礼拝説教 2014年7月13日

「祈りの家の回復」
 聖書 ルカによる福音書19章45〜48 (旧約 列王記下23:4)


45 それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、
46 彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』/ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」
47 毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、
48 どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。




    教会出席レポートより

 ことしも6月に、Y学院高校の一年生に教会出席レポートの宿題を出し、当教会にも多くの方が礼拝に出席されました。そのほとんどの子が、教会はへ行ったのは生まれて初めてという子でした。その中から、いくつか感想をご紹介したいと思います。
 ある生徒はこう書いてくれました。「礼拝の時に隣に座っていたおばあちゃんが、自分があたふたしている時にこっそり教えてくれて、まわりの人にあまり遅れを取らずに礼拝に参加することができました。とても感謝しています。」「優しくしてくれたおばあちゃんに、もう一度ちゃんとお礼を言いたいです。」‥‥教会の礼拝が初めてという方にとっては、讃美歌を開く、聖書を開く、あるいは信仰告白はどれを見たら良いのかなど、戸惑うことばかりです。 しかし隣に座っていた方が、親切に教えてくれるということは、私たちが考える以上にうれしいことのようで、他にもそういう感想はたくさんありました。
 また、他の生徒は、生まれて初めて出席した教会の礼拝が、ペンテコステ礼拝の日で、その時おこなわれた洗礼式にびっくりしたと書き、続けて「まず受洗者が何か分がらなかったが、たぶん抽選で選ばれて洗礼されたら教会の仲間になれるのかなと思った」と書いていました。私はその子のレポートに、「抽選ではなく、本人の申し込みに寄ります」と赤ペンで書いておきました。
 そのほか多かった感想は、讃美歌についてです。学校の礼拝と違って、みな大きな声で歌っていて感動したというようなものです。また、真剣に神を信じて礼拝している人がこんなにいる、という驚きを書いた人もたくさんいました。
 たしかに、初めて教会の礼拝にでられた人は、日曜日の朝、こんなにも真剣に神を信じ、あるいは神を求めて教会に集っている人々がいるというのは信じがたいことのように思われるかもしれません。かくいう私も、教会を離れていた時は、前の日の土曜日遅くまで大酒を飲み、日曜日の午前中は昼まで寝ておりました。教会の礼拝に行くなどということは、何か遠い別世界のことのように思われたものです。
 しかし、このように集まって讃美歌を歌い、聖書のみことばに耳を傾け、本当に神さまを礼拝している。そのこと自体が証しとなり、伝道になっているということを思うのです。

    実力行使

 ロバの子に乗り、弟子だちと群衆が歓喜の叫びを上げる中、エルサレムに臨む災いを思って涙を流しながら入城されたイエスさま。今日の個所は、イエスさまが神殿に入られた時のことが書かれています。
 エルサレムの神殿。それはイスラエル民族が神を礼拝する場所でした。それがイスラエル人にとってどんなに大切な場所であるかということは、今もエルサレムの神殿の跡地の壁、「嘆きの壁」と言われる場所で、ユダヤ人が神殿の再建を祈って集まっていることからも分かります。最初に神殿を建てたのはソロモン王でした。それは、バビロン捕囚によって破壊されましたが、補囚から帰ってきた人々によってゼルバベルの神殿と呼ばれる第2神殿が再建されました。そしてその神殿もまたローマ軍によって破壊され、イエスさまの時にはヘロデ大王が建設したヘロデの神殿と呼ばれる神殿が建っていました。それは大理石作りの、巨大で壮麗な神殿であったといわれます。
 まさにそれはイスラエル民族の信仰の中心であるばかりではなく、民族のシンボルでありました。イエスさまはそこに入って行かれました。
 そしてそこで商売をしていた人々を追い出されたというのです。このルカによる福音書では「追い出し始めて」と書かれていますが、同じ出来事を記録しているマルコによる福音書による福音書の報ではこのように書かれています。(マルコ11:15)「イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された]。
 腰掛けをひっくり返されたというのですから、これは実力行使をしたということになります。イエスさまが力づくで追い出し始められたというのですから驚きです。そんなイエスさまをこれまで見たことがありません。このことについて「イエスさまらしくない」と言った人がいますが、なるほどそんな感じもいたします。

    なぜ?

 いったいなぜイエスさまは、有無を言わせないで実力行使をし、商売をしていた人々を追い出されたのでしょうか。まず神殿の境内で商売をしていたとはどういう商売をしていたのでしょうか?
 私か子どもの時、近くの神社でお祭りがあるというと楽しみでした。何か楽しみかと言えば、綿菓子やら焼きトウモロコシを売っていて、金魚すくいやらの屋台が出ていたからです。今はありませんが昔は色のついたヒヨコをよく売っていたもので、私は時々それを買ったものです。お祭りと言えば本当は神事であって、神さまを礼拝する行事であるのですが、私はお祭りと言えばそういう夜店のことであると思っていたほどです。
 エルサレムの神殿の境内で金魚すくいの屋台があったかどうかは知りませんが、先ほど参考にしたマルコによる福音書による福音書のほうでは、両替人や鳩を売る人が出てきます。これはいったい何かというと、両替人というのは、神殿で神さまの献金する時は、普通のお金ではダメだったのです。「聖所のシェケル」という神殿の中だけで通用するお金に両替しなければならなかったのです。そして両替人は、その差額でもうけていました。
 また、鳩を売る者というのは、神殿の祭壇に焼いてささげる鳩を売る人のことです。神さまを礼拝する時は、牛や羊の動物のいけにえを祭壇にささけて礼拝しました。しかし貧しい人は鳩をささげました。もちろん、自分で鳩を持参しても良かったのですが。神殿にはささげる動物の検査官がいて、自分で鳩を持ち込むと、これは傷がある鳩だからダメだとかいろいろ言われて、結局神殿で売っている鳩を飼う羽目になったのだそうです。そしてそこで売っている鳩は、神殿の外で売っている鳩よりも法外に高かったそうです。そうして、否応なしに鳩を買わされた。そうしても受けていた人が鳩を売る者です。
 そして、両替人や鳩を売る者からリベートを取っていたのが、神殿を管理する祭司長たちです。神さまを礼拝するために来た人だちから不当な利益を得ていたのです。
 もっともきょう読んだルカによる福音書のほうでは、両替人とも鳩を売る者とも書いていませんから、それ以外の商売をしていた人々も含んでいるのでしょう。そして、祭司長たちはそれらのところから利益を得ていたのでしょう。そうすると、イエスさまは、そういう不当なことがおこなわれていたから、実力行使をなさったのでしょうか? 不正がおこなわれている、弱い立場の人が不当な扱いを受けているから、実力行使をなさったのでしょうか?
 そのように言うことはできません。なぜなら、今までもイエスさまはこの世の中に多くの不正がなされ、また弱い立場の人が虐げられているのをご覧になってきたけれども、このように実力行使をなさったことはなかったからです。たとえば、少し前に徴税人ザアカイの出来事がありましたが、ザアカイは徴税人として不当に利益をあげてきたし、だまし取ってきたものさえありました。にもかかわらず、イエスさまはザアカイを叱責したり、退けたりなさったのではなく、かえってザアカイの家の客となられました。
 イエスさまは不正に対して怒られて腕力をふるわれたのではありません。ではいったいなぜ、イエスさまは今日、このような実力行使をなさったのでしょうか?
 それはやはり、ここが神殿であったから、と言う他はありません。

    祈りの家

 46節をもう一度ご覧ください。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。] こう書いてある、というのは旧約聖書のイザヤ書56:7に書かれています。
 神殿とは何か。ここで「祈りの家」と呼ばれています。神さまを礼拝するために人々が来る。それは言い換えれば、祈るために人々が来るということです。たとえばサムエル記上1章を読むと、サムエルが生まれる前、母のハンナは自分に子どもが生まれないため、子どもを授けてくださるよう、神殿で涙を流して神さまにお祈りいたしました。それは彼女にとって切なる願いであり祈りでした。神殿とはそういう場所です。
 ではなぜ神殿に来るのでしょうか?‥‥それは神さまがそこにおられると信じているからです。もちろん、神さまは神殿にだけおられるのではありません。 しかし神さまは、神殿でささげる祈りに耳を傾けてくださることを約束なさいました。それゆえ神殿は、祈りの家と呼ばれるのです。
 人が神に祈る、神を礼拝する‥‥これは誰にも犯されてはならないもっとも尊い行為であるということです。
 神殿の境内は、人々が礼拝する場所でした。境内の奥の方に立つ聖所に向かって祈り、礼拝する場所が境内です。その境内で、物の売り買いをし、また神殿を守るべき祭司長たちがそこから利益を上げていた。それはまさに、真剣に神様のところに来た人たちを商売の手段としていることでした。
 イエスさまの実力行使には、この祈る、礼拝するという人間にとってもっとも尊い行為は、決して邪魔をされてはならないのだということを強く表していると言えます。

    命をかけて神への道を

 この実力行使の事件は、大きな反応を引き起こすことになります。 47節です。祭司長、律法学者、民の指導者たちが、イエスさまを殺そうと謀ったと書かれています。
 これまでは、おもにファリサイ派と律法学者たちがイエスさまを殺そうとしていました。しかしここには、祭司長と民の指導者これはユダヤ議会の議員たちのことをおもに指す)までもがイエスさまの命を狙うことになったのです。
 すなわちこれは言い換えれば、イエスさまはご自分の命をかけて、今日のことをなさったと言うことができます。つまりそれは、神さまを礼拝するということです。イエスさまは、人々が、そして私たちが、本当に神さまにお会いして礼拝できるために、神さまの前で祈りをささげることができるようにするために、命をかけてくださったのです。
 そしてこれはそのまま十字架の意味を表していることになります。この結果、イエスさまは十字架に掛けられることになりました。そしてその十字架の死によって、私たちの罪が赦され、私たちが本当に神さまのところに行くことができるようになりました。まさにイエスさまは、ご自分の命をかけて、私たちが神さまに祈り、また礼拝し、そして神の国に行くことができるようにしてくださいました。今日の出来事は、そのイエスさまの愛を見ることができます。
 今私たちは、その礼拝をしています。イエスさまが命をかけて守ってくださった礼拝 です。命をかけて、神にお目にかかる道を切り開いてくださった礼拝です。その礼拝に 私たちは連なっています。このことをイエスさまが、どんなに喜んで、尊いものと見な してくださっているかということを思わずにおれません。


(2014年7月13日)



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