礼拝説教 2014年5月25日

「見えるようになる」
 聖書 ルカによる福音書18章31〜43 (旧約 イザヤ書29:18〜19)


31イエスは、十二人を呼び寄せて言われた。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。
32 人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。
33 彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」
34 十二人はこれらのことが何も分からなかった。彼らにはこの言葉の意味が隠されていて、イエスの言われたことが理解できなかったのである。
35 イエスがエリコに近づかれたとき、ある盲人が道端に座って物乞いをしていた。
36 群衆が通って行くのを耳にして、「これは、いったい何事ですか」と尋ねた。
37 「ナザレのイエスのお通りだ」と知らせると、
38 彼は、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫んだ。
39 先に行く人々が叱りつけて黙らせようとしたが、ますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。
40 イエスは立ち止まって、盲人をそばに連れて来るように命じられた。彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。
41 「何をしてほしいのか。」盲人は、「主よ、目が見えるようになりたいのです」と言った。
42 そこで、イエスは言われた。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」
43 盲人はたちまち見えるようになり、神をほめたたえながら、イエスに従った。これを見た民衆は、こぞって神を賛美した。




三度目の受難の予告

 イエスさまは弟子たちと共に、都であるエルサレムへ最後の旅を続けています。そしてエルサレムの手前にある最後の大きな町であるエリコに入る直前での出来事が、今日の箇所です。エリコというのは世界最古の町と言われています。紀元前8千年、今から1万年前には、すでに城壁で囲まれた町があったと言われます。
 そこに向かっているときに、イエスさまは弟子たちを呼び寄せて、3度目となるご自分の受難について予告なさいました。これまでの2回の予告に比べて、今回の予告はかなり具体的です。「侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、つばをかけられる」、そして「むち打ってから殺す」とおっしゃっています。すなわちこの後エルサレムに行って、いったいどの世ような苦しみをお受けになるか、主はあらかじめご存じであったことになります。そしてさらに、「三日目に復活する」と復活も予告なさっています。そのように、主イエスは、まさに十字架と復活のためにエルサレムに向かっています。
 しかしそれを聞いた12使徒は、何も理解できませんでした。なぜ三度も受難を予告されているのに理解できなかったのか? 弟子たちは、イエスさまがキリストであると信じ、やがてユダヤ人の王となられるお方であると信じてついて来たことでしょう。それが、とらえられて苦しみを受けたあげく、十字架につけられて死んでしまうということになると、それはイエスさまの働きが失敗に終わるということだとしか理解できなかったのだと思います。
 ただいまNHKの大河ドラマ「軍師 官兵衛」が毎週放送されています。主人公の黒田官兵衛はキリシタン大名となる人です。ドラマでも、まもなくキリスト教に入信するものと思われます。その戦国時代は、下克上の世の中。最近の「軍師官兵衛」でも、織田信長の家臣であった荒木村重が信長を裏切って謀反を起こしました。またそれに影響され、官兵衛の直接の主君である小寺政職(まさもと)が、信長を裏切って毛利側に寝返るということが起きました。なぜ寝返るかと言えば、強そうな方、やがて天下を取ると思われる指導者のほうに寝返るわけです。天下を取ると思われる人に、次々に人が集まってくるのです。言い換えれば、未来があると思われる方に集まっていくのです。
 イエスさまの弟子たちも、イエスさまに未来がある‥‥そのように信じてついて来ていると言えるでしょう。ところがそのイエスさまがとらえられて苦しみを受けたあげく、殺されてしまうというのでは、これは全く理解できない。何かの間違いではないかと思ったのではないでしょうか。そのように弟子たちは、頭の中が整理できないまま、イエスさまと共にエリコの町に向かって歩んでまいります。

ある盲人

 さて、そのエリコの町に近づいたとき、そこに一人の盲人が道端に座って物乞いをしていました。目が見えない。それは昔は、生きて行くのが難しいということでもありました。仕事に就けない。と言って福祉もない時代です。生きて行くためには、物乞いをするしかありませんでした。誰も好きこのんで物乞いなどしたくありません。しかし生きて行くためにはそうするより他はなかった。ここに、この人がどのような人生を味わってきたかが、垣間見えるように思います。
 彼はエリコの町の城門の近くの道端に座っていたことでしょう。町の城門の近くは、通る人も多いからです。そこにイエスさまと弟子たち、そしてイエスさまのとことに集まっていた群衆が通りかかったのです。彼はその大勢の人々が近づいてくる様子を感じ取ったのでしょう。それで「これはいったい何事ですか?」と尋ねると、ナザレのイエスさまが通りかかっているのだという。その瞬間彼は叫び出しました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください!」
 彼は繰り返し叫び続けました。それでイエスさまと共に歩いていた人々が、彼を叱りつけて黙らせようとしました。おそらく、うるさくてイエスさまのお話が聞こえないということでしょう。しかし彼はそのように止められても、ますます「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください!」と叫び続けたと書かれています。もはや、なりふり構わず叫び続けたのです。これが目が見えれば、どこにイエスさまがおられるのか分かりますから、そちらの方に向かっていけば良いのですが、彼は目が見えない。だからとにかく大声で叫び続けたのです。止められようが、なんだろうが、とにかくイエスさまに会えるまで叫び続けました。「なんとしてもイエスさまに会いたい」「この機を逃してなるものか!」そういう必死の気持ちが伝わってきます。
 たしかにこの機会を逃したら、彼が再びイエスさまに会えるかどうか分かりません。私たちはどうでしょうか。私は自分自身を振り返ってみて、そして多くの人々を見てきて、人生のうちでそんなに何度も神さま、イエスさまを信じる機会というのは訪れるものではないと思うのです。私自身、サラリーマンになってから病気で死にかけるという、あの経験をしなかったならば、イエスさまと出会っていたかどうか分かりません。「またいつか信じることにしよう。」‥‥そう思っているうちに、人生は終わってしまいます。神に出会うことがないまま。
 ですから、今、神に出会いたいと思ったら、今、求め始める。この盲人の叫びは、そのことを教えているように思います。
 するとその声を聞きつけて、イエスさまが立ち止まられました。そして盲人を連れてくるように命じられました。イエスさま法から盲人の所に行かれたのではありませんでした。このことは、イエスさまの招きに答えて、イエスさまの所に行くべきことを教えています。

何をしてほしいのか

 イエスさまは彼におっしゃいました。「何をしてほしいのか?」‥‥イエスさまならば、彼が何をしてほしいのかご存じではないのでしょうか?ご存じでありながら、なぜ彼に問われるのでしょうか?
 しかしこれは、イエスさまに向かって自分の口で言い表すことが大切であることを教えています。神さま、イエスさまはどうせ分かっておられるから、祈らなくて良いのではありません。ご存じであるイエスさまに向かって、自分の願いを申し上げることが大切なのです。
 盲人は答えました。「見えるようになりたいのです」。それはこの盲人の魂の叫びであったと言えるでしょう。「見えるようになりたい」。このあまりにも単純、率直な答えに、何か感動してしまいます。
 するとイエスさまはおっしゃいました。「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」。すると彼の目はたちまち見えるようになりました。そして神をほめたたえながら、イエスさまに従ったとあります。

あなたの信仰

 「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」‥‥この人の信仰とは、どういうものでしょうか? ただイエスさまなら、自分の目を見えるようにしてくださると信じて叫び続けただけのような気がします。まことに単純素朴です。
 私たちは、なにか「信仰」というと、とても難しいものだと考えてしまわないでしょうか。なにか「キリスト教」というと、むずかしいお話を聞いて、またむずかしい本をたくさん読んで、たくさん勉強しなければ分からないのだと思っている人が、けっこういるように思います。しかし、たとえば少し前の箇所、15節からのところで、イエスさまは乳飲み子や幼子を指して「神の国はこのような者たちのものである」とおっしゃり、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とおっしゃいました。幼子は何もむずかしいことは考えません。ただ全面的に親を信頼するように、すなおに神さまを受け入れ、神さまに信頼します。
 今日の聖書の盲人だった人はどうでしょう。とにかく、イエスさまなら何とかしてくれるとばかりに、とにかくイエスさまにお目にかかりたいとばかりに、単純素朴に叫び続けました。そしてイエスさまに出会ったのです。
 キリスト教は何も難しいものではありません。信仰とは、なにか勉強しなければならないものではありません。イエスさまを信じる、イエスさまを求めるものです。そして、彼が見えるようになると、神を賛美しながらイエスさまに従ったように、イエスさまについて行くものです。そういうことが分かります。

彼が見たもの

 念願の目が見えるようになって、彼が最初に見たものは何だったでしょうか? それは今、自分の前におられるイエスさまだったでしょう。彼は目が開けられて、まずイエスさまを見たのです! 自分の目を開けてくださったイエスさまを見たのです。そして彼はそのイエスさまに従ったと書かれています。自分の目を開けてくださったイエスさまについて行ったのです。神をほめたたえながら。それを見た民衆も、こそって神を賛美したと書かれています。なんとすばらしいことでしょう。
 彼はそのままイエスさまに従って行きました。イエスさまはその後エリコの町に入られました。そしてエリコの町を出た後、エルサレムに向かわれました。彼も、弟子たちや群衆に交じってついて行きました。そしてそこで何を彼は見たでしょうか?
 今日の出来事は、エリコの町の城門のところで起こった出来事です。エリコからエルサレムは一日で歩ける距離です。そしてイエスさまがエルサレムに入られて、その週のうちにとらえられて十字架につけられます。ということは、この時から1週間ほどでイエスさまは十字架にかけられることになります。念願の目が見えるようになり、イエスさまに従って行った彼がこのあと目にしたものは、自分の目を開けてくださったそのイエスさまが、十字架につけられて死なれる光景だったのです。自分の目を開けてくださった方が、十字架にはり付けにされる。それはとてもショッキングな光景だったでしょう。
 しかしやがて彼は知ったでしょう。このイエスさまが十字架にかかったことによって、自分は救われたのだということを。イエスさまはご自分の命と引き替えに、このわたしを救ってくださったのだと。

見えるようになる

 私たちは見えているでしょうか。イエスさまが生きておられることが見えているでしょうか。肉の目は見えているかもしれません。しかし、霊の目、信仰の目は見えているでしょうか。地上にいる私たちの肉の目ではイエスさまを見ることができません。毎日が、平凡に過ぎていくように見えます。また、困ったことや、イヤなことばかり起きてくるように見えるかもしれません。
 しかし、信仰の目が開かれたならば、そういう中にも神さまの働きを見ることができるでしょう。たとえば、昨日、いくつ感謝すべきことがあったか、思い出すことができるでしょうか。あるいはきょう、今、いくつ神の恵みを認めることができるでしょうか。感謝すべきことを見出すことができるでしょうか。「見えるようになれ」とイエスさまはおっしゃいました。神の恵みが見えるようにしていただきたいと思います。


(2014年5月25日)



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