礼拝説教 2014年7月6日

「イエスの涙」
 聖書 ルカによる福音書19章41〜44 (旧約 詩編122:1〜5)


41 エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、
42 言われた。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。
43 やがて時が来て、敵が周りに堡塁を築き、お前を取り巻いて四方から攻め寄せ、
44 お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。」




イエスの涙

 本日は、イエスさまが涙を流されたということが書かれています。たいへん印象的です。いったいイエスさまはなぜ涙を流されたのでしょうか? 
 泣くといってもいろいろあります。悲しくて泣くこともありますし、うれし泣きというものもあります。悔しくて泣くということもあります。感動して泣くということもあります。先週のニュースで、兵庫県のある県会議員が記者会見の席で、泣き叫んだことが世界中で話題となっているようです。あの方の場合は、なぜ泣いたのでしょうか。様々な憶測を呼んでいるようです。
 いずれにしろ、どうしてイエスさまは泣かれたのでしょうか。非常に気になるところです。

オリーブ山から下る

 この出来事は前回の続きの所です。イエスさまが歩み続けた旅の目的地であるエルサレムの都が近づきました。イエスさまは、ロバの子に乗って、おおぜいの弟子たちが歓喜の叫びを上げる中を進んで行かれました。
 エルサレムの町は、町の周囲が城壁で囲まれています。町全体が城になっています。そしてエルサレムの町の東側にキドロンの谷を挟んで、オリーブ山があります。山と言っても、小高い丘と言った方がよいかもしれません。オリーブ山は、今日では観光スポットとなっています。オリーブ山に上ると、エルサレムの旧市街地が一望できます。
 そしてそこから坂道を下っていくと、エルサレムの町が目の前にどんどん迫ってまいります。そしてひときわ巨大な建造物である、神殿が迫って見えてきたことでしょう。そしてその坂道は、エルサレムの城壁の門に続いています。イエスさまはその坂道の途中で、泣かれました。そして、以前この礼拝でプロジェクターで写真を写しましたように、現在この場所には、「主、涙したもう教会」という名の教会が建っています。
 前回の所に書かれているように、おおぜいの弟子たち、そして群衆が、イエスさまを救い主として信じ、新しい王となられる期待と興奮の入り混ざった歓喜の叫びを上げる中、イエスさまは涙を流されたのです。しかもこの涙は、うれし涙ではありませんでした。それは42節を読むと分かります。イエスさまがエルサレムの町に向かっておっしゃったのです。「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら‥‥」そして、エルサレムの町が、責められて崩壊してしまうことを予言なさったのです。
 平和への道をわきまえていなかったので、エルサレムの町は滅びることとなる。そのことをイエスさまはあらかじめご存じであり、それゆえに涙を流されたということが分かります。すなわちこれは、悲し涙のようにも見えますが、どうなのでしょう。

エルサレム

 エルサレムの都。この町は、長い間イスラエル・ユダ王国の都でした。歴史をさかのぼれば、あのダビデ王の時にここが都となりました。神の契約の箱がこの町に運び込まれました。そしてダビデの子のソロモン王の時に、この町に神殿が建てられました。やがてユダ王国が、バビロニア帝国によって滅ぼされ、神殿も破壊されましたが、そのバビロン捕囚が終わって、エルサレムの町は再建され、神殿も再建されました。そういうわけで、エルサレムの町は神によって選ばれた都だと信じられてきました。
 今日でもエルサレムは、3つの宗教の聖地とされています。ユダヤ教、イスラム教、そしてキリスト教です。実際、エルサレムの町は不思議な町です。何か魅力があるんですね。私は、老後はここに住みたいと思ったほどです。
 しかしこの町はまた、戦乱が繰り返されてきた町でした。わたしがエルサレムに行った時には、ガイドさんが、「エルサレムは、だいたい地面の下10メートル掘るごとに千年前の地面となる」と言いました。ですから、今から二千年前のイエスさまの時代の地面は、だいたい20メートル下にあるということになります。なぜそんなことになるかというと、町が破壊されては、その上に新しい町を建てるといった具合で、そうなったのだということでした。
 先週も、イスラエル人の若者やアラブ人の少年が殺された事件をきっかけに、アラブ人とイスラエルの治安部隊が衝突したというニュースが報道されていました。果てしない抗争がこの地域では繰り返されているのです。まさにイエスさまがおっしゃったとおり、平和とはほど遠い状態が長い間続いています。

平和への道

 イエスさまは、エルサレムに向かって「もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら」とおっしゃいました。
 平和が嫌いだという人はおそらくいないでしょう。多くの人々は平和を望んでいるはずです。であるのにもかかわらず、なぜ平和が訪れないのでしょうか。実際に、このあとまもなくしてエルサレムはこのイエスさまの言葉通りになってしまいます。この時からおよそ三十数年後の西暦67年、ユダヤ人はローマ帝国に対して反乱を起こします。ユダヤ戦争と呼ばれる戦争となります。この戦争は、ローマ軍の勝利に終わり、60万人のユダヤ人が死んだと言われています。エルサレムの神殿は火を放たれて炎上しました。
 さらにそれから50年後、132年に偽メシアであるバル・コクバの乱が起こります。これは、ローマ皇帝が、エルサレムの神殿の跡地にローマ人の神の神殿を作ろうとしたことにユダヤ人が反発したことがきっかけとなったものです。しかしこの反乱もローマ軍の勝利に終わり、多くのユダヤ人が死にました。そしてローマ軍は、エルサレムを再建させないために、町を土台まで掘り起こして破壊したそうです。
 こうしてエルサレムの町は、この時のイエスさまの予言通り、滅ぼされて、崩されてしまったのです。そして現代もまた、騒乱の中に置かれています。これはいったいどうしてか。そのことについてイエスさまは、44節で「それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである」とおっしゃっています。

時をわきまえない

 神の訪れる時をわきまえない‥‥これはいったいどういうことでしょうか?
 それはまさに今、ロバの子に乗ってエルサレムの城門を入ろうとするイエスさま、エルサレムの町を訪れようとするイエスさまを知らなかったということです。このイエスさまとは、いったいどなたなのかをわきまえていなかった。このイエスさまが、神の御子であり神が送られた方であることを、わきまえていなかった、知らなかったからに他ならないということになります。
 「しかし今、多くの弟子たちと群衆がイエスさまのエルサレム入城を喜んで迎え入れているではないか?」と思う方もおられることでしょう。しかし、弟子たちもこの時、イエスさまのことを誤解していました。イエスさまが文字通り新しいユダヤ人の王として、これから武力を持ってローマ軍と戦うと思っていた者も多くいたようです。ですから、イエスさまが捕らえられた時には、みなイエスさまを見捨てて逃げてしまったのです。自分たちの思い描いたキリストと、実際のイエスさまが違ったからです。
 そうしてイエスさまは、このエルサレムで十字架へ向かわれます。それは、そのような私たち一人一人を救うためです。
 そうすると、イエスさまの涙は何の涙であったかという話に戻りますが、エルサレムの迎える悲劇を知っておられるゆえの、悲しみの涙というよりも、むしろエルサレムを愛するがゆえに、その悔い改めを待つ、愛の涙であると言えるでしょう。
 そしてその涙は、エルサレムについてだけの涙ではありません。同じようになかなかイエスさまを自分の心の中に迎え入れない私たちに対する涙でもあります。私たちが悔い改めて、イエスを信じるように心から願う愛の涙です。愛の涙である証拠が十字架です。十字架で、私たちを救うためにご自分の命を捨ててくださった。このことを前提にした涙です。
 つまりは、この私たちのために涙を流すほどに心配し、命をかけてくださる方がいるということです。母の日に、讃美歌1−510番を歌いました。あの曲が好きな方も多いようです。「母は涙流す間なく、祈ると知らずや」‥‥なかなか神を信じようとしない我が子のために、涙を流しながら祈る母の愛が伝わってきます。そのように、イエスさまは、エルサレムのために、そして私たちのために涙を流して、祈ってくださる。このイエスさまを私たちが心の中に迎え入れた時に、私たちの中にも平和が訪れるということができます。

カカ

 いよいよサッカーのワールドカップも、大詰めを迎えています。ブラジルのサッカー選手に、カカという選手がいることをご存じの方も多いと思います。今回のワールドカップには出場していませんが、2002年、2006年、そして2010年のワールドカップのブラジル代表に選ばれた選手です。
 このカカという選手は、クリスチャンとしても有名だそうです。このたび、カカの証しが書かれた小さな本を読みました。カカは、生後まもなく「トゥレット症候群」という原因不明の神経性心疾患を患ったそうです。そのために、ひんぱんにけいれんが起き、言語障害を抱えていたそうです。それで平安な生活を送ることができなかったそうです。自分の人生はメチャクチャだと感じることが多かったそうです。
 しかし平安を与えてくれる唯一の存在がいました。それがカカのおばあさんだったそうです。おばあちゃんは神を信じるクリスチャンだったそうです。そしておばあちゃんの持っていた、信仰と平安がほしかった。そして神さまは、その通りに与えてくださいましたと、カカは書いています。
 障害を抱えて生活することは簡単なことではなかったそうですが、神さまは優れた身体能力を自分に与えてくださり、病気とその能力の二つを通して大きなことをしてくださったと彼は言っています。神さまは、プロのサッカー選手として活躍させてくださった。そのことを通して、トゥレット症候群に苦しむ方々を励ます機会を与えてくださったと言っています。
 しかしカカは書いています。「たとえ明日、サッカー選手としてのキャリアが取り去られたとしても、私は心の平安を保つことができます。そんなことはあり得ないと思われる方もいると思いますが、この平安こそ、キリストが与えてくださる平安なのです。それは神の愛に根ざした平安であり、人知を超えたものです。」そしてカカは、この平安は求めるだけで与えられる、と書いています。(『サッカーバイブル』いのちのことば社、2014年)
 神さまに求めれば与えられる。イエスさまを心の中に受け入れれば、与えられる。それが神の与えられる平和であり平安です。


(2014年7月6日)



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