礼拝説教 2014年8月10日

「神のものは神に」
 聖書 ルカによる福音書20章20〜26 (旧約 出エジプト記19章4)


20 そこで、機会をねらっていた彼らは、正しい人を装う回し者を遣わし、イエスの言葉じりをとらえ、総督の支配と権力にイエスを渡そうとした。
21 回し者らはイエスに尋ねた。「先生、わたしたちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。
22 ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか。適っていないでしょうか。」
23 イエスは彼らのたくらみを見抜いて言われた。
24 「デナリオン銀貨を見せなさい。そこには、だれの肖像と銘があるか。」彼らが「皇帝のものです」と言うと、
25 イエスは言われた。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」
26 彼らは民衆の前でイエスの言葉じりをとらえることができず、その答えに驚いて黙ってしまった。




イエスを捕らえる計略

 エルサレムの都に入られたイエスさま。その民衆の圧倒的支持を受けているイエスさまのことを苦々しく思い、亡き者にしようと狙っている人たちが、祭司長や律法学者といったユダヤ人の指導者たちでした。
 今日の20節で「機会をねらっていた彼らは」と書かれていますが、それはイエスさまを逮捕する機会をねらっていたわけです。なぜ、ユダヤ人の中で権力を持っている彼らが、すぐにイエスさまを捕らえるのではなく「機会をねらっていた」かと言えば、それはイエスさまを取り巻く民衆の反発を恐れてのことでした。本日の個所では、彼らは正攻法でイエスさまを攻めるのではなく、言葉の罠(わな)にかけようとしてイエスさまに近づいて質問したことが書かれています。「正しい人を装う回し者を遣わし」とあります。「正しい」という意味のギリシャ語には「公平な」という意味もあります。つまり、イエスさまのことを悪く思っていないようなふりをして近づいて来たのです。
 彼らは言いました。「先生、私たちは、あなたがおっしゃることも、教えてくださることも正しく、また、えこひいきなしに、真理に基づいて神の道を教えておられることを知っています。」‥‥心にもないことをこのように言ったのですから、なんか恐い感じがいたします。人を持ち上げておいて、落とそうというのです。
 そして彼らはこう質問しました。「ところで、わたしたちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適(かな)っているでしょうか。適っていないでしょうか」。つまり彼らは、イエスさまを尊敬するふりをして、素朴な質問をしたように装っていたのです。「皇帝」というのは、今ユダヤを支配しているローマ帝国の皇帝のことです。
 さて、この質問ですが、これはまさにイエスさまを罠にかけるための質問です。なぜこれが罠にかけることになるかというと、もしこの質問に対してイエスさまが、「律法に適っている」と答えたといたします。すると人々は、イエスさまに幻滅することでしょう。なぜなら、ユダヤ人の多くは、自分たちの国がローマ帝国によって支配されていることを良く思っていなかったからです。ユダヤ人というのは、自分たちは神から選ばれた民であるという自負がありました。その自分たちが、異教徒である外国人によって支配されているというのは、たいへんおもしろくないことでした。
 ですから、ローマ皇帝に税金を納めることは律法に適っているかという質問に対して、イエスさまが、「適っている」と答えれば、人々は幻滅し、反発することになります。そうすればイエスさまの回りから民衆がいなくなって、イエスさまを捕らえることができるという計算です。
 反対に、「律法に適っていない」とイエスさまが答えたとしたら、今度は「イエスはローマ帝国に税金を納めることを禁じた」ということにし、ローマ帝国に対してイエスを反逆罪で訴えるに違いありません。そうして、ローマ帝国の手によってイエスさまを捕らえさせ、反逆罪で死刑にしてもらえば良いわけです。
 そのように、イエスさまがどちらに答えても、イエスさまを亡き者にすることができる。それが彼らの計算であり、はかりごとであったわけです。このように、一見なにげない質問に聞こえますが、実は非常に恐ろしい罠が仕掛けられている質問です。

イエスの答え

 わたしたちも固唾(かたず)をのんでイエスさまがどう答えなさるか注目いたします。すると主イエスは言われました。「デナリオン銀貨を見せなさい」。デナリオン銀貨というのは、当時流通していた貨幣で、1デナリオンは、労働者の一日の賃金に相当いたします。そしてローマ帝国への税金は、そのデナリオン銀貨で納めることになっていました。そのデナリオン銀貨を見せなさい、と。そしてそのデナリオン銀貨を、おそらく手に取られておっしゃいました。「誰の肖像と銘(めい)があるか」と。すると彼らが答えました。「皇帝のものです」と。デナリオン銀貨はローマ帝国の貨幣であり、そこにはローマ皇帝の肖像と銘が刻まれていました。
 そして主はおっしゃいました。「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。この答えに彼らは返す言葉もなく、沈黙してしまいました。
 彼らは自分たちの持っているデナリオン銀貨をイエスさまに示したのです。その彼らが持っている銀貨に、ローマ皇帝の像が刻まれているのです。十戒にも書かれているように、偶像は拝んではならないものでした。それで刻まれた像、特に人間の像は、ユダヤ人の忌(い)み嫌うところのものであったに違いありません。しかも、自分たちを支配しているローマ皇帝の像が刻まれている。彼らは銀貨を使うたびに、苦々しく思って使っていたことでしょう。
 ですからイエスさまが、「皇帝のものは皇帝に」とおっしゃった時、「そんなにイヤイヤ使っているお金を、ローマ帝国に税金として返さないのはなぜなのか?返すべきではないのか?」という無言の言葉を彼らは聞いたのに違いありません。
 そして「皇帝のものは皇帝に」という言葉と並んで、「神のものは神に返しなさい」とおっしゃった時、皇帝と神を並べておっしゃったのです。「皇帝と神とどちらが大切か」と言われれば、ユダヤ人はみな「神」と答えるでしょう。それは聖書が求めているものが神への信仰だからです。その聖書の民であることを自認している彼らですから、皇帝よりも神が大切に決まっています。それなのに、あなたがたは、皇帝のものをさも大切なことであるかのように言っている。枝葉のことを問題にして、大切なことを忘れているではないか。‥‥イエスさまはそのようにおっしゃっているかのようです。一番大切なことは、「神のものを神に返す」と言うことではないのか、と。
 「神のものは神に」とイエスさまが言われた時、「あなたがたは、本当に神のものを神にお返ししているのか?」という悔い改めを求める言葉を、彼らは聴いたに違いありません。

神のものは神に

 「神のものは神に」とイエスさまはおっしゃいました。ここで言われる「神のもの」とはいったい何でしょうか?
 聖書を調べてみますと、次のような言葉があります。
(出エジプト19:5)「世界はすべてわたしのものである。」
(詩編50:12)「世界とそこに満ちているものはすべてわたしのものだ。」
これはいずれも主なる神さまの言葉です。また使徒パウロも述べています。
(ローマ14:8)「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」
 昨日、教会学校のデイキャンプを教会で実施しました。今年のキャンプのテーマは「神さまは造り主」でした。そして創世記の1章を学びました。この世界とその中にあるもの、そしてわたしたちがすべて神さまによって造られたことを学びました。わたしたちは神さまによって造られた、神さまのものです。にもかかわらず、神さまを信じなくなり、わたしたち自らが神さまから離れて行ってしまいました。それが罪です。それゆえに神さまはおっしゃいます。
(レビ記20:26)「あなたたちはわたしのものとなり、聖なる者となりなさい。」
神さまによって造れた、神さまのものであるにもかかわらず、わたしたち人間自らが神のものではないかのように思い、神のものを離れていった。それゆえ、神のもとに帰りなさい、神のものとなりなさい、と言われるのです。
 イエスさまがおっしゃった、「神のものは神に返しなさい」という言葉は、そのような言葉として聞こえてまいります。そしてこれはすべての人に対して言われている言葉です。神を信じるように、この言葉を語られたイエスさまを信じるように、そして主と共に生きるように、と。

横田早紀江さん

 北朝鮮に拉致(らち)された方たちについて、北朝鮮政府がようやく再調査に応じました。横田めぐみさんをはじめ、多くの拉致被害者が戻ってくるのではと期待されているのは、皆さんご存じの通りです。さて、ご存じの方も多いと思いますが、横田めぐみさんのお母さんである早紀江さんはクリスチャンです。彼女がクリスチャンとなったのは、めぐみさんがいなくなってからのことでした。
 今から37年前の1977年、横田早紀江さんは、娘さんのめぐみさんが突然いなくなったとき、「どうか、どこかで生きていて!」と絶叫したくなるような気持ちで、めぐみさんを捜し続けていました。「どうしちゃったの?どこに行ってしまったの?」と、ひとりで毎日毎日泣いていたそうです。そういうときに、「因果応報だ」とか「先祖のおまつりの仕方が悪い」と心ないことを行ってくる宗教の人たちがいました。そんなときに、めぐみさんの親友のお母さんが、聖書の言葉をかけてくれたのです。‥‥(ヨハネ福音書9:1-3)“さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。”
 横田早紀江さんは、「はじめて聞く不思議な言葉でした」と本に書いておられます。この言葉によって、めぐみさんがいなくなったのは、めぐみさんの罪のためでもなく、両親の罪のためでもないということで、大きな平安と慰めを与えられたそうです。その後しばらくして、ふと聖書を手に取ったのです。それは真保さんとは別の人が置いて行ったものでした。そして置いて行かれたときに、「ヨブ記」を読んでね、と言われたことを思いだしたそうです。そして、一気にヨブ記を読んだそうです。
 ヨブ記は、旧約聖書の中の書で、ヨブという裕福な人がいたのですが、そのヨブがある日すべての財産を失い、子供もすべて死んでしまい、自分自身もひどい皮膚病にかかって苦しむのです。そして奥さんに、「神を呪って死になさい」と言われるほどたいへんな目にあうのです。しかしそのヨブが、どこまでも神から目を離さずに信じ切っている姿に、言いようもない感動を早紀江さんは覚えたそうです。「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ記1:21)‥‥このヨブの言葉に、非常に引きつけられたそうです。
 それまで早紀江さんは、いっしょうけんめい生きてきたつもりだった。悪いこともしないで正しく生きていると思ってきた。自分の努力で何でもできると思っていた。しかしこの時、早紀江さんは、「それなりに正しい行動をすれば達成感があると思っていたわたしの小さな考えとは全く違う、神さまの視点というものがあると教えられたのです」と本に書いておられます。
 さらに読み進むと、ヨブ記11:7-8のこういう言葉に出会った。「あなたは神の深さを見抜くことができようか。全能者の極限を見つけることができようか。それは天よりも高い。あなたに何ができよう。それはよみよりも深い。あなたが何を知りえよう。」 この言葉に早紀江さんは、全能の神の人間の力では及ばない、深くて大いなるものを感じたのだそうです。そうして涙ながらにヨブ記を読み通した。すべて自分に当てはまるようで、良い意味でのショックを受けたのだそうです。そうしてやがて、宣教師の主催していた聖書を読む会に出席するようになり、洗礼へと導かれたのです。
 その洗礼の時のことをこのように書いておられます。「……待つこと以外、何もできない私の一つの選択であり、またそれは一方的な神の恵みによるものであったのでした。私も主人も、この間、何度となく、めぐみはもう戻って来ないかもしれないと思いました。けれども、何の手がかりも得られない代わりに、戻って来ないという証拠もない以上、めぐみは生きていると信じるしかないのです。そして、一瞬一瞬、信じて待つことがどれほど大変なことか、その精神的な苦痛はことばではとうてい言い表すことはできません。私は、洗礼を受け、すべてを神に委ねることになりました。」
 途方もない苦しみの中で、神さまに導かれ、そしてすべてを神にゆだねられた。「神のものを神に返す」、その姿を見るように思いました。わたしたちも神のものを神に返す歩みでありたいと思います。

(2014年8月10日)



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