどの貧しさです。さらに3節の「貧しい」という言葉は、物乞いをするほど貧しいという言葉です。
 ですから、このやもめは、貧しいと言って、最も貧しくお金のない人だったと言ってよいでしょう。そういう女の人が持っていた20円全部献金箱に献げたのです。しかしたった20円です。いくら神さまに献げると言っても、20円が何の役に立つのでしょうか?20円ぽっちでは何の役にも立たないように思われませんか。それよりもせめて、全財産が20円ならば、その20円でパンでも買って食べたらよいでしょう、と思いませんか。

だれよりもたくさん

 ところがイエスさまは、この女の人について、「この貧しいやもめは誰よりもたくさん入れた」とおっしゃいました。たった20円が? 誰よりもたくさん?
 イエスさまは続けておっしゃいました。「あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費全部を入れたからである」と。あのお金持ちの人たちは、10万円献金したのか、100万円献金したのかは分かりません。しかし有り余るほど持っている中から献金したので、それだけ献金しても、何の問題もなく生活できるでしょう。けれども、あの貧しいやもめは、そのレプトン硬貨2枚を献げてしまったら、手元には1円も残らないのです。財布の中は何も無くなってしまうのです!
 神さまから見たら、この貧しいやもめが誰よりもたくさん献金を献げたことになるのです。聖書のサムエル記というところに次のようなみことばがあります。
(サムエル記上16:7)「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」
 神さまは心を見られます。
 この貧しいやもめは、この後どうやって暮らしていくのでしょうか?わずかレプトン銅貨2枚とはいえ、生活費全部を献げてしまったのです。なぜそんな無茶なことをしたのでしょうか。
 この貧しいやもめは、神さまに賭けたのです。全部献げて、「神さま、わたしはあなたのものです。あなたが守ってくださり、生かしてくださると信じます」ということでしょう。

養ってくださるのは神さま

 小さいお友だち、皆さんは、お小遣いはいくらもらっていますか?‥‥ひと月に300円ですか?千円ですか?
 お小遣いがなくなってしまうと、皆さんはご飯を食べることができなくなりますか?服を買うことができなくなりますか?
 違いますね。なぜお小遣いがなくなっても、ご飯を食べることができるし、服を買うこともできるのでしょうか?‥‥それは、お父さんやお母さん、あるいはおうちの人が買ってくれるからですね。おうちの人が皆さんのことを心配して、食べさせたり、服を買ったりして、生きていけるようにしてくれるからです。
 この女の人も同じだったでしょうか。自分の持ち物がなくても、神さまが助けてくれる、食べさせてくれる、着るものを与えてくださる‥‥そのように信じたのです。ですから神さまに賭けるということは、神さまを信じるということです。

神を信じる

 神さまを信じるということは、神さまがすべてを守ってくださると信じることです。そしてその神さまに賭けることです。こうして日曜日に礼拝に来ているのも、神さまを信じているからです。それは神さまに賭けているということです。
 わたしも人生を神さまに賭けました。そして神さまは、今までわたくしを裏切ったこともありませんし、見捨てたこともありません。いつも最もふさわしい道を用意し、困った時は助け、慰め、力を与えてくださいました。そしてともに歩んでくださいます。 ご一緒に、神の国を目指して歩んでまいりましょう。

(2014年9月14日)



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