礼拝説教 2014年6月15日

「倍増と死蔵」
 聖書 ルカによる福音書19章11〜27 (旧約 民数記14:20)


11 人々がこれらのことに聞き入っているとき、イエスは更に一つのたとえを話された。エルサレムに近づいておられ、それに、人々が神の国はすぐにも現れるものと思っていたからである。
12 イエスは言われた。「ある立派な家柄の人が、王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった。
13 そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。
14 しかし、国民は彼を憎んでいたので、後から使者を送り、『我々はこの人を王にいただきたくない』と言わせた。
15 さて、彼は王の位を受けて帰って来ると、金を渡しておいた僕を呼んで来させ、どれだけ利益を上げたかを知ろうとした。
16 最初の者が進み出て、『御主人様、あなたの一ムナで十ムナもうけました』と言った。
17 主人は言った。『良い僕だ。よくやった。お前はごく小さな事に忠実だったから、十の町の支配権を授けよう。』
18 二番目の者が来て、『御主人様、あなたの一ムナで五ムナ稼ぎました』と言った。
19 主人は、『お前は五つの町を治めよ』と言った。
20 また、ほかの者が来て言った。『御主人様、これがあなたの一ムナです。布に包んでしまっておきました。
21 あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。』
22 主人は言った。『悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう。わたしが預けなかったものも取り立て、蒔かなかったものも刈り取る厳しい人間だと知っていたのか。
23 ではなぜ、わたしの金を銀行に預けなかったのか。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きでそれを受け取れたのに。』
24 そして、そばに立っていた人々に言った。『その一ムナをこの男から取り上げて、十ムナ持っている者に与えよ。』
25 僕たちが、『御主人様、あの人は既に十ムナ持っています』と言うと、
26 主人は言った。『言っておくが、だれでも持っている人は、更に与えられるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられる。
27 ところで、わたしが王になるのを望まなかったあの敵どもを、ここに引き出して、わたしの目の前で打ち殺せ。』」




ワールドカップ・サッカー

 横須賀学院高校の1年生に出した、教会出席レポートの課題を書くために、先週の礼拝にもおおぜい見えました。例年は、締め切り間際の日曜日の礼拝に一番多くの生徒さんが見えるのですが、今年は締め切りよりも1週間早い先週の礼拝に多く見えました。しかも先週の礼拝はペンテコステ礼拝でしたので、あらかじめ授業の中で、「ペンテコステ礼拝は洗礼式も聖餐式もあるから長いよ」と言っておいたのに多かったのです。なぜだろう?早めに礼拝に来る、まじめな生徒が今年は多いのかな?と思ったのですが(実際その通りだとは思いますが)、もしかして今日の礼拝はサッカーのワールドカップの、日本戦の中継が、ちょうどこの礼拝の時刻と重なるからではないかと気がつきました。それで先週の授業で、「もしかして、ワールドカップの日本戦を見たいからだったの?」と生徒たちに尋ねたところ、ニコニコしていました。
 生徒の一人が、「先生は見ないんですか?」と尋ねたので、「教会の礼拝はワールドカップがあってもなくても、いつもの通りの時間にあります」と答えておきました。

ムナのたとえ

 さて、きょうの聖書は、イエスさまのたとえ話が語られています。「倍増と死蔵」という説教題をつけましたが、これは私の恩師である清水恵三先生がこの箇所の説教題につけて印象に残っていたものです。先週のザアカイの家で話されたものと思われます。イエスさまのたとえ話というのは、神さまのことを地上のあるものにたとえて話されます。
 今日のたとえ話は、「ある立派な家柄の人が王の位を受けて帰るために、遠い国へ旅立つことになった」という言葉で始まります。なにか全体を読むと、何をたとえとして話しておられるのか分からなくなりそうですが、当時ここで聞いているユダヤ人たちには、すぐに何の出来事を下敷きにして話しておられるのかが分かったことでしょう。というのは、ある家柄の人が王の位を受けるために遠い国に旅立ったという出来事が実際にあったからです。
 それは、イエスさまがお生まれになったとき、生まれたキリストを殺そうとしたヘロデ大王の息子の一人であるヘロデ・アケラオという人が、ユダヤの王位を授かるためにローマ皇帝の所に出かけて行ったという出来事です。私たちは「王」と言いますと一番偉い人かと思ってしまいますが、当時のユダヤ地方はローマ帝国に占領されていましたので、ローマ皇帝が一番偉いのであって、王というのは、昔の日本で言えば「大名」ぐらいの地位であったと言えるでしょう。そのアケラオが、ユダヤ地方の王となるためにローマ皇帝の所に出かけて行きました。しかし、アケラオが王となることに反対する人々も、ローマ皇帝の所に訴えるために行きました。結果としてどうなったかと言えば、アケラオは王位を受けて帰ってきました。そして、自分が王となることに反対した人たちを処刑したのです。その出来事を人々は思い出したことでしょう。そのようにイエスさまは、人々が知っている身近な出来事を題材にし、それをたとえに用いて神さまのことを話されます。
 イエスさまは、ある立派な家柄の人が、と語られますが、この「立派な」というのは「身分の高い」という言葉になっています。その人が自分のしもべたち10人に、1ムナずつ渡し、自分が帰ってくるまでこれで商売をしなさいと命じたと言います。
 このたとえは、今日の聖書箇所の見出しにも書かれているように、マタイによる福音書の25章にある「タラントンのたとえ」と似ています。一見すると似ていますが、やはり内容的には全く違うたとえ話であると思います。まず金額が大きく違っています。タラントンのたとえでは、3人のしもべにそれぞれ、5タラントン、2タラントン、1タラントンを預けます。1タラントンは、だいたい3千万円ほどになると考えられ、5タラントンともなると1億5千万円にもなります。それに対して、1ムナはだいたい50万円ほどだと思われます。だからムナのほうがはるかに少ない。身近な気がします。
 また、タラントンのたとえのほうでは、3人のしもべに5タラントン、2タラントン、1タラントンと、それぞれ異なる金額を預けていますが、こちらのムナのたとえは、10人のしもべに、みな等しく1ムナを預けています。 そうしますと、これはいったい何をたとえているのかということになるのですが、この等しく預けられている1ムナは、一人一人等しく与えられている神の恵みということになるでしょう。そしてそれは1タラントンの三千万円に比べれば、まことに少なく見えますけれども、それが用いられたときに、大きな実りをもたらすことになります。

たとえ話の結末

 このたとえの結末です。主人が王位を受けて戻ってきました。そして金を預けたしもべたちを呼びました。その最初の者は、1ムナで10ムナを儲けました。10倍に増やしたわけです。すると主人は、「良い僕だ。良くやった」と言って、10の町の支配権を与えました。予想外のご褒美をいただいたわけです。そんなにも大きな結果をもたらすとは、この僕も思わなかったことでしょう。
 次の者は、1ムナで5ムナを儲けました。すると主人は、彼に5つの町の支配権を与えました。これもわずかだと思われた1ムナからすれば、多くの実りをもたらしたと言えるでしょう。
 問題は次のしもべです。1ムナを布に包んでしまっておいたというのです。そして主人から厳しい叱責を受けます。さらにその1ムナを取り上げられて、10ムナ持っている人に与えられてしまう。なぜこの3番目のしもべは1ムナをしまっておいたかが主人に言った言葉に述べられています。「あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです」。‥‥たしかに、もし主人が本当にその通りの方であるならば、それもうなずけます。1ムナを損するかもしれないのです。しかし主人は、その僕に対して、「悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう」とおっしゃいました。

神の恵み

 さて、このムナは何をたとえているかということです。先ほど述べたようにこれは、神の恵みであると思われます。みんなに等しく与えられている神の恵みです。このお話をなさったのはザアカイの家でのことでした。このあとイエスさまは、いよいよ旅の終着点であるエルサレムに入って行かれます。そしてそこで捕らえられて、十字架につけられることになります。そしてそのことをイエスさまご自身は、あらかじめご存じでありました。ですから、その十字架を目前に控えておっしゃっているのです。
 すなわち、みんなに等しく与えられている神の恵みとは、イエスさまが十字架で与えてくださる神の恵みであると言うことができるでしょう。十字架による救い。それは誰かのほうが自分よりも多い恵みだというものではありません。みんな等しく与えられる救いの恵みです。
 それは一見、小さな恵みのように思われる。タラントンの莫大な金額に比べれば、ムナというのはわずかな金額のように最初は見えるのです。そのように、イエスさまの十字架というものはたいへん小さな恵みのように見える。しかし実際はそれが、予想を超える、大きな実りをもたらすというたとえになっています。その人に、信じられないほどの豊かな実りをもたらすのであると。

その言葉のゆえに

 注目すべきことは、3番目の僕に主人が言った言葉です。22節「その言葉のゆえにお前を裁こう」。‥‥この言葉から分かることは、3番目のしもべが主人から叱責を受け、1ムナを取り上げられたのは、しもべが1ムナを使って儲けなかったからではありません。主人は「その言葉のゆえにお前を裁こう」と言っているのです。この僕が言った言葉が原因で裁かれてしまったのです。そこに注目しなければなりません。
 すなわちこの僕は、自分の主人が冷酷で、「預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方である」と信じていたのです。そこが問題です。だから、失うことを恐れて布に包んでしまっていた。
 しかしこのたとえでは、この僕以外に、実際に1ムナを使ってみて損をした人は一人もいません。使った人は必ず儲けたのです。つまりこのことは、神の恵み、十字架のイエスさまの恵みを信じれば、必ず大きな実を結ぶ、予想外の喜ばしい結果をもたらすことを表しています。しかし3番目のしもべは、そのことが信じられなかったのです。
 私たちはどうでしょうか。私たちも神さまを信じています。イエスさまを信じています。しかし、せっかくイエスさまを信じているのに、それを悪く信じてしまったとしたらどうでしょう。たとえば、「神さまはきっと私を不幸にする」と信じるならば、それは信じないほうがよかったのです。神さまはおっしゃることでしょう。「悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう」。
 神さまが冷酷で、預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方であると信じるならば、神さまはその通りになさるでしょう。そんな風に神さまを信じるのならば、それは信仰が間違っています。それならば信じないほうがいいのです。それは神さまと悪魔を取り違えているのです。
 イエスさまは何のために十字架に向かって行かれたのでしょうか。この私を救うためではなかったでしょうか。滅びて当然のこの罪人の私を救うという、すばらしいことのために、ご自分の命を十字架でなげうってくださったのではないでしょうか。それは私たちを不幸にするためでは絶対にありません。私たちを救って、神の祝福を与えるために十字架にかかられたのです。それが神の愛です。私たちはそのことを信じなければなりません。

祝福を信じる

 私は日本の伝道で前から気になっていることがあります。それは、日本のキリスト教の中のいたるところで、「日本の伝道は難しい。日本ではキリスト教は受け入れられないのだ」という言葉を聞いてきたことです。もしそのように言うならば、神さまはその通りになさるでしょう。「悪い僕だ。その言葉のゆえにお前を裁こう」とおっしゃるでしょう。そして本当に、日本の伝道は難しくなってしまったのです。悪く信じたとおりになってしまったのです。
 私は最初の任地である奥能登の小さな教会で、「やがてその教会は人がいなくなってつぶれる」と言われたことがありました。たしかに、人口がどんどん減って行く町で、しかも強力な神社とお寺の強い町で、伝道は非常に難しいように見えました。しかし聖書のどこを読んでも、そういう否定的な言葉はありませんでした。逆に聖書を読めば読むほど、大きな励ましと希望が与えられました。
 そして前にも申し上げましたように、ルカ福音書18章27節のみことばをいただいたのです。「人間にはできないことも、神にはできる」と。それで、「自分にはできないけれども、神さまにはできる」と言うことにしました。すると次第に道が開かれてきました。ぽつぽつと教会に来る人も増えてきました。ですから私は申し上げたいのです。日本のすべての教会が「日本伝道は大きな希望がある。多くの人々がキリストを信じるようになる。人間にはできないことも神にはできる」と口にするようにと。そうすればその通りとなるでしょう。
 イエスさまは、呪いを祝福に帰るために十字架にかかってくださったのです。こんな私でも救ってくださるために十字架にかかってくださったのです。1ムナが10ムナにもなる恵みが、キリストの恵みです。つまり、イエスさまを信じるという小さなことに見えたものが、大きな実りを私たちのうちに、そして隣人にもたらすものとなるのです。


(2014年6月15日)



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