礼拝説教 2014年7月27日

「まことの権威」
 聖書 ルカによる福音書20章1〜8 (旧約 イザヤ書9:5)


1 ある日、イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に近づいて来て、
2 言った。「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか。」
3 イエスはお答えになった。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。
4 ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。」
5 彼らは相談した。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。
6 『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。」
7 そこで彼らは、「どこからか、分からない」と答えた。
8 すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」




福音

 イエスさまがエルサレムの町に入られ、十字架の一週間が始まりました。本日の個所は、の神殿の境内でのできごとです。そこでイエスさまが「福音」を告げ知らせておられると、と書かれています。「福音」という言葉は、聖書で出てくる言葉ですが、新約聖書の原語であるギリシャ語では「ユーアンゲリオン」という言葉です。そしてその意味は、「うれしい知らせ」とか「良いおとずれ」「吉報」という意味です。英語では Gospel です。ゴスペル音楽のゴスペルです。英語の辞書を調べてみますと、Gospel は古典英語では godspel で、それは good に spell がくっついた言葉であり、すなわち「良い知らせ」という意味であると書かれています。
 福音とは良い知らせという意味です。そしてイエスさまが人々に、良い知らせを宣べ伝えておられた。いうまでもないかもしれませんが、改めて考えて見ると、すばらしいことであると思います。イエスさまは、なにか難しい思想を教えられたのではありません。勉強しないと理解できないようなことを教えられたのでもありません。人を苦しめるような、あるいは失望させるようなことを教えられたのでもありません。イエスさまは良い知らせを告げ知らせられたのです。
 キリスト教放送のFEBCの7月号の機関紙を読んでおりましたら、ある匿名の中学生の男の子の投書が掲載されていました。ご紹介いたします。
 「私が中学二年生になってクラス替えがありました。一年生の時とはまるで違うメンバーにとても戸惑いました。不良生徒がとても多いクラスで学習に身が入らず、週に1日は欠席するようになってしまいました。そんな、まさに「絶望の果て」の時に出会ったのが「FEBC」と「キリスト教」でした。私はラジオがとても好きで、色々な放送局のサイトを見ていました。その中で貴局のサイトを見つけたのです。宗教には興味関心がなかった私ですが、聴いてみる事にしました。すると、讃美歌や「今日の聖書」を聴いているうちに、少しずつ心が軽くなってきたような気がしたのです。それだけではありません。月5日だった欠席日数が、ついには1日にまで減少したのです。さらに、32キロまで減っていた体重が、41キロまで増えました。これらの事は、全てイエス様が与えて下さった恩恵だと思います。今はとても楽しい学校生活を送っています。ありがとうございました。」
 読んでいて私もうれしくなりました。彼はラジオを通して初めて聖書とキリスト教に触れたのです。そしてそれは彼にとって、とても良い知らせだったのです。彼のように、学校を休みがちになり、体重も減るほどに追い詰められ、絶望している者にとって、それは良い知らせであった。本当にイエスさまの福音というのは、良い知らせだったんだなあ、とあらためて思いました。
 私たちが毎日暮らしておりますと、私たちの身の回りでも、あまり良いニュースというのは少ないのではないでしょうか。しかし聖書が良い知らせである。イエスさまが福音、良い知らせそのものである。これは本当にすばらしいことであると思います。絶望している者にとって良い知らせであるならば、それは本当に良い知らせであるに違いありません。

うれしくなかった人々

 ところがきょうは、その福音が良い知らせではなかった人々が登場します。それが祭司長と律法学者と長老たちでした。特に祭司長たちは、この前のエルサレムの神殿で商売をしていた人々をイエスさまが追い出しなさった、いわゆる宮清めの出来事によって、利益も面目も失った人々です。イエスさまに対して、怒り心頭だったに違いありません。
 彼らはイエスさまに問いました。「何の権威でこのようなことをしているのか」と。「このようなこと」とは、宮清めと、今神殿の境内でこのように群衆に教えていることを指しています。「権威」という言葉のギリシャ語は、権限、権利、支配力というような意味があります。
 彼らはイエスさまに、権威、権限を問いました。その言葉の裏には、自分たちに権威があるのだということを言いたいのです。祭司長は、旧約聖書の律法に基づいて神殿の管理を託されているという権威。律法学者は、しかるべき教育を受けて聖書の律法を解釈し、人々に教える権威。そして長老は、おもに議会の議員を指すと思われますが、そのように民の指導者としての権威です。彼らからすれば、ではイエスには何の権威があるのか?何も無いじゃないか?‥‥と言いたいのでしょう。実際イエスさまは、人々が慕っているけれども、さすらいの一般庶民でしかありません。何の資格を人から与えられたわけでもないし、人から権限を与えられたわけでもない。
 たとえば、交通取り締まりのおまわりさんは、交通違反者を取り締まる権限を国から与えられています。だから違反者を取り締まることができる。これをおまわりさんでもない人が勝手に取りしまりをしたら、それはけんかになるでしょう。そのように権限がない人が、宮清めをして神殿から商人を追い出したり、律法学者を差し置いて人々を教えている。怪しからんというわけです。

誰が権威を与えたか

 彼らは「何の権威でこのようなことをしているのか」に続いて、「その権威を与えたのは誰か」と問いました。祭司長たちは、神殿で神さまに奉仕する祭司たちの中から、しかるべき手続きによって選ばれました。律法学者は、しかるべき教育を受けた人々です。長老たちは、社会的地位と財力があり、これもまたしかるべき手続きによって選ばれた人たちです。
 「では、イエスは?」誰からも与えられていないじゃないか‥‥彼らはそう言いたいのでしょう。こうして彼らは、イエスさまのお話を聞いている民衆に対して、イエスさまの権威を失墜させようとしたものと思われます。

イエスの問い

 そうするとイエスさまがおっしゃいました。それが3〜4節です。「ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも人からのものだったか」。まずそれに答えなさいと。彼らは自他共に認める権威ある者なわけですから、それに答えられないはずがないと、皆が思ったことでしょう。
 ところがこの問いに彼らは窮するのです。彼らは相談を始めます。相談して決めることでもないと思うのですが、相談を始める。なぜ相談したかというと、そこに書かれているとおりです。‥‥「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから。」
 これは、「本当はどうか」という相談ではありません。どう答えたら自分たちの面目が保たれるか、あるいは群衆から石で打たれずにすむかということの相談です。本当のことは彼らにとってどうでも良いことが分かります。自分たちを守るためにどう答えたら良いか、と。その結果、彼らは「分からない」と答えました。祭司長も律法学者も宗教家であるのにもかかわらず、「分からない」と答えざるをえなかった。するとイエスさまは、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、私も言うまい」とお答えになりました。
 ここに至って、権威あるはずの人々である祭司長、律法学者、長老たちが、実は何の権威もなく、逆にイエスさまにただならぬ権威のあることが何となく見えてきます。

イエスの権威

 権威。本当の権威とは何でしょうか。
 週報にも記しましたように、先週金曜日、一人の姉妹の緊急洗礼を執行いたしました。私は、実は、これまで病床洗礼をしたことはありますが、緊急洗礼を執行したのは初めてです。病床洗礼と緊急洗礼の違いは、病床洗礼は、病のために教会に来ることができないが、信仰告白をすることができる人に、こちらから病床に出向いて洗礼式を執行するものです。
 それに対して、緊急洗礼も病床洗礼と同じく、こちらから病床に出向いて執行するものではありますが、本人の命も危ぶまれるような状態で、しかも意識がはっきりせず、信仰告白をすることができない状態の方に対して、ご家族の願いと、これまでの本人の歩みなどから判断しておこなうものです。すなわち、本人の信仰告白を伴わない洗礼です。ですから未陪餐会員となるのですが。
 私はこの場面に直面して、あらためて洗礼とは何か、ということを考えました。そして、当然のことなのですが、洗礼とは救いを宣言することであることを再確認しました。あなたの罪は赦されました、あなたは神の子とされました、と宣言することであると。もちろんこれは、緊急洗礼であろうと、通常の洗礼であろうと同じことです。しかし私は、この場面において、あらためてそのことをはっきりさせられたのです。
 あなたの罪が赦され、あなたは神の子であり、神の国の住人である。そんなことを宣言する権限が、いったいどうして私にあるのか。それは、イエスさまが教会に対して与えた権限だからです。
 ではどうしてイエスさまが、そのような権限、権威を教会に与えることができるのか。それは、イエスさまが十字架にかかられたからです。神の御子イエスさまが十字架にかかり、ご自分の命を犠牲にして、私たちの罪をあがなってくださった。そして十字架で死なれたイエスさまを、神が復活させなさいました。そして、その権威が本当の権威であることを明らかになさいました。
 すなわち、本当の権威とは、神さまの権威です。この世の権威は失せます。消えてなくなります。しかし神さまの権威は永遠に続きます。その権威が、イエスさまの権威であり十字架の権威です。私たちを救うために、ご自分の命を十字架で捨ててくださった。だから、洗礼によって、「あなたの罪は赦されました」、「あなたは神の子とされました」、「あなたは救われました」と宣言することができるのです。
 イエスさまの権威は、ご自分の命をかけた十字架の権威です。それゆえそれは、愛の権威とも言うべきものです。救われる何の資格もないこの私を、イエスさまが十字架にかかって命を投げ打って、救ってくださった。それゆえ、主イエス・キリストご自身が福音、すなわち良い知らせとなります。この感謝とともに歩みたいと思います。


(2014年7月27日)



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