礼拝説教 2014年6月1日

「木に登った人」
 聖書 ルカによる福音書19章1〜10 (旧約 エレミヤ書4:1)


1 イエスはエリコに入り、町を通っておられた。
2 そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。
3 イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。
4 それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。
5 イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」
6 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。
7 これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」
8 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」
9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。
10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」




ザアカイという人

 本日は「ザアカイ」の物語です。ザアカイと言えば、こんにちの教会でも有名人の一人でしょう。私も、子どもの頃の教会学校で見た紙芝居でしょうか。ザアカイが木に登って、イエスさまを見ている絵を思い出すことができます。
 イエスさまがエリコの町に入られました。先週、町の門のところで物乞いをしてた盲人が、イエスさまによって目が見えるようにしていただいたという出来事がありましたが、その元盲人も一緒にイエスさまについて行ったものと思います。そのエリコの町にいたのがザアカイという人です。彼は「徴税人の頭で金持ちであった」と2節に書かれています。
 徴税人というのは、もう何度も出てきましたが、ユダヤを支配しているローマ帝国のために税金を徴収する人です。ですからユダヤ人から見れば、民族の裏切り者ということになります。さらに、税金に自分たちの取り分を上乗せして徴収していました。それがかなり高かったと言われています。ですから、ローマ帝国の権力を背景にして、お金儲けをしているということで、徴税人は同じユダヤ人からたいへん嫌われ、また恨まれていました。また、徴税人は旧約聖書の掟である律法を守ることにはあまり関心がなかったようです。ですから「罪人」と呼ばれていました。そういうことですから、私たちが同じユダヤ人だったとしたら、やはり徴税人のことを嫌うことでしょう。悪口を言いふらすことでしょう。
 さて、そのエリコの町にイエスさまと弟子たちが入ってきました。「この人こそキリストではないか?」と噂されていたイエスさまです。大勢の人がイエスさまを見ようと集まってきたに違いありません。そしてザアカイもイエスさまを見たいと思いました。ところが、3節に書かれているように、「背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった」と書かれています。周りにいた人たちも、「ザアカイさん、どうぞ前のほうに」と言ってくれなかった。町の人たちとの関係が少し見えてくるような気がします。しかしザアカイはあきらめなかった。走って先回りし、いちじく桑の木に登ったというのです。
 いちじく桑という木は、私も直接見たことはないのですが、なんでも葉は桑に似ており、実はいちじくに似ているという木だそうです。その木に登った。子どもの頃は私もよく木登りをした記憶がありますが、大人になってからは、木の枝を切らなければならないようなとき以外は、登ったことはありません。しかしザアカイは登った。おそらく周りの人たちは、イヤな徴税人のザアカイが木に登ったのを見て、馬鹿にし、あざけり笑ったことでしょう。しかしザアカイは木に登りました。
 つまりザアカイは、それほどまでにイエスさまを見たかったんです。なんとしてもイエスさまを見たい。そういう気持ちが伝わってきます。

イエスとザアカイ

 そこにイエスさま一行が通りかかりました。ザアカイは、単なる見物人のはずでした。イエスさまに会ったことがないから、イエスさまがどんな人か見ようとして木に登った。ところがそこに通りかかったイエスさまが、木の上のザアカイを見上げて声をおかけになったのです。「ザアカイ、急いで降りてきなさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」。
 驚きです。初めて見るイエスさまから「ザアカイ」と名前を呼ばれ、声をかけられた。ザアカイはイエスさまを初めて見たのですが、イエスさまはザアカイのことを知っておられたのです。このことから、私たちのこともイエスさまはご存じであるということができます。しかも私たちがイエスさまのことを知るよりも、ずっと前からです。私たちが、初めて神さまに祈るときも、イエスさまは、その私たちのことをずっと前から知ってくださっているということを思います。
 イエスさまはザアカイの名を呼び、「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われました。これは原文を直訳すると「泊まりたい」ではなく、「泊まることになっている」とか「泊まらなければならない」という断定の形になっています。単に「もし良ければ泊めてくれないか」というような意味ではないのです。
 ザアカイはどんなに驚いたことでしょう。「ええっ!まさか!」というふしぎな驚きだったことでしょう。こともあろうに、イエスさまがこの自分の家に?という彼は、急いで木を降りて喜んでイエスさまを迎えたとあります。

なぜザアカイの所に?

 それにしても、イエスさまはなぜザアカイの所に泊まるのでしょうか?‥‥そう思ったのは私たちだけではありませんでした。周りでこれを見ていた人たちは、みな不審に思ったことが書かれています。「あの人は罪深い男の所に行って宿を取った」と。よりによって、あんな徴税人のザアカイの所に?と、みなイエスさまに幻滅したのです。すなわち、エリコの町では、イエスさまの評判まで落ちてしまったのです。町の人はみんながっかりした。しかし、そうまでもしてもイエスさまには、ザアカイの所に泊まる理由があったということです。
 考えてみれば、むかしの私を知っている人が見たら、「小宮山が牧師をしている」と聞いて、幻滅して、かえってキリスト教を信じなくなる人がいるかもしれません。イエスさまはこんな私のような者を弟子にして、イエスさまの評判まで落としたかもしれません。しかしイエスさまは、たとえご自分の評判を落としたとしても、この私たち一人一人の友となられ、私たちを救ってくださったのです。感謝と言うほかありません。

変えられたザアカイ

 ザアカイは、おそらく晩餐の席でのことでしょう、立ち上がってイエスさまに申し上げました。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、誰かからだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」(8節)
 ザアカイは、イエスさまからそうしなさいと言われたわけではありません。誰からいわれたわけでもないのに、そのように決心したんです。イエスさまが来られたことによって、そのイエスさまを受け入れたことによって、彼は変えられたんです。
 するとイエスさまがおっしゃいました。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」
 アブラハムというのは、イスラエル人の先祖です。このザアカイだって同じアブラハムの子孫であると言うことです。どんなに悪い人であっても、同じ人間だと言い換えても良いでしょう。そして「失われたもの」というのは、神さまのもとを離れてしまった人ということです。あの百匹の羊のたとえ話のように。イエスさまは、神さまのもとを離れて行ってしまった人を放っておかれないのです。あの羊飼いが、1ぴきの羊をどこまでも捜していくように、神さまの所を離れて行ってしまった人を、どこまでもさがし、追いかけてこられるお方です。
 神を信じない人は言うかもしれません。「わたしはもともと神を信じてなどいない。だから、『失われたもの』ではない」と。しかしそうでしょうか。私たちはみな、一人残らず、神さまによって造られ、神さまによって命を与えられたはずです。だからもともとは神さまのものです。しかし、その神さまを信じない。やはり「失われたもの」に違いありません。その失われたものを捜して救うためにイエスさまは来られたとおっしゃいます。

ヤクザからの回心

 先週、横浜キリスト教書店の方が『あなたにもある逆転人生』という本を持って来られたので、すぐに買ってしまいました。
 進藤先生は、現在、埼玉県川口市にある教会で牧師をしています。この先生がちょっと変わっているのは、進藤先生はもとヤクザであったということです。18歳にしてヤクザの仲間入りをしたそうです。なぜヤクザの世界に入ったのかと思いますが、さかのぼれば子どもの頃寂しい生活をしていたそうです。お父さんは働いて収入はあったのですが、「飲む、打つ、買う」でお金を使ってしまう。それでお母さんは、昼も夜も働かなくてはならなかった。それで彼は子どもの頃、ひとりぼっちで寂しい夕食を食べていたそうです。
 やがて彼の家は、同じように寂しい友達のたまり場になっていきました。そうして不良の道をまっしぐらに進んでいったそうです。高校一年生の時に、けんかをして相手に頭突きを食らわせ鼻の骨を折ってしまい、学校を中退することになりました。そうして暇つぶしに近所の草野球のチームに入ったそうです。ところがこれがヤクザのチームだった。そしてそのうちスカウトされて、ヤクザになったそうです。
 やがて覚醒剤に手を出し、密売をするだけではなく自分も使うようになった。そして何度も捕まり、3回懲役刑をくらい、刑務所に入りました。2回目に刑務所に入ったとき、鈴木啓之先生という、もとヤクザの牧師の本を読んだそうです。でもそのときは、その鈴木先生が本気で神を信じて牧師をやっているとは信じられなかったそうです。ヤクザの世界でまともにやっていくことのできなかった半端者が、こんどは牧師のまねでもして詐欺まがいのことをしているのだろうと思ったそうです。それで、2度目の刑務所から出所したときに、からかい半分で鈴木牧師のシロアムキリスト教会に電話をしたことがあったそうです。すると、その電話で、鈴木先生が本当にもうヤクザではないことが分かったそうです。そんなことがあった。
 そしてまた捕まって、3度目の刑務所となった。妻とも離婚寸前に追い詰められた。それで切羽詰まって進藤さんは、あの鈴木先生にダメ元で減刑嘆願書を書いてほしいと手紙でお願いした。すると書いてくれたそうです。それでお礼の意味も込めて聖書を読むことにしたそうです。そうして、聖書の最初から読み始めた。そして、旧約聖書のエゼキエル書まで読み進めたときに、その後の人生を180度変えてしまう言葉に出会ったそうです。そこにはこう書かれていました。
(エゼキエル33:11)「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」
 そのときのことを進藤先生は次のように書いておられます。‥‥「このことばは、『読んだ』というより『出くわした』と言ったほうがいいほどの衝撃を私に与えました。本を読んでいたつもりが突然、神さまに襟首をつかまれて顔と顔を近づけて直接この言葉を言われたような感じでした。−あ、大丈夫だ、やり直せるんだ。やり直そう− そう思いました。しばらくの間、その箇所から離れることができなくなり、何度も何度も読み返しているうちに、生まれて初めて味わうほどの幸福感が押し寄せてきました。独居房の中で「やった!やった!」と万歳しながら飛び跳ねて、看守に注意されたほどです。」

十字架を前に

 ザアカイの回心のこの箇所から、一週間ほどでイエスさまは十字架につけられることになります。それで、今日の箇所は、イエスさまがなぜ十字架に行かれるのかを暗に教えていると言えます。それは、「失われたものを捜して救うため」であるということです。
 私たちも失われたものでした。神さまから離れて行った者でした。しかしそのような私たちを見捨てることなく、「今日、あなたの家に泊まることにしている」とおっしゃるのが主イエスさまです。「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から」とおっしゃる主です。感謝いたします。


(2014年6月1日)



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