礼拝説教 2014年8月3日

「捨て石の奇跡」
 聖書 ルカによる福音書20章9〜19 (旧約 詩編118:22〜25)


9 イエスは民衆にこのたとえを話し始められた。「ある人がぶどう園を作り、これを農夫たちに貸して長い旅に出た。
10 収穫の時になったので、ぶどう園の収穫を納めさせるために、僕を農夫たちのところへ送った。ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した。
11 そこでまた、ほかの僕を送ったが、農夫たちはこの僕をも袋だたきにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。
12 更に三人目の僕を送ったが、これにも傷を負わせてほうり出した。
13 そこで、ぶどう園の主人は言った。『どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。』
14 農夫たちは息子を見て、互いに論じ合った。『これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。』
15 そして、息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか。
16 戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。
17 イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』
18 その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」
19 そのとき、律法学者たちや祭司長たちは、イエスが自分たちに当てつけてこのたとえを話されたと気づいたので、イエスに手を下そうとしたが、民衆を恐れた。




平和聖日

 本日は日本基督教団の暦で「平和聖日」です。今から69年前、大東亜戦争と呼ばれ、太平洋戦争と呼ばれた長い戦争が、多くの犠牲者を出して終結いたしました。そのことを覚えて祈る日です。
 一昨日、私は富山に行きました。そこのアームストロング青葉幼稚園の理事会に出席するためです。まだ役をやめさせてもらっていないことと、たいへん重要なことを決める理事会ということで、呼ばれていったわけです。富山に行ってみて思いだしたのですが、その日はまた富山市の神通川花火大会の日でした。毎年8月1日に花火大会が行われるのです。なぜ花火大会が毎年その日に行われるかといいますと、それは1945年の終戦の直前である8月1日の夜中から2日の未明にかけて、富山大空襲と呼ばれる空襲があったからです。その犠牲者を追悼する意味で、戦後まもなく始まったものです。
 その空襲で、富山の市街地は文字通り灰燼(かいじん)に帰(き)しました。空襲による焼失率は、なんと全国一で、市街地の99.5%が壊滅したそうです。残ったのは、鉄筋コンクリートのビル3つだけだったそうです。死者は4千人と言われています。昔の人たちがおっしゃるのには、米軍機はまず市街地のまわりに焼夷弾を落としたそうです。そうして市民が逃げ場を失ったところに、真ん中に焼夷弾を落としていったそうです。まさに虐殺です。
 当時の富山二番町教会のすぐ横には用水路が流れていました。焼夷弾の炎の熱さを逃れて、用水路の中に多くの人が飛び込んだ。しかし焼夷弾というのは油が含まれていて、その油が水の上を炎と共に覆い尽くして、そこに逃げ込んだ人は焼け死んだそうです。そういう悲惨なことがあったそうです。それで、私が富山二番町教会にいた時、移転する前の古い建物の時まで、毎年8月の第一週に、町内の人の要請を受けて、犠牲者を追悼する式典をおこなっていました。クリスチャンではない町内の人たちが教会に集まってきて、礼拝をしていたのです。
 教会の前の広い通りは「平和通り」と名付けられた通りでした。平和を望まない人は誰もいないでしょう。にもかかわらず戦争は起きます。今も世界の各地で戦争が起きています。望んでいるのに平和とならない。憎しみがあって、赦しがない。それは人間の罪に原因があります。人間の罪を唯一解決してくださる方、平和の君であられる方、イエスさまに祈り願うことがたいせつです。

イエスのたとえ話

 本日の聖書箇所は、イエスさまのたとえ話が記されています。ぶどう園の主人と農夫のたとえです。お話自体は説明する必要がないほど分かりやすいものでしょう。しかし問題は、これはなにをたとえている話なのか、ということです。
 それでその答えを最初に申し上げておいたほうが良いかと思います。「ある人」と最初に書かれているぶどう園の主人は、神さまのことをたとえています。そして「農夫たち」というのは、旧約聖書の神の民であるイスラエルの民、とくにイスラエルの民の指導者のことを指しています。そして、ぶどう園の主人が次々に送った僕(しもべ)たちというのは、預言者たちのことです。すなわち、旧約聖書にも記されていることですが、神さまはイスラエルの民のところに、神の言葉を伝える預言者を次々にお送りになりました。ところが、イスラエルの民は預言者の言葉に耳を傾けなかった。そういう旧約聖書の歴史を振り返っています。たとえば旧約聖書にエレミヤ書という書物がありますが、これはエレミヤという預言者の書物です。エレミヤは、ユダ王国の末期に活躍した預言者ですが、王や政治家によって迫害されました。そのように神さまはいろいろな預言者を人々の所に送られましたが、彼らが耳を傾けなかったのです。
 それでぶどう園の主人は、自分の愛する息子を送ることにしました。「この子ならたぶん敬ってくれるだろう」と。
 ここまで読んで、「おかしいな?」と思われたことでしょう。この主人は、自分の僕を3回農夫たちの所に送ったのですが、いずれも袋だたきにして追い返したのです。1回送って袋だたきにされて帰ってきたら、ふつうならそれだけで怒って、戻ってきて農夫たちを捕らえ、警察に引き渡すことでしょう。とても凶暴な農夫たちです。ところがこの主人は、3回も僕を農夫たちの所に送ったのです。これだけで、なんとお人好しの主人だろうと思います。
 そしてさらに、自分の息子ならば敬ってくれるだろうと言って、愛する息子を送ったのです。これは、実際にはあり得ないような話でしょう。そんなメチャクチャな農夫たちの所に、愛する息子を送って、何かあったらどうするのか、と考えるのが普通です。ところがこの主人は、自分の息子なら敬ってくれるだろうと言って送る。‥‥これはもう、お人好しも度を超しています。
 しかしまさにそこに、神さまがどういう方なのか、ということを表しています。もうおわかりのように、この主人の「愛する息子」というのはイエスさまのことです。神さまがそういう思いでイエスさまを送られたことが分かります。「この子ならたぶん敬ってくれるだろう」と。ところが、農夫たちは、あろう事か、その息子を殺したのです。さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか、と。「戻ってきて、この農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人たちに与えるに違いない」とおっしゃいます。

農夫たちの勘違い

 主人だけではなく、この悪い農夫たちにもとてもおかしな考え方があります。それは14節で言っていることです。‥‥「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる。」
 いかにもおかしい考え方です。主人の息子を殺したら、財産は自分たちのものになるのでしょうか? そんなことはあり得ないことです。どこの世界に、主人の子を殺したら、主人の財産は殺した人のものになる、などということがあるでしょうか。ものすごく身勝手な勘違いです。
 9節をご覧いただきますと、「これを農夫たちに貸して長い旅に出た」とあります。農夫たちに「貸した」のです。つまり、ぶどう園は主人のものです。すなわち神さまのものです。その神さまのものを、自分たちのものであるかのように考えているところに大きな間違いがあります。

私たちも勘違い

 しかしこれは、この農夫たちだけの問題ではありません。神さまのものを自分のものであるかのように考えるという点は、私たちも同じように考えてしまうと言えます。
 たとえば、私たちの命は、私たちのものなのでしょうか? それはもともと神さまのものです。私たちの体は、私たちのものなのでしょうか? あるいはこの世界はだれのものなのでしょうか?‥‥「世界とそこに満ちているものはすべてわたしのものだ」(詩編50:12)と主はおっしゃっています。神さまのものです。しかしそれをあたかも自分のものであるかのようにしているのではないでしょうか。この世界は神さまのものであるのに、人間のものであるかのように。この私という人間も、神さまのものであるのにもかかわらず、自分のものであるかのように、自分が好き勝手にどのようにしても良い物であるかのように、です。神さまの言葉、キリストの言葉を無視し、また迫害する。
 この一週間、わたしたち自身が、神さまの言葉をどれだけ重んじ、どれだけ御心に従って来たのかと問われれば、返す言葉もありません。

十字架の救い

 ぶどう園の主人は、この農夫たちをどうするだろうか。イエスさまは、「戻ってきて、この農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人たちに与えるに違いない」とおっしゃいました。では我々は殺されたのでしょうか?‥‥そうではありませんでした。まさにこのたとえ話の農夫のように、神を愚弄し、御心に従わなかったのですから、殺されても仕方がないものだと言えます。
 しかし私たちが殺されたのではありません。十字架で殺されたイエスさまは、ご自分を殺した者の罪、ご自分を十字架に追いやった者の罪を担ってくださったのです。本当ならば、このたとえ話のように殺されるべき農夫たちでしたが、その罪を十字架で担ってくださった。滅ぼされるべき私の代わりに、イエスさまがその罪を引き受けてくださった。ここに悔い改めるチャンスが私たちに与えられています。

捨て石が親石に

 このたとえ話に続いて、イエスさまは、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」という詩編118:22のみ言葉を引用なさいました。この詩編のみことばは、予言であるということです。
 エルサレムに行きますと、エルサレム・ストーンと呼ばれる白い石灰岩を積んで建てた家が並んでいます。家を建てる人が捨てた石が、隅の親石となったとありますが、隅の親石というのは、アーチ構造のそのアーチの一番真ん中の石のことだそうです。その石が崩れると、アーチ全体が崩壊してつぶれてしまう。そういう要の石のことだそうです。つまりここでは、家を作る人が、役に立たないと思って捨てた石が、家の一番肝心な所に用いられることとなったということになります。
 この「石」は、イエスさまのことを表しています。ぶどう園の農夫のたとえ話ではイエスさまは主人の愛する息子にたとえられていましたが、ここでは石にたとえられています。人々が捨てた石が、肝心要の石として用いられた。用いたのは神さまです。人間が捨てた石を、神さまが家の一番肝心な石として用いられた。18節で「その石の上に落ちる者は誰でも打ち砕かれ、その石が誰かの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう」と言われています。それは、神さまの裁きを思い起こすものです。まさに、本当はイエスさまは人を押しつぶしてしまう、私たちを裁き、地獄に落とすこともおできになる権威のある方に違いありません。
 しかしそのお方が、私たちの罪深い罪を背負って十字架にかかってくださいました。そして救ってくださる。この愛が私たちにも与えられている、その驚きを忘れないようにしたいと思います。


(2014年8月3日)



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