礼拝説教 2014年8月24日

「天の生命」
 聖書 ルカによる福音書20章27〜40 (旧約 出エジプト記3:4〜6)


27 さて、復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。
28 「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。
29 ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。
30 次男、
31 三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。
32 最後にその女も死にました。
33 すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」
34 イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、
35 次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。
36 この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。
37 死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。
38 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」
39 そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。
40 彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。
41 イエスは彼らに言われた。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。
42 ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。
43 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで」と。』
44 このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
45 民衆が皆聞いているとき、イエスは弟子たちに言われた。
46 「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。




軍師官兵衛

 毎週楽しみにしている日曜日夜のNHK大河ドラマの「軍師官兵衛」ですが、先週、ついに黒田官兵衛が宣教師オルガンチノから洗礼を受けてキリシタンになりました。当時は教会のことを「南蛮寺」と呼んでいましたが、ある日南蛮寺を訪れた官兵衛に対して、キリシタン大名として有名な高山右近が「門はいつでも開いております」と語りかけました。そしてまた官兵衛が南蛮寺を訪れた時に、今度は官兵衛が右近に尋ねました。「門は開いているでしょうか?」と。このやりとりが印象的でした。
 門は開いている‥‥もちろんこの門というのは、キリストの門、神の国への門です。イエスさまはおっしゃいました。「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(マタイ7:7)。私たちが門をたたくならば、イエスさまが開けてくださる。感謝であります。

天の生命

 きょうの聖書は、天国ではどうなるのか、ということです。前回の個所では、イエスさまを憎む律法学者と祭司長たちが、イエスさまを捕らえるために言葉のワナを仕掛けました。きょうのところでは、また別のグループの人たちが、イエスさまのところにやってきて、尋ねました。それは「サドカイ派」というグループでした。この人たちが、イエスさまを支持する群衆をイエスさまから引き離すために、難題をふっかけてきたのです。

サドカイ派

 今まではおもに「ファリサイ派」という人々が出てきました。きょうは「サドカイ派」です。サドカイ派というのは、主に神殿の祭司長や貴族など、上流階級の人々によって構成されていました。それに対してファリサイ派というのは、一般の庶民が中心でした。そしてそこにも書かれているように、サドカイ派の人々は、復活ということ、すなわち身体のよみがえりというものを否定していました。一方、ファリサイ派の人々は、復活ということがあると考えていました。
 サドカイ派の人々は、なぜ復活を否定するかというと、サドカイ派は、旧約聖書のうちモーセ五書と呼ばれる所だけを重んじていたからです。モーセ五書というのは、旧約聖書の最初の五つの文書です。すなわち、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記です。これは律法と呼ばれる部分でもあります。そしてそこには、復活ということはなにも書いてありません。それでサドカイ派は、復活ということを否定していました。
 さて、ここで復活とは何か、ということを考えておかなくてはなりません。復活というのは、霊魂不滅、すなわち体は死んでも魂は生きている、ということとは少し違います。復活というのは、霊魂が死なないだけではなく、体もよみがえるということです。

サドカイ派の論法

 さて、そのサドカイ派の人々がイエスさまに論戦を挑んできました。それはそこに書かれているように、順番に7人の兄弟と結婚した女性のケースです。兄が死んだからその弟の妻となり、その弟が死んでその下の妻となり‥‥と、7人の兄弟と順に結婚した。皆さんは、「そんなばかばかしい結婚があるか」と思われる方もいるかもしれませんが、実はモーセの律法には、そういう規定があるのです。
 それは、旧約聖書の申命記の25章5〜10節に記されています。ある人が、子どもを残さずに死んだならば、その人の妻は死んだ人の弟と結婚しなければならないと書かれています。なぜそんな決まりがあったかと言えば、それは家系を絶やさないためでした。ですから、サドカイ派の人が言ったように、極端に言えば、子どもが生まれないので、7人の兄弟と順番に結婚するというケースも、あり得ない話ではないことになります。
 そしてサドカイ派の人の質問は、復活したらこの女性はだれの妻となるのか?というものでした。言い換えれば、天国ではこの女はだれの妻となるのか、ということです。確かにむずかしい問題です。サドカイ派の人々が言いたいのは、もし復活があるのなら、神さまがこんな馬鹿な律法を作るはずがない。だから復活など、あり得ないのだ、と言いたいのでしょう。確かにその通りのようにも聞こえます。

イエスの答え

 これに対してイエスさまがお答えになったのは、驚くべき答えでした。天国に復活した人々は「めとることも嫁ぐこともない」というのです! つまりだれの妻ということでもないということになります。結婚ということがないと。
 話しは変わりますが、広告代理店の博報堂が、一昨年12月に40代〜60代の男女2700人を対象にしたインターネット調査をいたしました。その調査とは、「生まれ変わっても今の相手とまた夫婦になりたいか?」という調査でした。そうすると、生まれ変わっても今の相手とまた夫婦になりたいという答えは、男性が50.1%、女性が38.5%だったということです。男性のほうが、生まれ変わっても今の妻と結婚したいと思っている割合が高かったそうです。
 そんなことも考えてしまいます。生まれ変わるということは聖書ではありませんが、天国に行ったらどうなるのでしょうか? イエスさまのお答えに、皆さんはどう思われるでしょうか。

永遠の命としての復活

 なぜ復活した暁には、めとることも嫁ぐこともないのでしょうか?
 続けてイエスさまがおっしゃるのには、「この人たちは、もはや死ぬことがない」と言われるのです。もはや死ぬことがない。まさに永遠の命です。ここで、復活ということは、永遠の命をいただくことであることが分かります。死ぬことがない復活の体とはどんな体でしょうか?
 このことについて、コリントの信徒への第一の手紙の15章には、私たちが復活させられた時には、この肉の体ではなく、朽ちることのない霊の体によみがえるのだと書かれています。(1コリント15:42〜44)「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」
 さて、そう言われても、私たちには、朽ちることがない「霊の体」というものがどんなものか全く想像もできません。なぜなら、この世のすべてのものはやがて朽ちていくからです。永遠というものがありません。この私の体も必ず朽ち果てます。この教会堂という建物も必ず朽ちます。地球すらも朽ち果ています。太陽も朽ちていきます。いや、銀河系も永遠ではありません。宇宙すらも分かりません。‥‥
 しかし神が、朽ちることのない永遠の復活の体に変えてくださるというのです。私たちには想像することもできませんが。結婚というものがないということも、今の私たちには想像することができません。
 少し前の「軍師官兵衛」の話になりますが、織田信長がまだ生きていた頃、外国からやってきた人が、地球儀を信長に見せ、世界は丸いと言いました。すると横で聞いていた信長の妻の「お濃」が笑って言いました。「それでは水がこぼれ落ちてしまいます」と。たしかに、万有引力の法則をまだ知らなかった当時の人が聞けば、そのように思ったことでしょう。しかし今では、子どもでも地球が丸いことを知っています。
 私たちも、今この世に生きている間は、結婚がない、夫婦というものがないことが想像もできません。しかしそれは、私たちの想像を超えてもっとすばらしいことになっているのに違いありません。なぜそう信じることができるかと言えば、この言葉をおっしゃったイエスさまが、私たちを愛しておられるからです。私たちを愛して十字架で命を投げ打ったイエスが与えるものだからです!

天使に等しい

 36節でイエスさまは、天国に復活した人々は「天使に等しい者」だと言っておられます。「等しい」というギリシャ語は、「同じ」という意味です。すなわち、天使と同じだということです!
 天使と言えば、「天使の歌声」「天使のような」という言葉の示す通り、清く美しいものの代名詞です。それは、まったく自分とは関係のない他人事でした。しかしここでイエスさまは、天使と同じになるのだとおっしゃるのです。だれが?‥‥イエスさまを信じるあなたが、です。このわたしが、です!
 この全く自分勝手な罪人である私が、神の子として全然ふさわしくないこの私が、です。神さまが変えてくださるのです。天使と同じように。体だけではありません。私たちの心もです。
 私の先輩の牧師に、大橋弘先生という方がおられます。この大橋先生の書かれた本の中に出てくることをご紹介します。全国にハンセン病の療養所があることは、皆さんもご存じの通りです。かつてハンセン病は「らい病」と呼ばれ、たいへん恐れられていました。大橋先生は、その療養所内にある教会の牧師をしておられたことがありました。先生は当時流行した神学、つまり「イエスさまはただの人であって、奇跡を行わなかった」というような破壊的な神学の影響を受けていたそうです。そしてイエスさまの復活ということを、「実際に起こった出来事ではなく、イエスの弟子たちの心の中に起こった出来事」としてとらえていたそうです。そんな思想をもちながら、療養所の患者さんたちに聖書の言葉を語っていたのでした。
 ある日の礼拝の後、皆病室へと戻ってしまった礼拝堂で、Aさんという一人の年輩の男性が残って、非常にすまなそうな、せつなそうな声で先生に言ったそうです。「おれは本当に先生が好きだ。でも先生の話を聞いていると、おれの信仰が間違っているかもしれねえと思って。好きな先生だからおせえてほしい。先生、復活というのは、おれのこの体が、この青虫のような体が死んで、アゲハチョウのようになるっていうようなことだと、ずっと思ってきたけど、それでいいんでしょうね?」
 その後先生はこう書いています。‥‥「その日のわたしの心の中に起こったことを、いつか語りたいと思う。人は言う。人のことばが、自分の生き方、人生を変えることがあるだろうか、と。「ある」と、わたしは信ずるものである。‥‥

生きている者の神

 38節でイエスさまは、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」とおっしゃっています。本日呼んだもう一個所の聖書、出エジプト記3:6に、このように書かれていました。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。‥‥「であった」ではなく、「である」と神はおっしゃっています。
 イエスさまは、サドカイ派の重んじる出エジプト記を引用しておっしゃいました。ならば、もうとっくに死んだはずのアブラハムも、イサクも、ヤコブも生きていることになります。神のもとでです。気になるのは、35節の「復活するのにふさわしいとされた人々」という言葉です。全員復活するというのではありません。そうすると私たちの中には、また別の心配が生まれて来ます。「わたしはふさわしいか?」ということです。考えてみると、この私は、復活して永遠の命を与えていただく資格もないし、ふさわしくない者です。
 しかし、十字架にかかってくださったイエス・キリストによって、このふさわしくない者が、ふさわしい者としていただいている。十字架によって罪赦されて、永遠の神の国に復活するにふさわしい者と見なしていただいている。この感謝は、言葉では言い表せないほどであります。

(2014年8月24日)



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