礼拝説教 2014年6月29日

「ロバに乗った王」
 聖書 ルカによる福音書19章28〜40 (旧約 ゼカリヤ9:9〜10)


28 イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた。
29 そして、「オリーブ畑」と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいたとき、二人の弟子を使いに出そうとして、
30 言われた。「向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、引いて来なさい。
31 もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」
32 使いに出された者たちが出かけて行くと、言われたとおりであった。
33 ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。
34 二人は、「主がお入り用なのです」と言った。
35 そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。
36 イエスが進んで行かれると、人々は自分の服を道に敷いた。
37 イエスがオリーブ山の下り坂にさしかかられたとき、弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び、声高らかに神を賛美し始めた。
38 「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光。」
39 すると、ファリサイ派のある人々が、群衆の中からイエスに向かって、「先生、お弟子たちを叱ってください」と言った。
40 イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」




ついにエルサレムへ

 28節をもう一度お読みしますと、「イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた」と書かれています。イエスさまは、エリコの町のザアカイの家を出られて、弟子たちと一緒にエルサレムへ上って行かれました。
 「上って」というのは、日本でも首都に行くことを「上京する」などと申しますので、エルサレムは都だから「上って行く」という表現だとも言えます。しかし実際にエリコの町からエルサレムへ行く道は上り坂なんです。エリコの町は世界最古の町と言われますが、世界で最も低い土地にある都市でもあります。エリコの町の海抜は、マイナス250メートルです。一方エルサレムは高地にあって、海抜800メートル。ですから、エリコからエルサレムに行くには約千メートルの高低差があります。これを一日で行くのですから、かなりの上り坂を上っていくことになります。
 そしていよいよエルサレムの都に近づきました。そして今日の箇所では、イエスさまが子ロバに乗ってエルサレムの町に入って行く。その途中の様子までが書かれています。イエスさまがロバにまたがり、おおぜいの弟子たちが歓呼の声をもってエルサレム入城を喜び叫びます。自分たちの服をイエスの行かれる道に敷く。それはまさに、王としての都への入城を彷彿とさせるものです。おおぜいの弟子たちの期待と興奮が高まります。イエスさまがいよいよ王となるために都に入られる‥‥。
 いよいよ革命が起きるか。ローマ帝国の軍隊と衝突して内乱となるか‥‥。覚悟を決めていた弟子たちも多かったのではないでしょうか。ファリサイ派の人々が、イエスさまに向かって、大騒ぎする弟子たちを叱るよう要求しましたが、それはまさにそのようにローマ軍と衝突して戦乱状態になることを危惧したという意味もあったでしょう。

ロバの子

 さてここで注目すべきなのは、イエスさまが乗られたのが「子ロバ」すなわちロバの子であったということです。
 この当時、王が乗る者と言えば馬です。馬はロバよりもはるかに大きく、堂々としています。しかしイエスさまはロバに、しかも子ロバに乗られました。馬は王や貴族が乗り、また軍隊の騎兵隊が乗ります。しかしロバは庶民の乗り物でした。
 さらに、馬に乗るのとロバに乗るのとでは、どんなに違うかということが、私が初めて分かった時がありました。それは、イエスさまの生涯を描いた映画「ジーザス」を見た時のことです。それまでも、ロバの子に乗って群衆の中を進むイエスさまの絵を見たことがありました。その時には全然気がつきませんでした。しかしその映画を見た時に、子ロバに乗って群衆の中を進むイエスさまの姿は、群衆の中に紛れ込んでしまって、よく見えないんですね。つまり、ロバの子にまたがると、まわりに立っている人々と同じ高さにしかならないんです。同じ目線の高さになるんですね。だからよく注意して見ないと、群衆に紛れてしまって、イエスさまがどこにおられるのか分からなくなってしまう。それまでこのことを描いた画家たちの絵は、そこが間違っていたんです。しかし映画は実際にロバの子に、イエスさま役の俳優を乗らせるから、実際に近い姿になります。
 まわりで立って歓迎している群衆と同じ目線の高さの中を進まれるイエスさま。その姿を見た時に、私は非常に心を打たれました。それはまさに王になるためのエルサレム入城であるに違いありません。しかしその「王」とは、この世の王とは違うのだということがはっきり示されました。馬に乗って、上から群衆を見下ろし、君臨する王ではありません。私たち一人一人と同じ所を進まれる王です。私たちとつながってくださる王です。私たちを救う王です。
 このエルサレムでイエスさまは十字架に掛けられることになります。ロバの子に乗ってエルサレムに入られるイエスさまの姿に、その十字架が何であるのかという意味が伝わってくるように思います。
 多くの弟子たちは、イエスさまが王となるためにエルサレムの都に入られると信じている。それは正しい。しかしその王とは、どのような王であるかという点において、弟子たちの考えとイエスさまの考えとは違っていたわけです。

主がお入り用なのです

 それにしても、ふしぎな出来事がありました。それは、そのイエスさまの乗られるロバの子を弟子たちに取りに行かせるという出来事です。イエスさまは、二人の弟子を、向こうの村にお遣わしになり、そこでどういう出来事が起こるかをあらかじめ話して聞かせる。そして弟子たちが実際にその村に行ってみると、果たしてイエスさまのおっしゃったとおりに子ロバがつながれており、それをほどいて連れてこようとすると、ロバの持ち主が「なぜほどくのか?」とききました。そしてイエスさまに言われたとおり、「主がお入り用なのです」と答えると、ロバの子を連れて行くのを許してくれた‥‥。これもイエスさまがおっしゃったとおりでした。
 つまりイエスさまは何もかもご存じであった、お見通しであったことになります。しかしそれにしても、そのロバの所有者は、弟子たちが綱をほどいて連れて行こうとした時、弟子たちがイエスさまに言われたとおり「主がお入り用なのです」と答えたところ、なぜ許してくれたのでしょうか?
 あらかじめこの所有者とイエスさまが打ち合わせていたんだ、などという考え方もあるようですが、それではあんまりです。これはやはり神の言葉の力のなせるわざでしょう。この時、「主がお入り用なのです」と言いなさいと弟子たちにお命じになった。その時必要な神の言葉です。その神の言葉に動かされるようにして、持ち主もOKしたと言えましょう。
 そしてそれは、神さまがこの時、ロバの子を必要とされたと言うことです。それは先ほど読んだ、旧約聖書のゼカリヤ書に予言されていることでもあります。神さまがこのロバの子を必要とされたのです。馬ではなく、この子ロバを。

ちいろば

 イエスさまの乗られたロバのこと言えば、チイロバ先生こと榎本保郎先生を思い出します。榎本先生が書かれた証の本、「ちいろば」です。その『ちいろば』のあとがきで、榎本先生はこのように書いておられます。
 "このろばの子が「向こうの村」につながれていたように、私もまたキリスト教には全く無縁の環境に生まれ育った者であります。私の幼な友だちが、私が牧師になったことを知って、「キリストもえらい損をしたもんじゃのう」と言ったそうですが、その評価の通り、知性の点でも人柄の上からも、およそふさわしくなかった私であります。ですから、同じウマ科の動物でありながら、サラブレッドなどとはおよそけた違いに愚鈍で見ばえのしない「ちいろば」にひとしお共感を覚えるのです。しかし、あの名もないろばの子も、ひとたび「主の用」に召し出されたとき、その背にイエスさまをお乗せする光栄に浴し、おまけに群衆の歓呼に迎えられてエルサレムへ入城することができたのです。私のような者も、キリストの僕とされた日から、身にあまる光栄にひたされ、不思議に導かれて現在に至りました。この喜びをなんとかして多くの同胞におつたえしたい、それがこの『ちいろば』を執筆した動機であります。"

主を証しする器となる

 弟子たちと群衆の歓呼の声を受けてたたえられたのは、イエスさまであって、ロバの子ではありませんでした。しかし子ロバは、イエスさまをお乗せするという光栄にあずかったのです。キリストを運ぶ器として、用いられたのです。そこにキリスト者の喜びがあると言えます。
 私たち主を信じる者の喜びは、自分がほめたたえられることではありません。私が信じる主イエスさまがほめたたえられることを喜ぶ喜びです。私もかつては、自分が高められること、自分が誉れを受けることを目的として考えていました。しかしイエスさまを知ってからは、自分がほめたたえられることを求めるのではなく、イエスさまが、そして神さまがほめたたえられることを喜びとすることを知りました。そうすると、自分が誉れを受ける、あるいは出世を求めるような自分自身の中の圧力から解放されました。
 自分が高くされなくても良い。自分が賞賛される必要はない。自分が認められなくても良い。ただイエスさまがほめたたえられるために、この私たちも用いられるということです。

主がお入り用なのです

 真の王が都に入城されるためには、何の役にも立ちそうもない、馬と比べてまったく見栄えのしない、子ロバをお用いになりました。「主がお入り用なのです」と言わせました。私たちもまた、主のご用のために、何の役にも立ちそうもないものかもしれません。欠けたところだらけの人間です。失敗ばかりしているかもしれません。
 しかし問題はそういうことではありません。「主がお入り用」であるということです。この私たち一人一人をです。私たちには分からなくても、神さまの側には私たちを必要とする理由があるということです。そのことを今日の聖書は教えてくれます。
 私たちを主の弟子としてくださったのは、主イエスさまご自身です。イエスさまは言われました。(ヨハネ15:16)「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」‥‥私たちがイエスさまを選んだと思っておられるかもしれませんが、そうではありません。イエスさまが私たちをお選びになったから、私たちは主を信じることができたのです。
 なぜ、この私のような人間をお選びになったか、私たちのような者をお選びになったのか、それは私たちには理解できないかもしれません。しかし人間の考えを超えた主の愛、主の選びというものがあったのです。私たちは、私たちのような者をも救ってくださるイエスさまを証しする器として、イエスさまをお乗せするロバの子として用いられるのです。
 先週は、川崎市の三田教会で特別伝道礼拝に奉仕しました。礼拝後は、講演もいたしました。そして帰る時に、一人の年輩のご婦人が近づいて来ておっしゃいました。「私は、年をとってしまって、もう何の奉仕もできないと思っていましたが、祈るという奉仕があることが分かりました」と。私はそれを聞いて、とてもうれしく思いました。あれこれと動き回って教会のために奉仕することはできないかもしれない。しかし、その方は、自分のできる奉仕は祈りという尊い奉仕であることに気がつかれました。その祈りという奉仕のために、主はその方をお入り用なのです。
 「主がお入り用なのです」。主はあなたを必要とされている。感謝です。


(2014年6月29日)



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