礼拝説教 2014年9月7日

「栄光は誰に」
 聖書 ルカによる福音書20章41〜47 (旧約 詩編110)


41 イエスは彼らに言われた。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。
42 ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。
43 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで」と。』
44 このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
45 民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。
46 「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。
47 そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」




 都であるエルサレムに入られたイエスさまに対して、イエスさまのことを憎む人々が、いろいろと難癖(なんくせ)をつけたり、言葉の罠(わな)にかけようとしたり、嫌がらせのような質問をしたりしてきました。しかしそれらの彼らの詰問に対して、あまりにもみごとに答えられたイエスさま、そのイエスさまの前に、もやはイエスさまの敵対者たちは言葉を失いました。40節に「彼らは、もはやなにもあえて尋ねようとはしなかった」と書かれている通りです。すると今度は、イエスさまが彼らにお問いになったのがきょうの個所です。

メシアとダビデの子

 ここで「メシア」という言葉が何度も出てきますが、すでに何度もお話ししているように、「メシア」という言い方はユダヤ人の言葉であるヘブライ語の言い方です。新約聖書の言葉であるギリシャ語では「キリスト」という言い方になります。日本語では、救い主と訳したりします。
 当時も今も、ユダヤ人はメシアが来るのを待望していました。メシアが来て、自分たちを救ってくれるということを待ち望んでいました。たとえば日本では、「今度の総理大臣こそ景気を回復させてくれる」。「今度のアメリカ大統領こそ、平和な世界を造ってくれる」‥‥と期待するのと似ていると言えるでしょう。当時のユダヤ人たちは、「メシアが来て、ローマ帝国を打倒してくれる」「民族の独立を勝ち取り、昔のダビデの王朝のような栄光を取り戻してくれる」などといってメシアが来るのを待ち望んでいたようです。
 さて、イエスさまは、人々が「メシアはダビデの子」だと言っているがそれはなぜか?と、お問いになっています。
 たとえば、イエスさまがロバの子に乗ってエルサレムの都に入られた時、ルカによる福音書には書かれていませんが、マタイによる福音書のほうを見ると、群衆が「ダビデの子にホサナ!」といって歓迎したことが書かれています(マタイ21:9)。これは民衆が、もしかしたらイエスさまこそメシアではないか、と期待して叫んでいる言葉です。すなわち、「ダビデの子」というのはメシアを指している言葉なのです。
 そしてなぜ「ダビデの子」という言い方が、メシアを指す言葉になったかというと、その昔イスラエル王国の王ダビデに対して、主が「あなたの身から出る子孫に後を継がせ、その王国を揺るぎないものとする」(サムエル記下7:12)とおっしゃったからです。すなわち、「ダビデの子」とはダビデの子孫ということになります。そしてイスラエル王国が栄華を極めたダビデ王朝の再来を期待する言葉でもありました。

主と主

 さて、そのように人々が「メシアはダビデの子」と言っていました。それに対してイエスさまは、当時のユダヤ人ならだれでも知っている聖書の詩編110編の言葉を引用して、ダビデがその詩編の中で言っている言葉を取り上げ、「ダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子」なのか、とお問いになったのです。今までは、イエスさまの敵対者たちから質問攻めに遭っていましたが、きょうは逆にイエスさまが彼らに質問なさったのです。そしてこれを最後に、彼らとのやりとりは終わります。
 さて、42節43節でイエスさまが引用しておられるのは詩篇110編の1節です。実際の詩篇110編と比べるとちょっと言葉が違っていますが、その理由はきょうは説明を省略させてください。とにかく、ここを引用なさいました。そして「主は、わたしの主にお告げになった」というところです。ここは少し説明が必要でしょう。「主」が2回出てきて頭が混乱しそうですが、最初の「主」と、次の「主」は違うのです。旧約聖書の原文のヘブライ語の聖書を見ますと、最初の「主」は、神さまをあらわす主、すなわちヤーウェという言葉になっています。次の「主」は、主人の主、奴隷に対する主人を指す主という言葉になっています。つまり「わたしの主人」という意味ですね。
 そうしますとこの「主は、わたしの主にお告げになった」というくだりは、言い換えると「神さまは、わたしの主にお告げになった」ということになります。そのようにダビデは詩篇で詠っている。そしてこの2番目の「主」が、メシアのことです。
 ちょっと待ってくださいよ、と言いたくなりますね。なぜなら、ダビデというのはイエスさまの時代よりもずっと前にいた王様です。そのダビデ王が、すでにメシアである主を知っている。そしてそのメシアである主、すなわちダビデの主は、神さまの右の座についている。神さまの道の座ということは、もちろん天の国の話になります。どうして天の国のことが、ダビデに分かったのか。それは、神さまが、ダビデに示してくださったのでしょう。

どうしてメシアがダビデの子?

 さて、そのようにむかしダビデ王は、メシアを「わたしの主」と呼びました。ダビデがメシアのしもべであり、メシアが主人であると。‥‥この言葉を引用して、イエスさまは44節でおっしゃっているのです。「このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか?」と。
 このお言葉は、聞きようによっては、イエスさまが「ダビデがメシアを主、ご主人様と呼んでいるのだから、メシアがダビデの子であるのはおかしいじゃないか。ダビデの子と呼ぶのは間違っている」とおっしゃっているように聞こえるかもしれません。しかしそうではありません。イエスさまは、メシアをダビデの子と呼ぶのは正しいという前提でおっしゃっているのです。「ダビデがメシアを主と呼んでいる。では、メシアがダビデの子である理由は何か?」とお問いになっているのです。
 ダビデの主であるメシア、しかも天の国で父なる神さまの右の座におられるいと高き方が、わざわざダビデの子孫として生まれる理由は何か。もし、人々が考えているように、かつてのダビデの時代のようなイスラエルの栄光を取り戻すため、国がもう一度栄えるためであるとするならば、神に等しい方がわざわざダビデの子孫として、すなわち人間となってこの世に生まれる必要はないのではないでしょうか。旧約聖書の時代のように、サムソンであるとか、ギデオンであるとかいった人のように、誰かに神さまが力を与えれば、ローマ帝国を蹴散らすことぐらいわけのないことでしょう。
 しかし天の父なる神さまの右の座におられる方、そのメシアと呼ばれる主が、わざわざダビデの子孫として人間となって生まれなければならないとは、いったいなぜなのか?
 この問いには、律法学者や祭司長たちも答えることができなかったようです。

メシアであるイエスさま

 しかし、もう皆さんは、ここでいうメシアが、だれのことを指しているのかおわかりかと思います。そうです。このメシアとは、実にイエスさまのことを指しているのです。父なる神の右の座におられたイエスさまが、ダビデの子孫として人間となってこの世に生まれてくださった。それはなぜかと言えば、この私たちを救うためです。罪から救うためです。そのために十字架にかかるためです。そのために「ダビデの子」となられた。
 聞いている人たちは、もちろんそのことが分かりません。ですから、イエスさまがお問いになったことに答えることもできない。
 天の国の父なる神の右の座、右の座というのはナンバー2です。父なる神さまに次ぐ方であるメシアが、その高いところにおられた方が、低く低く下って、ダビデの子として人となってこの世にお生まれになり、しかも馬小屋にお生まれになり、この世を歩まれ、最も低くなられて十字架という死刑台におつきになるのです。

律法学者の高ぶり

 それに対して、律法学者はどうか、というのが45節からのところです。律法学者というのは、当時の人々の先生です。神さまのこと、聖書のことを教えている先生たちです。彼らは低くなるどころか、非常に高慢に振る舞っているということを指摘しておられます。人々から良い扱いを受けることばかりを求めている。自分がほめたたえられることを求めている。神さまがほめたたえられるのではなく、自分がほめたたえられることを求めている。‥‥そういう人は厳しい神の裁きを受けることになると言われます。

低く下られたイエスさま

 それに対して、メシアであるイエスさまはどうでしょうか。むかし栄華を極めたダビデ王が「主」ご主人様と呼び、万物の創造主である天の父なる神さまの右に座しておられる方。すなわち神の御子であるイエスさまが、驚くべきことに、ダビデの子孫となってこの世に生まれられました。低く低く下られたのです。そして人々に最も忌み嫌われる十字架という死刑台に行かれました。それは私たちの罪を背負うためでした。
 そしてイエスさまが十字架にかかって、私たちの罪を背負ってくださったので、私たちは救われたのです。
 NHK大河ドラマの「軍師官兵衛」を見ても分かる通り、戦国時代に多くの人々がキリスト信仰に導かれてキリシタンとなりましたが、そこには高山右近の働きが大きかったと言えるでしょう。黒田官兵衛が信仰に導かれたのも高山右近によるところが大きかったのでした。
 その高山右近は、最初今の大阪府の高槻城の領主でした。高槻の領民2万5千人のうち、1万8千人がキリシタンになったと言われます。右近は父飛騨守と共に熱心なキリシタンで、キリストの教えを実践することに努めました。ある時、貧しい民が死んだ時、その人の棺桶を担いで葬列に加わり、庶民を感動させたといいます。当時の階級社会の中で、殿様が領民の死体の棺を担ぐということなど、あり得ないことでした。
 殿様が庶民の棺桶を担いで、人々は驚いて感銘を受けたのです。なのに、神の御子であるイエスさまが、この私たち一人一人を救うために十字架におかかりになったことに、あまり驚かないし、感動もないとしたらどういうことでしょうか。神の右の座におられた神の御子が、人となって、ベツレヘムの馬小屋にお生まれになって、大工の子としてお過ごしになり、人々のために寝る間も惜しんで働かれ、そして最後は十字架にかかられて死なれたのです。
 なぜ、ダビデが主と呼んだメシアが、ダビデの子となられたのか。それは、ただ私たち一人一人を救うためです。そのために低くなられたのです。このことの驚きと感謝を忘れてはならないと思います。

イエスに従う

 私たちは律法学者をあざ笑うかもしれません。でも、これは他人事ではありません。私たちもまたなかなか低くなることができません。
 たとえば聖書で何度も言われている「悔い改める」と「赦す」ということが、どんなにむずかしいことでしょうか。「こちらの人が謝れば、この問題は解決するのに。」「こちらの人が赦せば、この人間関係は元に戻るのに。」‥‥いろいろな相談を受けてきて、そんな風に思うことが山ほどありました。でも謝れない。「何で自分が謝らなければならないのか」と思う。また、赦すことができない。「何で、この人を赦さなければならないのか」と思うわけです。私たちは、なかなか低くなることができないのです。
 そう思うと、イエスさまが十字架にかかられたということはものすごいことだと分かってきます。「なんで私が、この罪深い人々の罪を背負って十字架にかからなくてはならないのか」などとはおっしゃらなかった。「この人々は、神の言葉に従わなかったのだから、死んで当然だ」ともおっしゃらなかった。私たちの代わりに罪を背負って、十字架に行ってくださったのです。
 このことの驚きと感謝を忘れてはなりません。そしてこの私たちも、メシアである主イエスに従って行く者でありたいと思います。

(2014年9月7日)



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